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カウンセリングルームの重い防音扉が閉まると、外の喧騒は完全に遮断され、佐藤と白雪の二人だけの空間になった。
別室ではスピーカー越しに、鑑定士が微かな呼吸の乱れすら逃さぬよう聞き耳を立てていることだろう。
佐藤は緊張を隠すように、丁寧に紅茶を淹れて彼女の前に置いた。
鼻腔をくすぐる柔らかな香り、カップ越しに感じる温度に、佐藤はだんだんと平静を取り戻す。
マネージャーの男の、あの執着に似た気迫も気になるが、今は目の前の彼女に集中しなくては。
ヒアリングを通して、夢の質を高める。
質の高い夢は感情も抽出しやすい、鑑定士の負担を減らすことにもつながる。
仕事を始めよう。
佐藤はカップを白雪の前に置き、自分も席に着く。
「……さて。白雪さん。感情の抽出には、その『愛』が最も純粋に動いた瞬間の記憶を、夢の中で再構築する必要があります。あなたがファンの方々に、一番『愛』を感じる瞬間について、詳しく教えていただけますか?」
白雪は、先ほどまでの、太陽の笑顔を崩さないまま、滑らかに話し始めた。
「そうですね、ライブのアンコールで、会場が私のイメージカラーのペンライトで埋め尽くされる時でしょうか。あの光の海を見ていると、ああ、私はこんなに愛されているんだ、私もこの人たちを愛さなきゃ、って。胸が熱くなって、涙が止まらなくなるんです」
彼女は語りながら、優雅な仕草でカップを口に運ぶ。
だが、その瞬間、佐藤の鋭い観察眼がひとつの違和感を捉えた。
「白雪さん。今、光の海を思い出したと言いましたよね?」
「ええ、そうですけど」
「……でも、あなたの指先、テーブルの下でスカートの裾を固く握りしめています。それに、紅茶のカップを口に運ぶ時、喉の筋肉が不自然にこわばりました。まるで、熱いものではなく、毒でも飲んでいるかのように」
白雪の完璧な笑顔が、一瞬だけピクリと震えた。
「……佐藤さん、観察眼がすごいのね。でも、それはきっと緊張のせいで……」
「いいえ。あなたは『愛されているんだ』と言った時、喜びではなく、『包囲されている』という反応を示しました。瞳孔の開き方も、幸福による弛緩ではなく、逃げ場のない場所で敵を警戒する時のそれです」
佐藤は椅子を少しだけ彼女の方へ寄せた。彼の声はあくまで優しく、寄り添うような響きだった。
「白雪さん。ヒアリングを続けましょう。ファンの方は、あなたにとってどんな存在ですか?」
「……私を支えてくれる、大切な宝物です。たとえ、夜道で待ち伏せされたことがあっても、SNSで何千通もの誹謗中傷を浴びても、それは私に期待してくれているからこそ。だから、応えなきゃいけない。愛で返さなきゃいけない……」
「応えなきゃ、いけない?」
佐藤は彼女の言葉の端を、優しく、しかし確実に捕まえた。
「その『愛』を維持するために、あなたは自分にどんなルールを課していますか?」
「それは……いつも笑顔でいること。スキャンダルは絶対ダメ。彼らの理想の『白雪』を壊さないこと。もし、一人でも怒らせてしまったら……」
白雪の声が、不自然に上擦った。
彼女は無意識に自分の首元をさすっている。
「もし怒らせたら、どうなりますか?」
「……また、刺される。……あ、いえ、違うの。そんなこと……」
彼女は慌てて口を塞いだが、佐藤はすべてを理解した。
彼女が、愛の海だと言ったペンライトの光。
それは彼女にとって、自分を一斉に監視し、一歩でも踏み外せば自分を焼き尽くす、燃え盛る監視の目の群れだったのだ。
「白雪さん。……もう、いいんです」
佐藤は静かにペンを置いた。
「あなたが今まで『愛』と呼んで大切に守ってきたもの。それは、愛なんかじゃない。『これ以上私を傷つけないで』という、悲痛なまでの、極限の恐怖です」
白雪の仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
太陽のような笑顔は消え、そこにはただ、震える一人の怯えた女性がいた。
「……っ、そんなこと、ないわ。だって、私はみんなが大好きで、みんなも私を……」
「大好きだから、夜道が怖いんですか? 大好きだから、彼らが怒ることを想像して呼吸ができなくなるんですか?」
別室で聞いていた鑑定士の、低く冷ややかな声がスピーカーから響く。
『――十分だ、佐藤。鑑定終了だ。……白雪さん、おめでとう。あなたは今日、世界で最も『愛』に似た、特級の『偽造貨幣(恐怖)』を完成させた』
別室からスピーカー越しに、鑑定士の冷ややかな声が響く。
『白雪さん、残念ながらそれを愛として抽出することはできない。偽造通貨は、感情市場の信用の根幹を腐らせる。もしあなたのその、愛を装った恐怖が市場に出回れば、それを買った客は、愛されているはずなのに常に誰かに監視されているような、正体不明の強迫観念に苛まれることになる。それはもはや、通貨ではなく、精神毒だ』
鑑定士にとって、感情のラベルを偽ることは、等価交換という世界の理を破壊する禁忌だ。
「そんな……嘘です」
白雪は、震える手で自分の体を抱きしめる。
「私は、本当に彼らを愛していたはずです。そうでなきゃ、あんなに長くステージに立てるわけがない……。ファンのために流した私の涙も、歌に込めた想いも、全部偽物だったって言うんですか!?」
必死に自分を保とうとする彼女に、佐藤は机越しに身を乗り出し、彼女の震える手をそっと、しかし力強く包み込んだ。
「白雪さん。あなたは、偽物なんかじゃありません。……でも、あなたはあまりにも、優しすぎたんです」
白雪が、ハッとしたように顔を上げる。
佐藤は言葉を重ねる。
「あなたは、ファンを愛するために自分を愛することをやめて、自分の中に芽生えた、怖いという本音を、愛さなきゃという義務感で無理やり塗りつぶした。……いいですか、白雪さん。自分を殺さなければ維持できない感情を、人は『愛』とは呼びません。それは、ただの『服従』です」
「服従……」
その言葉が、彼女の心の奥底に眠っていた真実に触れたようだ。
これまで自分に言い聞かせてきた、愛という呪縛が、音を立てて砕け散る。
彼女の目から、初めて、女優の白雪ではない、一人の人間としての涙がこぼれ落ちた。
「……理解できたようだな」
タイミングを見計らったかのように、鑑定士が部屋に入ってきた。
「白雪さん。あなたが抱えていたのは、ファンへの愛ではない。ファンという巨大な熱狂に飲み込まれまいとする、極限の生存本能、すなわち恐怖だ。……だが、これは実に純度が高い」
鑑定士の瞳は、声は、表情は、変わらず冷たい。
「一つ、提案だ。だが、意に反しているのならば、聞き流してもらってかまわない」
鑑定士は佐藤にタブレットを渡す。
そのタブレットに映されている査定予想に、佐藤は思わず目を見開いた。
「これを『愛』として売るのではなく、『自己防衛型擬態慈愛』――あるいは単に『獲物としての恐怖』として抽出する。これを捨てれば、あなたはもう、彼らに怯える必要はなくなる。あなたの言う通り、次の悪女役には、誰かを愛おしむ心も、誰かに怯える心も邪魔なだけだ」
白雪は涙を拭い、顔を上げた。
売ることを決めてしまったら、もうあの太陽のような笑顔は作れなくなるかもしれない。
けれど、もう夜道に怯えることも、ペンライトの海に窒息しそうになることもない。
「……お願いします。それを、抜いてください」
彼女の決意は、ひどく静かであった。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
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