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『……深度、正常値。覚醒を許可する』
突然耳元で響いた無機質な声とともに、オレンジ色の西日が弾け飛んだ。
瞼を押し上げると、そこには図書室の埃っぽい空気ではなく、冷徹なまでに清潔な鑑定室の白い天井があった。
「ぁ……」
目を開けてもしばらく、彼女は起き上がることができなかった。
現実の真っ白な天井と、夢の中のオレンジ色の西日が網膜の上で混ざり合い、視界がちかちかと明滅する。
「……お疲れ様でした。ゆっくり呼吸してください。今、少しずつ意識が現実と同期していきますから」
佐藤が隣で静かに声をかけ、冷たいタオルを彼女の細い手首に当てた。その温度に触れて、彼女は自分が今の私に戻ったことを悟る。
「……ねえ、佐藤さん」
「はい」
「あの頃の私は、自分のことが大嫌いだったんです」
ぽつり、と。
ダムが決壊したように、彼女の唇から言葉が、涙が溢れ出した。完璧な美女という役を演じることを忘れた、疲れ切った女の声だった。
「少しでも彼に近づきたくて、必死で努力しました。でも、いくら痩せても、いくらメイクを覚えても、鏡の中の私は汚いまま。……結局、メスを入れるしかなかった」
彼女は自分の白く細い指をじっと見つめる。
「最初は嬉しかったんです。重い一重がパッチリとした二重になって。確かに、嬉しかったんです。でもそれも私は忘れていました。」
そう上向きのまつ毛が震え、瞳に影を落としていた。
完璧なEラインを描くその輪郭には、生活感という雑音が入り込む余地など微塵もない。
皮膚の下にある骨格さえもがデザインされたかのように、その横顔は滑らかだった。
光の反射さえも計算し尽くされたような鼻筋が、影一つ落とさずに凛と立っている。
代わりにそこにあるのは、研ぎ澄まされた意志によって勝ち取られた、非の打ち所のない調和だ。
その調和が、彼女の感情の渦によって、徐々に崩れていく。
「一度始めると、終わりがないんです。もっと、もっとって。気付いたらお金が足りなくなって、夜の街で笑い続けるしかなくなった。……でも、もう、三十を過ぎて。昔みたいには売れなくなって。……あはは、滑稽ですよね。美しさを手に入れたのに、それを守るためだけに、私はボロボロになった」
佐藤は何も言わず、ただ静かに彼女の話に耳を傾けていた。
その沈黙が心地よかったのか、彼女は自嘲気味に続けた。
「そんな時に、プロポーズされたんです。昔から通ってくれている、地味で、なんの取り柄もない、普段なら見向きもしないような男。……でも、もういいかなって思っちゃった。完璧で居続けるのは、もう疲れちゃって。普通の生活を送るための頭金にするなら、あの頃の純粋な恋心が、一番高く売れると思ったの」
しん、と静まり返る部屋。
佐藤が何かを言いかけたその時、天井のスピーカーから、空気を切り裂くような無機質な声が響いた。
『――話は終わりでいいか。鑑定結果が出たぞ』
鑑定士の声だった。
今の告白をすべて聞いていたはずなのに、その声には何の揺らぎも、一片の情も混じっていない、変わらず無機質な声であった。
解析室の暗がりに座る鑑定士が、長い指先でキーボードを叩く。
モニターに、波打つグラフとともに、無機質な数字が浮かび上がる。
『初恋――成分名:自己否定型執着思慕。酸化が多少進んではいるが、保存状態は極めて良好。査定額は、一〇八万二千円。』
鑑定士の声には、彼女のあの日々の痛みに対する同情など、一分も含まれていなかった。
「それだけ……ですか…」
彼女のつぶやきは鑑定士へのつぶやきか、金額に対してのつぶやきだったのか、やや難しい判断である。
「…問題がなければ、これから抽出の作業に移らせていただきます」
「…………………お願いします」
『では、抽出をはじめる』
諦めたように言葉を吐き出した彼女に被せるように、鑑定士が言った。
鑑定士の合図とともに、リクライニングベッドの傍らにある抽出器が、静かな駆動音を立て始めた。
彼女の脳に接続された電極を通じて、目に見えない記憶の重みが、細いチューブの中を流れていく。
「……あ」
彼女の口から、小さな吐息が漏れた。
それは苦しみではなく、長く背負っていた重荷を下ろした時のような、ひどく虚脱した響きだった。
チューブを通り、鑑定台の上に置かれたクリスタルのアンプルに、一滴、液体が落ちていく。
それは、夢の中で見たあのオレンジ色の西日をそのまま閉じ込めたような、透き通った琥珀色をしていた。
『抽出終了。……初恋、売却成立だ』
シオンの声が響くと同時に、彼女は再びゆっくりと目を開けた。
先ほどまで頬を濡らしていた涙は止まり、その瞳からは、痛々しいほどの執着も、消え入るような哀しみも消え去っていた。
「……終わった、んですね」
彼女はベッドから身を起こし、鏡を見ることもなく、慣れた手つきで髪を整えた。
佐藤が差し出した契約書と、百八万二千円がチャージされたカードを受け取る。
その指先はもう、一度も震えていなかった。
「ありがとうございます。これで、安心して向こうへ行けます」
彼女の微笑みは、店に来た時よりもさらに完璧で、そして恐ろしいほどに、何も入っていないように見えた。
彼女は一度も振り返ることなく、ヒールの音を響かせて店を出て行った。
琥珀色の景色の中、歩を緩めず歩く彼女の姿を、佐藤は静かに見送る。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
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