2
こびりついて離れなかった高級な香水の匂いが消え、代わりに、埃っぽくて懐かしい紙の匂いが鼻をくすぐり始める。
瞼の裏側に広がったのは、ハイヒールで歩くアスファルトではなく、履き古した上履きで踏みしめる、中学校の木の床だった。
『レム睡眠導入完了。深度、正常。……ダイブを開始する』
スピーカー越しに聞こえた冷徹な声が、もう、遠い世界の出来事のように思えた。
視界がゆっくりと開ける。
オレンジ色の西日が差し込む、放課後の図書室。
窓際で本を整理する、自分の太く短い指先が見える。
まだ、何者でもなかった頃の、惨めで、けれど愛おしい、あの夏の日の自分がそこにいた。
図書室の空気は、いつも停滞していた。
窓から差し込む西日には、目に見えるほどの埃が舞っていて、それを吸い込むたびに胸の奥が少しだけ重くなる。
ああ、そうだった。
私はこの、息苦しい場所が好きだったんだ
視線を下ろすと、そこには見覚えのある、けれど今の私が忘れてしまった醜さがあった。
日焼けして節の太い、短い指。
今の私が何百万円もかけて手に入れた、芸術品のような手の面影は、どこにもない。
あぁ、でも、この爪だけは変わらない。
深爪するまで噛み切られた、形の悪い爪。
この悪い癖だけは、わかっていてもやめられない。
仕事の時はネイルチップで隠しているから、プライベートでは酷くなる一方だった。
視線を下に落とす。
名札には、今の源氏名ではなく、嫌いで仕方のなかった本名が刻まれている。
パサパサに傷んだ髪が頬に触れる。
スカートの折り目はアイロンをこまめにかけないから変に広がってるし、シャツの袖口は黒ずんでいる。
鏡を見なくてもわかる。
今の私は、クラスのヒエラルキーの最底辺にいる、ただの地味で垢抜けないブスだ。
あぁ、みっともない。
「ーあ、ねえ。これ、返却。」
その声が聞こえた瞬間、私の心臓が、鼓膜を突き破りそうなほど大きく跳ねた。
カウンターの向こう側。
西日を背負って立っていたのは、クラスの人気者で、誰もが一度は目を奪われる少年――私の初恋の人だった。
眩しくて、直視できない。
彼の制服からは、中学生男子特有の汗の匂いと、清潔な石鹸の匂いが混ざり合って漂ってくる。
私は慌てて、自分の汚い指先を隠すようにして本を受け取った。
どうか、私の顔を見ないで。
どうか、私の心臓の音を聞かないで。
そう願えば願うほど、喉の奥が熱くなり、どうしようもない、恋という名前の毒が、全身に回っていくのがわかった。
図書委員の仕事は、放課後の週に一度。
部活動の掛け声が遠く響く中、利用者のほとんどいない図書室で、私は彼と並んでカウンターに座る。
それは私にとって、一週間で最も幸福な一時であり、同時に、心臓がじりじりと焼かれるような拷問の時間でもあった。
……隣に、いる。
わずか三十センチの距離。
彼がページをめくるたび、かすかに空気が揺れ、彼の制服の匂いが届く。
私はといえば、彼の方を向くことすらできない。
自分の横顔が、どれほど平坦で、垢抜けないかを知っているからだ。
完璧な曲線を描く彼の鼻筋。
綺麗に切り揃えられた爪。
それに引き換え、私の指先は相変わらず深爪で、握りしめた拳は汗ばんでいる。
彼と私は、同じ人間という括りでいいのだろうか。
沈黙が重なれば重なるほど、自分の醜さが浮き彫りになっていくような気がして、私は逃げるように目の前の小説に視線を落とした。
文字なんて一つも頭に入ってこないのに。
そんな私にならってか、彼もまた、自分から話しかけてくることはあまりなかった。
けれど彼は本を開く代わりに、いつも鞄から一冊の雑誌を取り出して広げていた。
ふと、視界の端にその雑誌の表紙が入り込む。
また、あの子だ。
大きな瞳に、透き通るような白い肌。
カメラに向かって無邪気に笑う、完璧な笑顔のアイドル。
彼が熱心に見入っているのは、決まってその子が特集されているページだった。
……ああ、やっぱり。彼も、こういう子が好きなんだ。
雑誌の中の少女は、私に欠けているものをすべて持っていた。
自信、華やかさ、そして愛される権利。
彼が見つめているのは、私の隣にある雑誌の世界であって、その隣に座っている肉塊のような私ではない。
その事実に胸がひりりと痛む。
でも、それさえも今の私には心地よかった。
彼が雑誌のページをめくる指先の動き、時折漏らす小さな吐息。
この静かな図書室で、彼と同じリズムで呼吸をしている。
ただそれだけのことが、死にたくなるほど惨めで、泣きたくなるほど愛おしかった。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。




