表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~  作者: ヘレン
偽りの美貌とヴィンテージの恋 

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/11

2


こびりついて離れなかった高級な香水の匂いが消え、代わりに、埃っぽくて懐かしい紙の匂いが鼻をくすぐり始める。

瞼の裏側に広がったのは、ハイヒールで歩くアスファルトではなく、履き古した上履きで踏みしめる、中学校の木の床だった。


『レム睡眠導入完了。深度、正常。……ダイブを開始する』


スピーカー越しに聞こえた冷徹な声が、もう、遠い世界の出来事のように思えた。

視界がゆっくりと開ける。

 

オレンジ色の西日が差し込む、放課後の図書室。

窓際で本を整理する、自分の太く短い指先が見える。

まだ、何者でもなかった頃の、惨めで、けれど愛おしい、あの夏の日の自分がそこにいた。


図書室の空気は、いつも停滞していた。

窓から差し込む西日には、目に見えるほどの埃が舞っていて、それを吸い込むたびに胸の奥が少しだけ重くなる。


ああ、そうだった。

私はこの、息苦しい場所が好きだったんだ


視線を下ろすと、そこには見覚えのある、けれど今の私が忘れてしまった醜さがあった。

日焼けして節の太い、短い指。

今の私が何百万円もかけて手に入れた、芸術品のような手の面影は、どこにもない。


あぁ、でも、この爪だけは変わらない。

深爪するまで噛み切られた、形の悪い爪。

この悪い癖だけは、わかっていてもやめられない。

仕事の時はネイルチップで隠しているから、プライベートでは酷くなる一方だった。


視線を下に落とす。

名札には、今の源氏名ではなく、嫌いで仕方のなかった本名が刻まれている。

パサパサに傷んだ髪が頬に触れる。

スカートの折り目はアイロンをこまめにかけないから変に広がってるし、シャツの袖口は黒ずんでいる。

鏡を見なくてもわかる。

今の私は、クラスのヒエラルキーの最底辺にいる、ただの地味で垢抜けないブスだ。


あぁ、みっともない。


「ーあ、ねえ。これ、返却。」


その声が聞こえた瞬間、私の心臓が、鼓膜を突き破りそうなほど大きく跳ねた。

カウンターの向こう側。

西日を背負って立っていたのは、クラスの人気者で、誰もが一度は目を奪われる少年――私の初恋の人だった。

眩しくて、直視できない。

彼の制服からは、中学生男子特有の汗の匂いと、清潔な石鹸の匂いが混ざり合って漂ってくる。

私は慌てて、自分の汚い指先を隠すようにして本を受け取った。


どうか、私の顔を見ないで。


どうか、私の心臓の音を聞かないで。


そう願えば願うほど、喉の奥が熱くなり、どうしようもない、恋という名前の毒が、全身に回っていくのがわかった。


図書委員の仕事は、放課後の週に一度。

部活動の掛け声が遠く響く中、利用者のほとんどいない図書室で、私は彼と並んでカウンターに座る。

それは私にとって、一週間で最も幸福な一時であり、同時に、心臓がじりじりと焼かれるような拷問の時間でもあった。


……隣に、いる。


わずか三十センチの距離。

彼がページをめくるたび、かすかに空気が揺れ、彼の制服の匂いが届く。

私はといえば、彼の方を向くことすらできない。

自分の横顔が、どれほど平坦で、垢抜けないかを知っているからだ。

完璧な曲線を描く彼の鼻筋。

綺麗に切り揃えられた爪。

それに引き換え、私の指先は相変わらず深爪で、握りしめた拳は汗ばんでいる。

彼と私は、同じ人間という括りでいいのだろうか。

沈黙が重なれば重なるほど、自分の醜さが浮き彫りになっていくような気がして、私は逃げるように目の前の小説に視線を落とした。

文字なんて一つも頭に入ってこないのに。

そんな私にならってか、彼もまた、自分から話しかけてくることはあまりなかった。

けれど彼は本を開く代わりに、いつも鞄から一冊の雑誌を取り出して広げていた。

ふと、視界の端にその雑誌の表紙が入り込む。


また、あの子だ。


大きな瞳に、透き通るような白い肌。

カメラに向かって無邪気に笑う、完璧な笑顔のアイドル。

彼が熱心に見入っているのは、決まってその子が特集されているページだった。

 

……ああ、やっぱり。彼も、こういう子が好きなんだ。


雑誌の中の少女は、私に欠けているものをすべて持っていた。

自信、華やかさ、そして愛される権利。

彼が見つめているのは、私の隣にある雑誌の世界であって、その隣に座っている肉塊のような私ではない。

その事実に胸がひりりと痛む。

でも、それさえも今の私には心地よかった。

彼が雑誌のページをめくる指先の動き、時折漏らす小さな吐息。

この静かな図書室で、彼と同じリズムで呼吸をしている。

ただそれだけのことが、死にたくなるほど惨めで、泣きたくなるほど愛おしかった。



本日の感情残高はいかがでしょうか。

この物語は、感情が価値になる世界のお話です。

これからよろしくお願いします。


この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ