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感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~  作者: ヘレン
羨望のプリズムと灰色のフィルター

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「……いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」


佐藤の声は、防音材が敷き詰められた静寂な廊下に吸い込まれていった。

客は、周囲を執拗に警戒しながら、佐藤の案内に無言で従った。

時折、自分の影にさえ怯えるような彼女の挙動はどこか縮こまっている。


案内したのは、鑑定所の心臓部へと続くヒアリングルームだ。

窓のない、無機質な空間。

佐藤は客の向かい側に座り、手元の端末を起動させた。


「まず、お名前……いえ、呼び名を。それから、今日こちらへ相談に来られた理由を聞かせてください」


「……ミアよ。ミア・カグラ。あんた、私のこと知らないの?」


彼女はフードを脱ぎ、挑発するように俺を見た。

整った顔立ち。

だが、肌は土気色で、瞳には病的な焦燥が宿っている。


「……ええ。申し訳ないですが、この手の仕事をしていると、俗世の流行には疎くなるもので」


佐藤は正直に答えた。

正直、SNSというものがよくわからない。

自分の一日の食事や、加工した自撮りを不特定多数に晒して何が楽しいのか。

佐藤にとってのミアは、ただのやつれた一人の客でしかなかった。


「……そう。それならいいわ」


彼女は吐き捨てるように言うと、一台のスマートフォンをテーブルに置いた。


その瞬間、部屋の静寂は死んだ。


『――ピコン。――ピコピコピコン。』


狂ったような通知音。

画面は絶え間なく明滅し、濁流のような文字が下から上へと流れ去っていく。


『死ね』

『詐欺師』

『謝罪動画の顔、最高にブスだったよ』


「これよ……これが、今の私のすべて。二十四時間、一秒も欠かさず、世界中からナイフが飛んでくるの。……佐藤さん、助けて。私、もう壊れちゃう」


ミアは、自分の指先を血が出るほど強く噛んでいた。


「一週間前まで、私はこの世の春を謳歌していた。でも、たった一回の不用意な発言が流出しただけで、世界は反転した。あいつら、私がどん底に落ちるのを虎視眈々と狙っていたのよ! ……だから、佐藤さん、買い取ってよ。このスマホの向こうにいる、何万ものクズ共の悪意を全部、金に変えて!」


佐藤は、彼女の必死な形相に一瞬気圧された。

まともに食事も取れていないのだろう、きっと睡眠も。

スマホ画面の彼女と比べて頬はやつれ、髪も肌も艶をなくしており、目は少し充血している。


「炎上も落ち着いて、フォロワーも戻ってくる!きっと私はまた、やり直せるの!」


だが。


「……ミアさん。お気持ちはわかりますが、それは不可能です。このシステムのルールにより、他人の感情を本人の同意なく抽出・換金することはできません」


「……は? なんでよ。あいつらが私を攻撃してるのよ!? 私は被害者なのよ!」


「感情は個人の固有財産です。例え醜悪な殺意であっても、それは彼らのものだ。……それが、この世界の絶対的な所有権のルールです」


「そんな……。じゃあ、私は……私はこの悪意を、死ぬまで浴び続けろって言うの!?」


ミアは立ち上がり、テーブルを激しく叩いた。

彼女の叫びが、狭い部屋に反響する。

あまりに無力な自分の立場に、佐藤は奥歯を噛み締めた。

せめて、彼女が少しでも落ち着けるように。

佐藤は、いつの間にか冷めていた彼女のハーブティーを新しいものに替えるため、椅子を引いた。


その時だ。


『――佐藤。無駄な同情で時間を浪費するな。その女に、現実コストを見せてやれ』


天井のスピーカーから、空気を凍りつかせるような声が響いた。

鑑定士だ。


「……現実?」


『ミア。お前は自分の精神がまだ、耐えられると錯覚しているようだが、私の解析データは嘘をつかない』


部屋の壁に設置されたモニターに、ミアの脳波とバイタルデータが映し出された。

複雑なグラフが、激しく上下している。


『現在のコルチゾール値は限界値を200%上回っている。このままあと48時間、その通知を浴び続ければ、お前の海馬は不可逆的な萎縮を起こす。……要するに、お前は、何も感じなくなるのではなく、思考能力そのものを喪失し、廃人になるということだ』


ミアの顔から、一気に血の気が引いていく。


『キャリアの再起? 不可能だ。一度失墜した偶像の資産価値は、もはや負債でしかない。お前が抱えている承認欲求というエンジンは、すでに過回転で焼き切れているんだ。……選択肢は二つ。すべてを失って壊れた肉塊になるか。あるいは、その故障したエンジンを私に売って、八桁の現金を手にし、静かな余生を送るか。どちらが合理的か、猿でもわかるはずだ』


「……そんな……。じゃあ、私は、もうおしまいだって言うの?」


ミアの声が震える。

鑑定士のプレゼンは、彼女の最後の希望――「いつかまた、愛される自分に戻れる」という幻想を、完膚なきまでに叩き潰した。


「……ミアさん」


佐藤は、彼女の震える肩に、そっと自分の手を置いた。

鑑定士のような論理的な言葉は持たない。

SNS上での彼女の価値も知らない。

ただ、目の前で泣きそうな顔をしている、この痩せた肩の熱が、少しでも和らげばいいと思った。


「正直、俺にはあなたの言っているフォロワーや炎上の重みはわかりません。でも、あんな機械の中にいる顔も見えない人たちのために、あなたが壊れる必要はないと思うんです」


ミアが、驚いたように俺を見上げた。


「……あんた、本当に私のこと知らないのね。何十万もの人間が、私の一言に熱狂してたのよ?」


「すみません。俺にとっては、今ここで震えているあなたの方が、よっぽどリアルですから」


佐藤は、彼女のカップに新しいお茶を注いだ。


「……鑑定士の言うことは、いつも冷酷です。でも、間違ったことは言わない。……逃げてもいいんですよ。あなたがあなたで居続けるために、重すぎる荷物を下ろすことは、決して負けじゃない」


ミアは、佐藤の手の温もりを確かめるように、一瞬だけ視線を落とした。

それから、彼女は震える手でスマートフォンを手に取り……電源を切った。

暗転した画面。

そこには、加工されていない、疲れ果てた彼女の素顔だけが映っていた。


「……わかったわ。買い取って」


ミアは、消え入りそうな声で、しかし明確に拒絶を口にした。


「この……私を焼き尽くそうとする感覚を、全部抜いて。……お願いします。」


『……賢明な判断だ。佐藤、そいつをダイブ室へ。最高級の業を、調理してやろう』


鑑定士の言葉が響く中、俺は彼女を支えるようにして立ち上がった。


「行きましょう。大丈夫です。……終わったら、また温かい飲み物を淹れますから」


ミアは、一瞬だけ佐藤の手を強く握り返した。

彼女はもう、スマホの画面を見ることはなかった。

ただ、一人の人間として、自分の魂の一部を切り捨てるための、深い深淵へと足を踏み出していった。



本日の感情残高はいかがでしょうか。

この物語は、感情が価値になる世界のお話です。

これからよろしくお願いします。


この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。


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