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感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~  作者: ヘレン
羨望のプリズムと灰色のフィルター

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「――佐藤。淹れ直せ」


アンティーク調の重厚なカウンター越しに、低く冷淡な声が響いた。

店内の空気は、古い紙の匂いと、目に見えない無数の想いが沈殿したような、独特の重みを孕んでいる。

窓の外は近代的な高層ビルが立ち並ぶ都市のはずだが、この扉を一枚隔てた空間だけは、時間の流れが数十年、あるいは数百年分ほど後ろにずれているような錯覚に陥る。


「……またか。今日だけでもう三回目。温度も蒸らし時間も、前教えてもらった通りにしたはずだけど」


俺――佐藤は、手元にある使い込まれた銅製のケトルを置き、小さく溜息をついた。

客の前では丁寧な言葉を心がけているが、この偏屈な鑑定士と二人きりの時は、わざわざデスマス口調で話すほど俺の心は広くない。


「前回と同じにしたから不味いんだ。……今日の湿度は昨日より四パーセント高い。気圧も下がっている。それなのに昨日と同じ淹れ方をして、同じ味が出ると思っているのか。お前の脳は、装飾品として頭蓋骨に収まっているのか?」


「相変わらず、言うことがいつも一言二言多いんだよ。……わかった、やり直す」


俺は、棚に並んだ古びた、しかし一点の曇りもなく磨き上げられた茶器に手を伸ばした。

この鑑定所の待合室は、カフェスペースを兼ねている。

並べられたアンティークの家具や調度品、そして用途のわからない年代物の顕微鏡や試験管に至るまで、誰の趣味かは知らないが、すべてが完璧な秩序を持って配置されていた。

俺が触れていいのは、飲み物を淹れるための器具だけだ。

それ以外――例えばあの、常にレンズが磨き抜かれた顕微鏡のピント一つにしても、俺が勝手に弄ることは許されていない。

鑑定士自身が、夜な夜なこまめに手入れをしているのだろう。

あの合理主義の塊のような人が、古い無機物を愛でる姿は想像するだけで奇妙な感覚になる。

俺は棚から、アッサムの茶葉を取り出した。

今日の鑑定士のオーダーは、ミルクをたっぷり入れたフレイバーティー。

それも、ただのミルクティーではない。


「はい。淹れ直したよ。……アッサム・セカンドフラッシュ。少し長めに蒸らして、ボディを強く出した。そこに温めた濃厚なミルクと、隠し味に自家製のジンジャーシロップを数滴。これなら文句ないだろ」


目の前の黒いテーブルにカップを置く。

鑑定士は手元のタブレットからようやく視線を上げ、細く長い指でカップの持ち手を掴んだ。

一口、その琥珀色の液体を喉に滑らせる。


「……生姜の辛味が、気圧による脳の膨張をわずかに鎮める。及第点だ」


「どうも。……で、そのタブレットで何を見てるんだ? ずっと眉間にシワが寄ってるけど」


そう声をかけると、せっかく緩んだ眉間に再び皺がよった。


市場マーケットの動向だ。最近、質の悪い承認欲求が溢れすぎていて、感情通貨の価値が不安定になっている。……佐藤、お前もSNSとかいう不毛なゴミ捨て場で、自分の日常を切り売りする趣味があるなら今のうちにやめておけ。あんなものは、精神の露出狂が、空虚な称賛という名の偽造通貨を奪い合っているだけの、掃き溜めだ」


鑑定士は、紅茶を楽しみながらも言葉の毒を緩めない。

彼はタブレットの画面を俺の方へ向けた。

そこには、無数のグラフや数値が並んでいる。

俺には理解できない専門的なデータだが、この奥にある分析室――鑑定士専用の、モニターが整然と並ぶ無機質な部屋で、日々こうして世界中の感情を計算しているのだろう。


「俺はやってないよ。見るだけで疲れそうだし。……でも、そんなに価値が下がってるなら、商売あがったりじゃないか?」


「逆だよ、馬鹿め。供給過多になれば、真に純度の高い感情は希少価値が上がる。……例えば、自分の意志で、あえて地獄に身を投じるような狂気とかな」


鑑定士は、ふっと口角を上げた。その冷ややかな微笑みに、俺は少しだけ肌寒さを感じる。

このカフェスペースの奥には、俺が客の言葉を拾うヒアリングルームがある。

さらにその奥には、感情を覗き込むためのダイブ室。

そして最奥に、彼の聖域である分析室。

ここは、人が誰にも言えない秘密を金に変え、過去を清算するための終着駅だ。


「……また、誰かの人生を解体する準備か?」


「解体ではない。不必要なパーツを取り除き、適正な価格をつけてやっているだけだ。……感謝こそされ、恨まれる筋合いはない」


鑑定士が再びタブレットに目を落とそうとした、その時。


――カラン、カラン。


静まり返った店内に、乾いたドアベルの音が響いた。

それは、新しい剥き出しの心が運び込まれた合図だ。

俺は瞬時に、無駄な会話を切り上げる。

表情を職員のものへと整え、入り口へと向き直った。


「いらっしゃいませ。……感情鑑定所へようこそ」


入ってきたのは、深いフードを被り、周囲を病的に警戒する一人の女だった。

その手には、まるで時限爆弾でも握っているかのように、一台のスマートフォンが強く握りしめられていた。



本日の感情残高はいかがでしょうか。

この物語は、感情が価値になる世界のお話です。

これからよろしくお願いします。


この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。

面白い、続きが気になると思っていただけましたら、

☆評価やブックマークという“感情通貨”を少し分けていただけると嬉しいです。


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