フローケン・ヨークルフロイプ
氷の魔物にとって、夏は死の季節だ。
そんなことはわかっていたけど、抜けるような青空を見ながら死ねるならまだしも、どんよりと曇った空の下、湿気を感じる暑さの中で不快指数MAXの死を迎えるなんて最悪である。
ひっきりなしに鳴き続ける蝉の声が、何だか頭をぼーっとさせるようで集中できない。
私は……以前は現代日本の一般人女性だったと思うけど、名前も顔も思い出せない……信じられないことに今、どこぞの異世界で氷の魔物に転生してしまったらしい。
らしいというのは、まだ意識が戻って数分しか経っていない上に、手も足も動かせない状態でうまく周囲を確認できないからだ。
私は確かに人間だったと思う……
それも、平均より少し恵まれない個体だったのではないか。
楽しい記憶も少しはあったような気がするけれど、別に元の世界に未練があるほど充実していたとも思えない。
本来なら、異世界転生で新しいやり直し人生を満喫できるラッキーな展開だと思うのだけれど、転生した途端人生終了というのは流石に運が悪すぎる。
動けないのは生まれたばかりだからかな?
なんて……前向きに想像してみたりもしたけど、どう考えても長い手足にかかる引力の重さと、溶けるような気怠さや顔にかかる髪の長さは新生児のイメージとは異なる。
じゃあ確認できないのに何故、氷の魔物になったなんて自覚できるんだと言われると、これはもう感覚的なものでしかない。
なんというか、一応意識はあるものの、半分幽体離脱しているというか、客観的に自分を見ている自分がいるのだ。
完全に主観的な感情のまま、ワケもわからず死ねたら良かったような気もするが、もう第三者目線になってしまっているので「あ、死ぬなコレ……」と冷静に経過を観察するのみ。
もしも身動きが取れたら、日陰に入るとか氷を探すとか、なにか対処ができるかもしれないけれど……
まあ、指一本も動かせないので無理だろう。
誰かに見つけてもらえたら救助されるかもしれないけれど、魔物だしなぁ……
トドメを刺される可能性の方が高いのではないか?
そう考えると、この場所が人通りの多そうな街道の近くではなく、人っ子ひとり居ない山の中腹であることはラッキーの範疇と言える。
もっと情報が欲しいところだけど、仰向けならまだしも、うつ伏せに倒れてしまっているので見える範囲は非常に限定的だ。
はぁ……どうせ死ぬなら気絶したまま知らないうちに死にたかった。
なんでこの最悪な状況で意識だけハッキリしているのか……
チチチ……と小鳥らしきものが頭上を飛んでいく声がする。
こんな状態じゃなければ、のどかな自然を楽しめたのだろうか?
でもな……私暑いの苦手だし、どっちみち文句を言いながらヘロヘロになっていたかもしれない。
ゆるい風が、草の匂いを運んでくる。
もしかして……雨、降る感じかな……?
眠くもないし、困った……
不意に、小さなバッタが顔にぶつかってきた。
瞼を閉じると、ガラスのような透明の何かが眼球を覆い、視界がキュルンと瑞々しいような気分になった。
この感覚も、私が氷の魔物だと自覚する要因のひとつだ。
氷じゃないなら多分ガラスの魔物だけど、もしガラスだったとしたらこんなに溶けていないだろう。
バッタは、私の溶けた水分に足を取られたのか、ワタワタと足をばたつかせながら視界から流れ落ちていく。
虫の体表面には油分があって、基本的には撥水機能がついているはずだけど……
残酷な小学生時代には、そんなことを学校で習って、食器用洗剤を溶かした水にいろいろな虫を沈めて遊んだ。
界面活性剤の影響で、気泡ができず、浮いていられなくなるのだ。
大人になってからは、めんつゆトラップでだいぶコバエを殺生した。
こんな私だけど、あのバッタが無事だといいなと思う。
おかしな話。
死ぬ寸前には、できるだけ身綺麗でいたいという我儘な考えだ。
しばらくすると、ぴょんと飛んでいく小さなバッタが視界に入ってホッとする。
私のせいで死ななくて良かった。
あんな小さなバッタだし、どうせ1年も生きられないと思うけど。
それどころか、もう明日には捕食者に食べられてしまうかもしれないけど、今はとにかく私のせいで死ななくて良かった。
泣きたいワケじゃないけど、目から液体がとめどなく流れ出る。
ああ、目が溶けるって表現はこれか……
なんて思っていると、急に視界が転がって草がすぐ目の前に見えた。
え? 何? なんで??
瞼を閉じようとして、もうなくなっていることに気づく。
あ……マズい……これヤバい。
眼球……落ちたな?
そんなことってあるんだ!
なんか、逆に感動。
目って、ホントに溶け落ちるんだ……!
ビックリした〜!
なんだろ……笑えてきた。
どうせ死ぬんだし、どこまで意識があるか、こうなりゃ粘ってやる!
今、どうなってんのかな? 私。
眼球と視神経はいつまで繋がってるんだろう?
視界はもう動かない。
でもいい感じに目玉が上向きに転がったので、さっきより見える範囲は広がったかも。
痛くないのは、エンドルフィンの効果なのかな……?
それとも、魔物だから?
まあどっちでもいいや。
全然痛くない。その事実が大事だね。
人生のQOLを上げるのは、なんたって痛み止めなのだ。
痛くないの大事。
何事も無痛でいきたい。
あれ……?
足音と振動……何かの鳴き声もする……
あ……これは……とうとう終わったかな?
なんか来たみたい……
私を食べるのかな?
まあ、最後くらい誰かの役に立つのもいいかもね。
……痛くないといいな。
◇◆◇・・・◇◆◇・・・◇◆◇
「マーヤークさん! こっちにもありました!」
「ムー!」
「さすがミドヴェルト様、見つけるのがお上手ですね」
近づいてきたのは2人と一匹……犬の散歩かな?
それにしては鳴き声が変だけど……まあ異世界だし、こんなこともあるか。
ワンちゃんに食べられちゃうよー。
飼い主さん、ちゃんとリード引いてくださいね……?
私を食べてワンちゃんがお腹壊さなきゃいいけど……
あ、視神経切れた。このタイミングで真っ暗か……せめてどんなワンちゃんか見たかったな。
おお? クンクン来ない……よっぽど躾がいいか、それとも飼い主さんが抱っこしてくれたのか?
「しっかし……『氷拾い』って大変ですね。毎年こんなふうに氷の魔物さんが溶けてしまうんですか?」
「夏の風物詩ですから。氷の魔物が溶けた水は、大地を潤し質の良い魔力を生み出します。畑に撒けば、作物の成長速度が格段に上がると言われていますし、ひと夏を乗り越えられた氷の魔物は、たいてい次の年も生き残れますよ」
「なるほど……氷の魔物さんは基本的にレベルが高くて全体的に強いイメージでしたが、弱くて小さい方々は、こうして夏に溶け切ってしまうから居ないだけだったんですね……」
な、なんか怖いこと言ってる……?
でも、そうか……氷の魔物って、生きてようが死んでようが役に立つんだ……
なら、安心かな。
私は無意味に転生したワケじゃないんだきっと。
「ムー!」
「あ、フワフワちゃん、駄目だよ!」
ふーん、ワンちゃんの名前『フワフワちゃん』っていうんだ。カワイイね。
見えないけど……フワフワってことは、ポメ系かな? それともビションフリーゼとか? 普通にトイプー?
なんか、ぴょんぴょん飛び跳ねてる?
風圧と振動が……思ったより大型犬?
フワフワで大型……?
アフガンハウンドとか? ゴールデンレトリーバーだったりして。
そういえば、高校の友達だったマーちゃん家では、おっきくて真っ白なピレネー犬を飼ってたっけ。
あの子もすごくフワフワだった……
んー……でも割と夏は納豆臭かったんだよなぁ……
犬って、体臭がなぁ……
そういえば、この子は全然匂わないけど……ただ、私の鼻が終わってるだけかもしんないし、本当のトコロはもうわからないね。
「目も舌も消失……だいぶ溶けていますね。まあでも核が無事なら再生するでしょう。とりあえず氷室に運びます」
「え、このまま移動するんですか? 酷いです! 早く霊樹の蘇生薬を使ってあげてください!」
「蘇生も何も……これはまだ死んでいませんよ?」
「え!? この状態で!? 九相図で言ったらだいぶ最後のほうみたいになってますけど……」
「クソウズ……?」
「あ、いや、何でもないです……」
「ご心配には及びません、ミドヴェルト様。氷の魔物はアンデッド寄りの存在でございまして、核と水さえあれば再生が可能となっております。ただし、上質な氷を形成するためには多少時間がかかりますので、氷魔法で保護的な処置を施すのは戦場でのみ許可されており……」
「わ、わかりました! すみません、マーヤークさん。何も知らないのに勝手なこと言っちゃって……」
「いえ、ご説明が遅れまして、こちらこそ失礼いたしました」
なんだか私は助かるみたいだ……でも、そっか……私ってアンデッド寄りなんだ……
別にいいけど、変な気分。
マーヤークさんとミドヴェルト様ね。よし、覚えとこ。
無事に再生したら、ご挨拶に行かなきゃ……
お読みいただき、ありがとうございました!
こちらの世界観は、「空間をあらわすもの」シリーズと同じ座標と時間軸の作品となっております。
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