雲雀編(2)
3/21まで毎日午前8時、雲雀編2話と嫁取り編3話を公開します。話の都合上、嫁取り編(3)は大変短いのでご容赦ください。
ずっと後になって、大輪家の要人が秋葉屋仁左衛門に耳打ちした事情が、亜里沙を通じて十橋家に伝わった。この冬の戸塚は金欠であった。家中の者が目をぎらぎらさせるほどであれば、後先のない侵略に出るところであったろう。しかし今年の年貢換金まで乗り切ればなんとかなりそうであり、飯綱の術者も気になるので、戸塚は限定的な出兵をすることにしたのであった。
火術者を失った飯綱家は籠城するしかなく、戸塚勢は城下で少々の火付け略奪を行って、やがて現れた太刀谷の増援と三日ほどにらみ合ったあと、さっさと兵を引いた。そろそろ農兵が春の植え付けを気にし始める頃合いだったから、反対はなかった。
「両名とも、よう致した」
わずかだが戦死者や、もう戦えない重傷者が出た。その家族の手前、帰還した兵吾たちを迎えた龍吾は難しい表情であったが、ねぎらいの酒宴たけなわになって席を立ち、兵吾と厳斎のそばに寄ると上機嫌な顔を見せた。
「このような仕儀となるなら、身共が功名を立てに行くのであったわ。いや、運良きことは長生きの秘訣よ」
龍吾がことさらに陽気で、兵吾の幸運を口にするのは、謙吾の気を鎮めているのであろうと兵吾は思った。術者を使わず術者を打ち破るのは大功である。兵吾への輿望が集まりすぎると家が揺れるのである。
がやがやと酔漢たちがうるさく、密談にはいい環境だった。龍吾は声を低めた。
「戸塚の軍監は居らなんだと聞いた。まことか」
「後から追いついて参りまして、我らをほめちぎって帰ってゆきました」
「ちっ」
龍吾の舌打ちは酔いも手伝って大きかった。
「十橋は丸ごと戻らぬ廟算(戦争前の目算)であったかよ。術者のむくろは飯綱に持って行かれたが、討ち取ったことは認めたのじゃな」
「それは確かに。徒士どもに聞こえるほどの声でほめておりましたゆえ」
軍監は武士や勢力の手柄を現地確認するのが基本的な仕事だから、先陣の十橋勢に随行していなければならなかった。十橋から戸塚へ抗議をすれば、軍監は切腹ものなのである。だがおそらく、軍監を巻き添えにするのを惜しんだ戸塚の意向であろう……と龍吾は見ているようだった。
龍吾は顔を近づけ、声を低くした。
「戸塚から婿入り話があるやもしれぬ。うかつに返事をするな。安売りはせぬぞ」
「御意」
三男は女子と同様、家と家をつなぐ婿入り候補である。有能ならば戸塚家は傘下豪族か譜代にあてがい、遠回しに十橋の力をそごうとするかもしれなかった。それを頭ごなしに拒否できるものではないと、兵吾もわかっていた。
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兵吾が亜里沙に冷や汗をかかされ、山葵小屋の一件が片付くと、もう春であった。海風の持ち帰った情報は、向田甚太の家族については正しかったから、兵吾は甚太の妻と息子を迎えにやらせ、新村に住まわせた。村に溶け込む道は遠いとしても、ここでやってゆくしかない村人が三人増えたことは、山葵小屋事件の確かな果実だった。
口が増えたので甚太は稼がねばならない。もと上士であるならひととおりの心得はあるかと、冬の合戦で戸塚家から恩賞として下げ渡された征国の大太刀を研がせてみたが、上々の出来であった。長めで重い大太刀は馬上刀であり、馬を惜しんで下馬戦闘が多くなった近年では床の間のための武器になりつつあったが、使ってみようかと思うほどには上物であった。もっと短い刀に直される大太刀も多かったが、戸塚家は蔵をあさって上物の大太刀を見つけると、直しもしないで安上がりの褒賞としたようであった。
「身共も、拝領の脇差を研いでもらうか」
「それはよいな」
村長役宅で兵吾と雑談する儀次郎の腰には、龍吾からもらった無銘の脇差があった。危険な森に突っ込んだ十騎を差し置いて、息子を救った儀次郎だけほめるわけにはいかないから、宴会で酒に酔ったふりをして龍吾が授けたのであった。上に立つと色々と難しい。まあ記念品のたぐいで、当主の差料にふさわしく美麗な外装ながら、特に高価な刀身ではなかった。
刀剣や槍は頻繁に捕獲されるが、折れたり曲がったりして、すぐ使える状態とは限らない。十橋荘の規模では鋼から刀を打てる刀工は住んでいないが、野鍛冶が武具の修繕を引き受け、捕獲品を少しずつ実用品に戻していた。大規模動員ができない農繁期は、そうした兵備の時期でもある。
「太吉と言ったか。息子の方はどんな様子だ」
「今度聞いておこうか」
甚太の息子である太吉は、数えで十才であった。手っ取り早く何か稼ぎ口にありつけるように、弥助に罠や網を使う猟を教わり始めていた。甚太と妻で研ぎ仕事や雑用を引き受けて、村人から野菜などをもらって暮らしの足しにしていた。
村の周りの田地で、雲雀がうるさく鳴きたてていた。春はまだ浅く、蛙の声は聞こえなかった。
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「お師匠は、もっと大きなお家に仕えようとは、思われないのですか。あっ申し訳ございませんっ」
鳥猟に使う網を縫っている太吉は、何気ない一言に弥助が鋭い目を向けたので縮こまった。
「言葉に気をつけなさい。いまの一言、聞かれれば命が縮む場所もある。俺の命も縮むかもしれんな」
背中を丸めてしまった太吉を見て、弥助も呼吸を鎮めた。
「術者抜く馬鹿、馬を射ぬ馬鹿という言葉がある。昔は馬に弓矢を向けるのは卑怯という考えがあったが、卑怯でも生き残らねばならぬから、今は馬で近づく方がうかつだとされている。他家から無理に術者を引き抜くとどうなるか、わかるか」
「……わかりませぬ」
「俺の生きてきた世界では、力ある者が弱い者を傷つけること、いじめることが強く禁じられている。もし露見すれば、力ある者も世間の噂になり、お上もそれを罰するしかなくなる。そのような世界では」
弥助はすっかり手を止めていた。
「天道に反する行い、人に損をさせる嘘といったものに不満を言うことが当たり前になる。そして異世界人同士はそれを当然と思うから、手を貸すこともある。そうなると、無理な引き抜きから袋叩きが始まって、大身のお家も簡単に乱れる」
太吉はすっかり硬い表情をしていたが、弥助の言葉は止まらなかった。
「だから情に訴えて、搦め手から来るのだ。護堤様を婿に取って、護堤様から俺を誘わせることを、もう戸塚様あたりは考えているかもしれぬ。おっと、もう少し精を出そうか。天候の変わらぬうちに、明日は網の仕掛け方を教えたいからな」
太吉はうなずき、小屋に沈黙が戻ってきた。
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馬上の旅であっても、他領となると徒歩の供回りも必要になる。大輪家の村松城下まで、新村から片道三日というのは、かなりの急ぎ旅であった。秋葉屋の本店に着いたとたん、地べたに座り込んだ者もいた。
だが兵吾はのんびり休んでもいられなかった。新村を空けてここまで来たのである。仁左衛門が気を遣って、大輪家の渉外担当者たちを訪れて顔をつなぐ段取りを整えていたから、急いであいさつに回らねばならなかった。
とはいえ夜になると、仁左衛門と差し向かいで夕食になった。大輪家から見れば小豪族の三男坊だったから、宴席に呼んでくれる村松の要人がいなかったのである。仁左衛門もまた、余人を呼ばなかった。明かりを灯して遅い夕食を取るのは、この時代にはぜいたくだった。
転生者が好んで食ってきたせいで、宗教的な獣肉への忌避はなくなっていたが、誰でも気軽に食える安い食材ではなかった。分厚い牛焼肉と澄み酒を兵吾は言葉少なく堪能し、仁左衛門は気づかない顔で相伴した。
「じつは、こちらでお尋ねしたいことがあって、滞在にご無理を申し上げました」
「そうであろうと思っておりましたよ」
仁左衛門は兵吾の盃に銚子から酒を注いだ。
「義姉上は、どうして我が十橋を選ばれたのでしょう。聡明な義姉上であれば、どことでも繋ぎ役を務められるでしょう」
「そのことですか。秋葉屋は大輪様とお取引がございますが、ご威光のおこぼれを頂いておりますので、村松の皆様からは正直な本音を聞けないのでございますよ。十橋ほどに離れておりますと、本当の作柄、本当の評判、本当の憂いが耳に入りますので、それを娘から聞き取っております」
そう。それはいわば仁左衛門の公式説明であり、仁左衛門が中村に出向いた折に兵吾も聞かされたことがあった。
「先日の山葵小屋騒動で、ふと思ったのです。義姉上が十橋におられることで、おできになることがひとつあります。これは秋葉屋様が十橋においでの時には、お聞かせ頂けない話で」
「ほう」
仁左衛門が笑みを消した。
「村松の秋葉屋様はご用達の大店です。しかし大輪家そのもののご機嫌を損ねたとき、無事な場所はありません。この地の者であれば遠縁を頼って逃げ延びます。秋葉屋様にとっての十橋は、そのようなところかと」
兵吾は盃をぐいっと干した。酒に勢いを借りるようであった。秋葉屋は黙ったまま、次の一言を聞き漏らすまいとするようだった。
「山葵小屋に秋葉屋様が人を入れて調べられた件、あのとき何か仕掛けておられませんか。危急のさい、山葵小屋にご一家が逃げ延びるのが容易になるような、術者だけが使える何かを」
秋葉屋の笑いは、兵吾が見たこともないものだった。快哉のようでもあり……「悪い笑い」のようでもあった。そして平伏しながら首は上目遣いに兵吾を向き、仁左衛門は言った。
「どうか、末永く十橋におとどまりくださいませ。護堤様の嫁御寮は、いかようなお望みにても仁左衛門がお探しいたします」
「いや、それと、これとは」
あわてる兵吾に仁左衛門は愉快に笑い、兵吾もつられた。
雲雀編 了