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雑兵元帥編(3)


「かからぬのう」


 大輪兼治は、釣り糸に魚が食いつかぬのを嘆く口調で、兵吾から何の申し伝えもないことを嘆いた。ちいとくらい十橋家を乱して、あの何にでも対処してしまう連中を慌てさせてみたかったのだが、それは少年が虫の羽根をむしるような、無邪気な残酷さの発露だった。


「悪趣味が過ぎまするぞ、殿様」


 大輪兼治の居室は狙撃を防ぐ都合上、晴れた昼間でもあまり明るくはない。希少な光術提灯が下げられ、地図や書類を前に執務するのを助けていた。その光に影を伸ばして端座する、祐筆(ゆうひつ)のひとりである車根(くるまね)典馬は、壮年からそろそろ老臣に変わろうとする年恰好である。それほど高禄ではなく武勲もないが、陰では「寝返り奉行」の異名を取っていた。いくつかの偽名を使い、微禄の敵方武士や、大輪家と音信していると知られてはまずい敵方武士と書簡を交わし、情報を取ったり離反を勧めたりしていたのである。まめではあるが鋭さはなく、決して鬼謀の将ではないのだが、大輪兼治が謀略めいた企みを相談するには、まず最初の相手であった。


「例の伝魄斎とやらも、尻尾を出しよらん。神職共の見立てでは、近くの山野に隠れておろうということだが」

「因縁のあるという十橋の近くに、異端審問司を集めたのは、寄せ餌でござりますか」

「他の何であろうかよ。正直、太刀谷家を割ってくれたのは楽ではあったが、いつ背後を()いてくるか分からぬ」

「寄せて、十橋様と神職衆で勝ちきれましょうや」

「二郎三郎には成算があるようであった。もそっと手の内を見せてよこせばよいものを」


 車根典馬はあいまいな微笑とともに頭を下げた。ふたりきりの対話で、無責任な思い付きを口にすると大輪兼治は怒るから、こうして話題を受け流すしかないのである。兼治も自分の考えを整理するために話しているので、見落としを防ぐ質問は期待しても、奇抜な献策を求めてはいなかった。


「それもまた、次の評定でいくらかは仔細が知れようぞ」

「評定そのものが狙われることは、ございませんでしょうか」

「潟西府君のそっ首もまた、囮である。常にそうなのだ。襲われもせぬ小者になったときは、大輪の黄昏よな。だが」


 大輪兼治はとん、とんと手刀を(おの)が首に当てながら、車根典馬の眼の底を射抜くように視線を浴びせた。これに耐えきれず、兼治の幕下を辞した近習は数知れなかったが、典馬はもう慣れたものであった。


「次はいずれの手の者が狙いおると思う。申せ」


 車根典馬は黙って頭を下げた。その種の戦略眼に基づく直観は、典馬の苦手とするところで、それは兼治から見れば、「衆目の一致する、脅威度の高い襲撃者はいない」という辻占(つじうら)であった。もちろん人と金を大きく動かす計画の検討には、もっと高禄の者たちが与ったし、典馬は重臣でも軍師でもない。敵の手中にあり、もしくは敵そのものである者たちを、大輪の人や金を損じずに動かすことを差配するのが、典馬の仕事であった。


--------


 大輪家の主城を見上げる城下町、村松には、町人や軽輩がまず一生足を踏み入れない高級料亭がいくつかあった。村松へ評定に呼ばれた機会に、そのひとつの座敷を借り切って、兵吾夫婦は松の両親をもてなしていた[鷹狩り編での出来事が関係]。


 勘定は兵吾が……とはいえ、祝田新田も再建中の飯綱荘もほとんど収入を生んでいないのだから、事実上は十橋家の持ち出しであった。まだ冬も終わらない庭の、わずかな春の兆しを愛でる名目で酒肴を整え、まあ正式な宴会よりは安く抑えたはずだったが、松の老父はすっかり上物の酒を過ごして、寝息を立てていた。


「義兄上、少し庭に出ませんか」


 松の弟である小太郎は、兵吾を庭に出るよう誘った。松と老母が女同士の積もる話をできるようにと気遣った様子で、兵吾も何気なくそれに乗った。わずかな距離だったが、料亭の庭に一歩出ると、まだ厳しい寒気が待っていた。


「父は殿様[=佐賀江西大尉]の屋敷警固を仰せつかりまして、戦場往来から足を洗いました。それがしが入れ替わりに、荒小姓組にお取り立て頂き、年内に元服したところで、父は隠居するよう組頭様から申し渡されました」

「義父上は、ご承引(しょういん)か」

「はい、渋々ですが」


 小太郎は年齢なりに、闊達(かったつ)に笑った。そういえば顔と言わず腕と言わず、治りかけの薄い傷や内出血の跡が見られた。荒小姓組とは要するに、若手の武術修行隊であり、有事には当主直率の徒士部隊となるのであろう。


「大身のご子弟ばかりで、気を遣うであろう」

「知らぬことばかりでございますが、日々懸命にお仕えしております」


 おそらく言いがかり交じりに、礼法の細部などをあげつらって虐めてくる輩もいるのであろう……と兵吾は思った。


 佐賀家は兵吾の申し入れを拡大解釈して、松の老父が討ち死になどせぬよう配慮したのであろう。その分、跡取り息子に手柄の機会をくれてやるから死ぬ気で勤めよ……と言わんばかりの取り扱いは、同じ武家として兵吾にもわからぬでもなかった。武辺一徹の家であればそんな風に考えがちだし、十橋でも譜代の無茶振りで、子弟や郎党に無用の死傷者が出ることは多かった。


 そうした剛直な気風を持つ佐賀家は、十橋としては「わかり合えそうな相手」であり、松の老親をいたわって見せることは十橋への印象を良くする……と十橋の老臣たちは期待した。それで高価な酒肴が(あがな)われ、いま松の老父が酔っ払っているわけであった。


「お聞き及びでしょうか。父が姉上とそれがしに、輿入れの前に(げき)を飛ばしまして。有事の際には義兄上を頼れと」

「聞いておる」

「義兄上のご威勢がちかごろ益々輝きますので、それがしは殿様のおそばを離れること、はなはだ難しくなりました」


 小太郎は遠回しに、大事なことを伝えている様子であった。兵吾がそれに思い当たるのに、少しかかった。要するに兵吾が重要人物になり、松とも円満なので、小太郎は兵吾に対する一種の人質として価値が出てきたのである。それではまあ、逃げ延びて兵吾を頼ることなど非現実的になる。


「十橋はいかようにも生き延びるゆえ、そこは気長に考えよ。いずれ孫自慢でもしようぞ」

「努めまする」


 低い笑い声を、若いふたりは交換した。合わせるように何か座敷から聞こえると思ったら、松の老父のいびきであった。


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