雑兵元帥編(2)
「見渡す限り、護提様の采地にございますな」
「砦を預かっておるだけです。飯綱荘の荘官も、別に任ぜられております」
丸太作りの見張り台からは、高い木も灌木もむしられ伐られた、飯綱荘から投網川にかけての景色がよく見えた。これではさすがに防衛上も生活上も不都合だから、村に近いところには気長な育成になるが柿や栃を植え、街道沿いと川辺には生育の早い松を並べて、森と野の再建に手を付けていた。
秋葉屋仁左衛門はふらりと「ご挨拶に」飯綱荘を訪れた。秋葉屋肝いりの川湊は十橋荘側にできるので、ここまで来る用事はないはずなのだが、どうやらふたりきりの密談がしたそうだと気づいた兵吾が、飯綱荘の見張り台に秋葉屋を誘ったのであった。
「例の新村の仕掛けは、太守様[=大輪兼治]にお譲りすることにいたしました」
「それで、川湊と川舟の仕切り役が降りてきたのですか」
「そんなところです。護提様が事情をご存じなこともお伝えいたしましたので、どこか遠くへ封じられることも、もうございますまい」
「それは有難きことです」
「しかしご用心ください」
秋葉屋仁左衛門は兵吾からわざと視線をそらしているようだった。唇を遠くから読まれぬ用心か、手拭いを口に当てて、汗をぬぐう風である。
「大輪の殿様は木神様の御不興をこうむられて、御面目を損じられたと伺っております。今まで護提様を気に入られるばかりであったものが、少し疎んじる御心も……おありかと存じます」
「肝に命じます」
「策がおありですか」
「むろん、ございません。大輪家を鷹とするなら、十橋は蜻蛉ですらなく、虻程度のものでしょう。我等は、十橋を生かすのが精いっぱいでございます」
一族ひとりひとりの生死にこだわっていられない……という兵吾の答えに、秋葉屋は無言の苦笑で応じた。個人の面子を重んじるのが当たり前の武士世界で、十橋の流儀はむしろ異端と言えた。おそらく小さな集団であることが、その流儀で生き抜くことに役立ってきたのであろう……と秋葉屋は思った。
「牧田鉢右衛門殿には、もう会われましたか」
「ちらと挨拶した程度ですが」
「ああ見えて、大輪家では重きをなす人物です」
「やはりそれは、太守様にお譲りの物がらみですか」
「おそらくは。しかし、護提様との連絡のためでもあるかと存じますよ」
牧田鉢右衛門は戦傷で、左腕の肘から先がなかった。物見衆の古参であるらしかった。秋葉屋に雇われていた彌右衛門は、あらためて十橋から雇われるようになり、引き続き新村で商売をしながら余所者に加えて、(旧)祝田砦の神官たちをちらちらと監視していた。祝田物見衆に合力していた他家の武士たちは、祝田や飯綱荘が大輪家の領境ではなくなったので、小十人組を残して帰ってしまったが、入れ替わるように飯綱荘へやってきたのが鉢右衛門だった。
鉢右衛門もその来歴から、山忍びであった彌右衛門と同様に、村人に溶け込んで民情を探る役として大輪家から差し遣わされてきた。大輪物見衆のうち身分の高い者たちは交代で務め、入れ替わるのだが、徒士たちは代々物見衆の者たちが多く、その中から士分扱いの掌物見頭が選ばれ、身分の低い者たちを取り仕切った。鉢右衛門は掌物見頭をよく出す一家の者で、だから名乗る苗字があるらしかった。
「今度、とっくりと話してみましょう」
「それがようございましょう」
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「よろず修繕承り候」という看板は達筆とは言いづらいが、太い線が多く、遠目にも目立つ筆運びだった。飯綱村内のことで、兵吾には太吉あらため早瀬与一郎だけが供についていた。
「頼もう」
「これはこれは護提様」
戦傷で引退した故、鉢右衛門はようやく壮年に入ったほどの年齢である。向き直る所作は機敏であった。
「鍬の修繕でござるか」
「あれこれ壊れておるので、目につくところから始めております」
鉢右衛門に割り当てられた兵舎風の小屋には、柄の折れた平鍬や三叉鍬が何本も転がっていた。どうやら埋めて隠したまま住人が殺されるか、あるいは離散したものらしく、先端の鉄部分も錆と泥が盛り上がっていた。鉢右衛門はまだ使える先端部分を、折れた柄から引きはがす作業をしていたようだった。
「御骨折り、里の力になろう」
「やはり武弁だけのお方ではございませんな」
穏やかに世辞めいた言葉が交換された。
「洲走のこと、里の皆で、護提様はじめ十橋衆に感謝をしております」
「里というと」
「我ら物見衆の徒士が住まう里でございます。入れ替わりもあり、毎年どこかの家が絶えまするが、里人意識を共にしているのでござりますよ」
「お役目の重さ、お察しする」
鉢右衛門は無言で頭を下げて、兵吾の敬意を受け取った。そして言った。
「物見衆の地下人だけが使う、連絡の手立てがございます。殿様[=大輪兼治]へも伝わりまするが、物見衆の物頭様方も、このことはご存じありません。殿様に何か火急の言上がございましたら、お取次ぎいたします」
兵吾の表情と言葉が、止まった。慎重に次の言葉を選んでいることが、付き合いの長くなってきた与一郎にはわかった。
「それは、太守様[=大輪兼治]ご承知のことか」
「無論にござります」
「考えておこう。邪魔をした」
鉢右衛門は戸口まで兵吾を見送り、丁寧に頭を下げた。
「試されておるのだろうな」
兵吾がひとりごとのように言うのを、与一郎はどう応じていいかわからなかった。
「上つ方にじかに言上を差し許されることは、重いのだ。父上すら許されておらぬ。それを身共だけが御免を頂き、ほしいままにお願いを言上するとせよ。いかに十橋とて一族が割れるわ。それにしても……」
兵吾はにやりと笑った。若年に似合わぬ、武将の笑いだと与一郎は感じた。
「鉢右衛門殿は軽輩の生まれと聞いたが、太守様の直答を許されておるのだな。確かに隅に置けぬ御仁よ」




