山葵小屋編(3)
そんなことがあったのは、まだ収穫した穀物の乾燥に人手を取られていた、農繁期の終り頃だった。それも過ぎて冬に入ったころのことに、話は移る。
すっかり刈り取られた田畑は黄色と茶色のまだら模様で、指定された軍道の両脇には杭と荒縄で踏み荒らしを禁じる標識が出ていた。柿の木がすっかり裸なのは、よそ者の兵士たちが来る前に全部収穫してしまったのであろう。戸塚家が指定した馬ぞろえの場所は例年と同じで、兵吾には見慣れた道だった。
十橋家の規模では、存立に必要な物資と職人すべてをそろえることができない。例えば牛馬はいるから獣皮は取れるが、なめし職人の腕は一流ではなく、武具や馬具に使うと上物より見劣りするし、耐久性も怪しかった。諸事そんな調子だから、近郷の土豪たちとともに、戸塚家に従属して盟主と仰ぎ、必需品の安定供給をはかることが十年以上続いていた。冬の農閑期を迎え、戸塚家が陣触れを出したので、十橋主膳謙吾を主将、護堤兵吾を副将とする総勢百名が繰り出してきたのである。
冬の最初の陣触れが直ちに外征につながることも、防衛部隊を残しいったん解散になることもあった。戸塚家から見れば、まずは最新の戦力把握であり、近隣への示威でもある。集めてみて、何か問題が見つかれば外征を避けるわけである。外征になったら若い兄弟は譜代の老臣から采配を教わることになる。いわば、幹部候補生としての実地試験であった。
十橋家のふたつの村は、投網川のなだらかな扇状地にあった。生産性は高いが守りに適さない土地で、十橋家は規模の割には防備に金をかけ、質素に暮らしている。中村と新村を合わせて、敵対勢力はやや侮って十橋村と呼び、友好勢力は十橋荘とか十橋郷とか呼んでいた。もう少し山がちな地勢に陣取る土豪であれば、領内にはもっと小さな村が多く散らばり、地名だけ並べれば長くなるのであった。
戸塚家の本拠地は丸岡という街で、川沿いの平地が山裾にぶつかるところにあった。山を少し上ったところに丸岡城があり、当主一族は丸岡の館と有事に使う丸岡城を使い分けていた。馬ぞろえは丸岡の郊外に広がる、放牧地を兼ねた練兵場で行われることになっていた。
「十橋主膳、着到つかまつった。奉行はどなたか」
「戦奉行は穂沼大八郎様にござる。通られよ」
下馬した謙吾は兵吾ら数名を従え、陣幕の奥に進んだ。あまり鍛えているとも思えない、ふくよかな壮年の男が床几から腰を上げた。
「おお、十橋の若殿か。息災で何より」
「十橋主膳、十橋護堤ほか百名、馳せ参じましてございます」
謙吾は簡単な着到状と、兵たちの装備や構成を記した書面を穂沼大八郎に差し出した。簡単にそれを改めた大八郎は、それを部下に渡すと、にこやかに一行に近づいた。
「護堤どのは御三男であったかな」
「はい、よろしくお引き回しください」
大八郎はにこにことうなずいた。その後ろで、部下が書面を慎重に確認しているのが見えた。年に数回しか会わない傘下勢力の主要人物をそらんじて、相手をする係の大八郎と、細部のつじつまに気を配る下僚。戸塚家の規模ではもう、それだけの分業が必要だった。もうひとりの下僚が着到状に「承了」と流れるような字で書き加えて差し出し、大八郎がさも大事そうに謙吾に返した。
分業といえば、細かい方の書面を睨みつけながら自分の帳面に要点を書き写し始めた男は、食料や馬糧を手当てする担当者に違いない。軍役の食糧は自弁ということになっているが、あまり原則を押し通すと、食糧の尽きた土豪は戦地から帰ってしまう。長期間の遠征を命じると決まれば、戸塚家も援助をするのが通例だが、援助量も誰かが決めているわけであった。そうした戦い全体の仕組みを観察して来いと、兵吾は厳斎から言われていた。番衆頭の後継のこともあるが、なんといってもまだ、兵吾は当主の控え候補なのである。
ひっきりなしに人が出入りする陣幕から、十橋主膳の一行はすぐに退出した。押し出されたというのが実感だった。追いかけるように、陣所を割り当てる使いが来た。十橋勢がぞろぞろと移動を始めたとき、音と光が走り、地が揺れた。
「馬を鎮めよ。馬を失うな」
謙吾が大声を上げた。人だらけで見通しは良いとは言えなかったが、黒い煙が見えた。家や樹木が燃える煙としては、見たことがないどす黒さだった。
「火薬の煙にござろうか」
老臣のひとりが言った。火薬や銃砲は珍しかったが存在はしており、見たことがある者もいた。なにしろ異世界転生者がこの世界に降るように現れ始めて、千年ほどになるのである。異世界の同じような地域から来るものだから、その地の文字が共通語として根付いてしまうほどであった。
二度。三度。さいわい十橋のものではなかったが、おびえて走り去った馬も出た。だが三度めを最後に、轟音と黒煙は止まった。弥助が意味ありげに視線を送ってくるので、謙吾と兵吾、数人の老臣が頭を寄せて弥助のささやきを聞いた。
「正体はわかりませぬが、数十の人らしきものが素早く動き回っております。術者でないと得られぬ速さの者も交じっております」
「術者同士の暗闘か」
「おそらく」
返答を聞いた謙吾は首を回した。そして声を上げた。
「馬を円陣に入れよ。我らが目当てではなかろうが、巻き添えで馬を失うな」
兵たちが馬を囲んで、互いの距離を詰めた。百人で駄馬を含めて三十頭を守る形になった。異常なことだったが、幸い馬たちは聞き分けてくれた。
「護堤。弥助を連れて物見に出よ」
「承知」
ふたりだけで行かせようとする謙吾に、老臣たちは顔を見合わせたが、差し出口は控えた。弥助の能力を兵たちにありのままに見聞きされるのは、避けねばならなかった。兵吾はまずまずの使い手であったし、弥三郎は新村に残してきていた。
「わしも行こう。よろしいか。御曹司の警護は喜十に任せた」
一行で一番背の高い男が、謙吾の判断を求めた。壮次郎は謙吾が死亡率の高い幼少期を越えて数え七つになったとき、同年輩の少年から加えられた警護の者で、歴戦の者たちとも教練で打ち合えば、力押しで十橋最強と目されていた。もちろん、要人警護に雇われている山忍びの喜十は、命の取り合いであればその上を行く。
「いいだろう」
謙吾は認めた。嫡子警護の責任者である壮次郎は、極秘の情報に触れざるを得ない立場であった。三人で行くことになった。
各勢力が同じような判断をして、それぞれ集まって様子見を決め込んでいたが、右往左往する者たちは道をふさぎがちであった。三人は杭と荒縄をまたいで、道を外れた。冬の苅田であったから、歩くのはたやすかった。
何かが、丸岡の後ろに連なる緩やかな丘の中腹に突き刺さっていた。煙はその周囲に何か所も上がっており、戦闘によって煙のもとが少しずつ増えたようであった。
「何を感じる、弥助」
壮次郎が尋ねた。ここで止まろう……ということでもあった。弥助がずっと閉じていた眼を開き、集中を解いて、言った。
「何かを離れず、守るように動く者がおります。それ以外の方がずっと多いです」
「襲われているのか」
「それはわかりません。あるいは罪人を護送中に、徒党の者が奪い返しに襲っておるやも」
「よくこの場ですぐ思いつくな、そのようなこと」
兵吾は思わず言った。弥助はあいまいに笑った。
「あちらの世界でも、作り話によく出てくる類のことでございますが」
「いずれにしても、手は出せぬしなあ。これでは」
壮次郎は三人だけの斥候隊を見回して言った。いつしか、大小さまざまな斥候隊が争いの場を見通せるこの周辺に集まってきていた。
「護堤様」
弥助が注意を引く言葉にかぶさるように、小さな、しかし高い音が接近してきた。音の源は、丘に突き刺さっている流線型の物体に似ている。そして接近とともに音は消え、人らしき形をしたものが、そこから飛び出して地上に散った。
今度は肉眼で兵吾にも見えた。新たなぶつかり合いが複数生じる様子からすると、増援は追い詰められていた側なのであろう。
「うおっ」
火球の流れ球が近くに着弾して土しぶきを飛ばし、壮次郎が腕で顔を防いだ。下を向いた拍子に、兵吾の視界の隅で小さなものが光った。
「これは」
首飾りというより、護符の類に見えた。四角い金属板に細かい文様が走り、細い鎖が首紐になっている。三人が顔を見合わせ、何も話せないうちに、馬蹄の音が後方から聞こえて、戸塚家の旗を背負った騎馬武者が三人の近くで止まり、呼ばわった。
「戸塚の使い番にござる。お味方御一同には、いったんここから立ち退いて頂きたく」
何か憤然と言おうとした壮次郎を兵吾は制した。縄の移動制限を無視して戸塚領に踏み込み、勝手に物見をしているのはこちらである。戸塚家は大身なりに多くの術者を抱えているだろうが、あの戦闘に割って入ればただではすむまい。幸い人家のある地帯ではないから傍観の一手だが、そんな様子を友好勢力の面々に見られて、戸塚家の得は何もない。
割り当てられた野営地に復命する三人の背中を、騎馬武者はじっと見ていた。その武者が駆けて来たのは盛んに戦闘のあった方角で、不自然であることに、誰も思い当たらなかった。
野営地で様子を話していると、戦奉行の穂沼から使いが来た。まとまった軍事行動をすぐには取れないので、いったん領地に帰れということであった。
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「えいっ、とうっ、えいっ、とうっ」
村人たちが棒切れを振っている。そのすき間を、番衆経験者の元兵士が見回って、構えを直している。番衆を目指す若者や壮年の男たちは、ちゃんと削られた木刀を持って、現役兵士のもとでもっと実戦的な演習(前進後退の合図や号令に合わせて動く)をやっていた。ここにいる村人たちは、村まで侵攻されて危機が迫った場合にのみ動員されるし、冬の農閑期に何日か教練を受けるだけである。
村長役宅の前でその教練をやっていたから、別に視察するつもりもないが、書状を読みながら兵吾はちらちらその様子を見ていた。村の外は肉食獣も少しはいるし、足腰が弱り始めた老人も教練をしているから、村の外に出すこと自体が無用の危険である。
護符はまだ兵吾の手元にあった。
謙吾と兵吾は数えで七つの年齢差があるが、次兄の鳳吾は謙吾とひとつ違いであったから、お家騒動を懸念して神社に預けられ、神職の修行をさせられた。だが学問の方に興味があり、形式を踏む程度には神事もこなしたから、そのまま神社関係の渉外を担当するとともに、十橋の私塾長・書庫長のような立ち位置にいた。その博識な鳳吾にも、表面の文様は見たことがないものだった。
重いが知られている貴金属ではなく、とりあえず護符は兵吾の机上で、文鎮をつとめていた。
「何奴」
襖の向こうで、登紀が鋭い声を上げた。兵吾の担当になる前から、危険の察知役として仕込まれていたと聞いていた。執務中の者たちが武器を取り、足音を立てる中、襖が開けられた。
開けたのは、見たことのない女童だった。戸塚家の丸岡程度の街だと、深窓の姫君かよほどの大商人の娘に見える、上品な装いだった。刀槍を向ける者たちが背後にいるのを気にもかけず、兵吾に向けて正座して三つ指をついた。
「不調法お許しくださいませ。十橋護堤様におわしましょうや」
兵吾は黙って、意識してゆっくりうなずいた。相手の決めた速度で話すな。老臣たちは兵吾にそう教えていた。女童の視線が、ちらりと机上の護符に向くのを兵吾は心にとめた。落ち着いた声が続いた。
「厚かましきことながら、若様にはお人払いを願わしゅう」
若い兵吾だったが、忙しく視線と頭を働かせていた。登紀が見とがめたとき、女童はもう襖を開けられる位置にいたのであろう。であればそのまま襖を開け、兵吾の不意を衝いて、殺せた。女童は明らかに高位の術者であり、兵吾の死命は制されていた。
「みな、控えよ」
兵吾の下知にすぐ動く者と、容易に去りかねる者がいた。だが程なく、すべての襖が閉められ、教練の掛け声だけが残った。襖の向こうで皆聞き耳を立て、刀の鯉口くらいは切っている者もいるだろう。だがこの家の構造で、本当の密談などできるはずがない。女童もそれはわかっているであろう。
<若様が先日お拾いになった鋼札、我が主の魂が封じられております>
耳元で声が聞こえる……ように感じた。女童は口も動かさず、目も伏せたままである。
<やはり、わざと拾わせたか。あの使い番らしき男、其許の手の者か>
兵吾は我が口を手で押さえた。話しているのだが声が出ない。そして女童の声と同様、自分の声も耳のそばから聞こえる。女童は顔を上げて、にたりと笑った。子供の無邪気さはどこにもない笑いだった。
<さすがのご明察にございます。襲われまして多勢に無勢、主の体をあきらめ、魂のみ鋼札に写した次第。>
<返せばよいのか>
<当分、ここでかくまってはいただけませぬか。我らの手の者、集まって来るのに時がかかります>
<わらべ殿。その方、身共をいつでも殺せることは察しておる。そのうえで言うが、身共は死なねばならぬようだ。役宅くらいは焼くべきであろうな>
<そのようなこと、滅相もございません>
女童はあわてているようだった。
<わらべ殿ひとりも防げぬ田舎豪族の村なれば、術者同士の争いに巻き込まれればひとたまりもない。身共は腹を切り、 鋼札は投網川に投げ込ませる。それが嫌なら持って帰れ。新村に火をかけても、中村に累が及ぶこと、あってはならぬ>
<村を焼かれる気持ち、よう存じ上げております>
やはり音なき声だが、落ち着いた年配の男声が聞こえた。鋼札に封じられた「主」なのだろうと兵吾は思った。
<楓には鋼札を持って、退かせましょう>
数秒の間、すべての音が止まった。兵吾に聞かせぬよう、楓と呼ばれた女童が主と話し合っているのであろう。その沈黙を終わらせたのは、楓が平伏したまま、涙をすすり上げる音だった。よほど叱られたのか、あるいは説得しきれなかった無念の涙か、兵吾には判断がつきかねた。
「鋼札をお返しくださいませ」
声が聞こえるようになった。兵吾は文鎮を女童の前に置いた。それを膨らんだ袖の中に入れると、入れ替わりに女童は黄金色の板を取り出した。畳の上だから音はしないが、袖のどこに入っていたのかと思うほど、重そうだった。
「些少ではございますが、この度のお詫びでございます。主も心よりご容赦を願っております。それでは」
もう一度頭を下げて、出て行こうとする女童に、兵吾は言った。
「村の西にある丘を道沿いに上ると、井戸と小屋がある。山葵を育てようとしたがうまくゆかず、使っておらぬ。春分のころまでなら、村人が近づかぬよう、触れ出してもよい」
また沈黙があり、楓は頭を下げて、言った。
「お言葉に甘えとう存じまする」
兵吾のうなずきを確認した楓は襖を開け、殺気をあふれさせた兵たちにぺこぺこと愛想を振りまき、玄関を出てふっと消えた。