太刀谷擾乱編(2)
ひかりが毎朝兵吾かその代理者に会うのは点呼のようなもので、世間話すらしない日もあった。だが今日は、たまたまひとりで歩いている兵吾にひかりが声をかける形になり、いつもと違ったことになった。
「護提様は、天下を目指されないのですか」
「天下とはなんだ」
兵吾は聞き返した。
「例えばこの国、この大陸。そこで一番になることを、天下を取ると申します」
「げほっっっ」
兵吾はきょろきょろと首を回した。怪訝そうな顔が一つ二つこちらを向いていたが、会話を聞ける距離には誰もいない。兵吾は手を自分の口に添えた。
「声が大きい」
「あいすみませぬ。天下を取るとはそれほど」
「こ・え・が・お・お・き・い」
兵吾は精一杯大きなささやき声でささやいた。大輪家はおろか、王家への謀反にしか聞こえない。
「私どものいた世界では、ひとつの技芸で天下一を目指すことは、珍しいことではありませんでした。もちろんほとんどは天下一ではなく、それなりのところで止まるのですが」
「なんだ技芸のことか」
兵吾の肩から力が抜けた。
「だが、身共が技芸で秀でたものなどないぞ。最近、生き延び芸を少々……たしなんでおるが」
「'そふとぼーる'は九人、ときに十人、さらに控えの者が力を合わせます。護提様はその監督でございます」
「一番二番などより、みな無事で生き延びることを考えよ。身共もそう心がけておる」
ひかりは深く礼をして、その会話をやめた。兵吾の胃のあたりから、きりきりとした感覚があった。
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太刀谷の勢力圏全体で、騎兵や徒士として継続的な訓練を受けている者は八百ほどであり、二万の人口からすると少な目であった。これを傭兵で補うのであるが、太刀谷刑部小夫と浜千代の陣触れに応じた者は飯綱家の遺臣を含め三百、いささか威勢の振るわない中でかき集められた、練度の心もとない足軽衆が三百であった。少なくとも刑部小夫は他の一門衆に先んじて主城と継嗣を確保し、その金蔵を開くことができたのである。
これに対し、太刀谷蔵管も三百を集めた。太刀谷傘下の残り二百は、おのおの小城に拠って幸運を祈りつつ、どちらにも参じなかった。すでに大輪勢四百が太刀谷蔵管の後詰となっており、おそらく与謝部勢も少なくとも同程度が太刀谷領に接近し、あるいはすでに策動していると考えられた。
「早いのう。いささか早い」
太刀谷城の本丸も大輪家の村松城同様に、高い望楼は外郭近くに限られ、本丸の見晴らしは良くなかった。前当主の贅沢な居室に居座った刑部小夫は、軍勢の位置や紛争地点を描き込んだ地図を見ながら、扇子を神経質に開いたり閉じたりした。刑部小夫の実権掌握をまるで待ち構えていたように、与謝部も大輪もまとまった軍勢が動き、送られてくる使者自身が最近数日の出来事を知らないことがよくあった。
主導権を、取られている。
こんなはずではなかった。まだまだ皮脂をてかてかと残す刑部小夫の広い額に深いしわができたまま、減ってくれなかった。太刀谷宗家の実権を握ることさえ叶えば、その力を得ておのが才幹をはばたかせること、かなうはずであった。だが現状は大輪家対与謝部家の激突による濁流が生まれ、人的物的資源が桁の異なる大きさで注ぎ込まれて、太刀谷などくるくると舞うことしかできなかった。
≪お困りのご様子≫
声がした。刑部小夫は刀掛けに手を伸ばし、室内に適した脇差の感触を確かめながら、慎重に視線を配った。
≪手前、隣領の十橋様に因縁これあり、いささか返報[=報復]つかまつりたき者にございます。十橋様の組する大輪様を敵に回すとも、余儀なきこと[=仕方ない]と思い定めております≫
なおも続く声をたどると、部屋の右隅が不自然に暗くなっていることに気づいた。人を呼ぼうとして、刑部小夫は声を出せなくなっていることに気づいた。そして誰もいないはずの隅の暗がりに、何かが……いた。
≪強いてのお目通り、先に御詫びを申し上げます。伝魄斎と名乗っております≫
眼らしき光がふたつ、その暗がりの中に見えた。
≪死霊術師でございます≫
暖気のようで暖かくはない、経験のない存在感が背後の床の間にあって、刑部小夫は振り向いた。床の間にある花瓶に生けてあった白木蘭のつぼみが、茶色く枯れ果てていた。断末魔の声なき叫びが聞こえたような気がした。
≪お力添えをいたしとうございます。なに、頂くものは特にございません。手前の欲しきものは、飯綱の旧領などに、あまた転がっておりますゆえな≫
諾否を求められている……とぼんやり思考が及んだときには、すでに刑部小夫は顎を上下に動かしていた。理性の一部が操られているのだが、それをはねのけ、抗おうという意志は、泡のように生まれてすぐ消えることを繰り返していた。
暗がりの眼は、じっと刑部小夫を見ていた。喜んでいるようには見えなかったが、おそらく、どうでもよいことなのだろう……と刑部小夫は感じた。
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萌吹大社の異端審問司、二郎三郎が祝田砦の兵吾を訪れたのは、五日間の滞在を終えて明朝大輪勢との合流に向かうという、その日のことだった。
「まずは、白湯など」
儀次郎が気遣いをして、ぬるい白湯を用意させていた。二郎三郎は客間で腰を下ろしもせず、近習から椀を受け取って、喉を鳴らして飲んだ。
「不調法をいたしました。異例のことにて、急ぎ旅をいたしましたので」
椀を返し、泰然と座った二郎三郎は、もう旅の疲れは取れたかのように頭を下げた。だが、わずかに息が荒いのを近くにいる者は感じた。汗はかいていないから、なにか術のたぐいを使ったのであろうと兵吾は察したが、そうしたことを術者に尋ねるのは禁忌であった。
「太刀谷刑部小夫様、くだんの死霊術師に、たぶらかされた御様子。これは大社において、明神様が身共らに下しおかれた御神託でございます」
兵吾は無言で先を促した。なぜ今で、なぜ兵吾なのか。それを聞くまで何も答えられなかった。
「このたび護提様御出征に当たり、我が護衛をお引き受け頂きたく、馳せ参じた次第」
二郎三郎は腰に下げた革袋を開き、上質な紙の書状を取り出した。最近すっかりなじみになった、佐賀家祐筆の筆跡で、兵吾の宛名が書かれていた。中味は、兵吾たちを二郎三郎の一時的指揮下に置くことを大輪家が了承した……という佐賀江西大尉名義の通達だった。兵吾は読み終えると、視線を二郎三郎に戻した。
「二郎三郎様は、刑部小夫様を、やはり……」
「ご自分で、つかまつりたいですか」
「いえ……」
二郎三郎様は微笑しただけで、それ以上の返答をしなかった。
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急ぎ呼び集められた者たちがいた。既に早瀬太吉は馬小屋修業を終えて、兵吾の馬廻りに参陣する予定であったが、二郎三郎は向田甚太の従軍を求めた。拒めないと見た兵吾は龍吾に早馬を飛ばすとともに、向田甚太に加えて早瀬左門を祝田砦に呼んだ。このさい、元服を執り行おうというのである。
兵吾の屋敷では客間が掃き清められ……兵吾が龍吾の短い手紙に渋面を作っていた。老臣たちから太吉の烏帽子親を立ててもらうよう依頼したのだが、「そなたが務めよ」と差し戻されたのである。
儀次郎をはじめ、祝田砦の先輩たちが太吉の月代をやや手荒に剃り上げ、後ろ髪を結った。身分は小者のままだから、烏帽子も簡略なもの……なのだが、晴れの儀式だけは侍烏帽子に飾り紐をつけてもらうことになった。
「弥助。何もかも急で済まぬ。太吉の通名に、良い名はないか。そなたも狩りでは師匠であろう」
「は。それでは……与一郎はいかがかと存じます。異界の昔、弓の上手で知られたつわものの名から取りました」
「いいだろう。では諱[=実名]は兵佐といたす。よいな」
「ありがたき幸せ」
太吉は興奮で顔を赤くした。青々とした月代で神妙に正座すると、儀次郎がその髻に鈍い銀色の飾り紐を結び、兵吾が烏帽子をかぶせた。また儀次郎が手を出して、飾り紐を烏帽子の後ろで結んだ。質実な十橋のことである。儀式のときだけ使う飾り紐は、もう何十年も順送りのものだった。
墨色鮮やかに、新しい名を紙に書き下した兵吾はそれをかざして見せ、言った。
「これより、早瀬与一郎兵佐と名乗るがよい。ささ、御一同にご挨拶申し上げよ」
まず兵吾に一礼した太吉あらため与一郎は、膝を回して甚太と左門、そして儀次郎たちに何度も頭を下げた。感動で何も言えない……のは間違いなかったが、別家の者として相対する甚太と与一郎はどちらからともなく笑い出し、やがて声を立て、肩を震わせた。
左門はただにこにこと、穏やかにそれを見守った。もともと左門が期待したのはもう少し安穏で、未来が約束された与一郎の行く末であったが、幸運の星に見えた兵吾の最近の危機一髪ぶりを聞いて、何かが少し冷めていた。
ずっと見計らっていた松が女性たちを指揮して、簡素な酒肴を運び入れた。出陣前の壮行も兼ねて、肴は勝ち栗であった。
ひかりが言及した「ときに十人」は、指名選手制のことです。プロ野球のDH制に似ています。




