洲走編(2)
過去に生まれた多くの転生者の中には、何らかの宗教の熱心な信者も少なくなかった。だが誰一人として、その経典を持って転生できなかった。もちろん経典の一部を暗唱できた信者はいたが、言葉の意味や地名・人名の解説、布教のために必要な標準的な経典解釈は、文章の形で伝えようとすれば長い長い書物になるのであり、記憶で補いがつくものではなかった。
だから、多くの印象的な神や空想上の生物が異界から伝えられたのに比べて、目新しい教義や戒律は断片的に伝えられただけで、それらを守るのは転生者の第一世代と、限られた直系子孫たちに限られていたし、子孫たちにとっては生活を意味不明に制限するものでしかなかったから、簡単に失伝した。
萌吹明神をまつる中村の村社には少数の神職が働き、願い事を抱えた村人たちが頻繁に訪れていたが、神社が人々に何かを禁じたり、強制したりすることは少なかった。この世界には神がいるし、良かれ悪しかれ干渉してくることも多いから、それは疑いようがない。人の魂は輪廻するし、ある程度神々はそれに干渉できる……とどの神々も言うから、そこも疑う余地はない。そうなると、読者諸賢の住む世界で宗教者たちが関心を持つ事柄の多くは、議論の余地なく決着してしまうのである。問題はそこからだった。
この世界での生まれ変わりや魂の安寧は、神に願うもの……ときには交渉事項にすらなった。少なくとも神の望む何かを起こせる実力者にとって、宗教の持つ意味は、読者諸賢の世界とはまるで異なったものになった。そしてそうした強大な個人や勢力と神々をつなぐ神社は、庶民の願いを受け付けるだけの神社とは隔絶した高い社格を、一般社会からも神職界でも認められた。
だから中村の村社に神使の梟が飛んできて、神託の紙片を落としていったとき、神職たちの叫びと興奮は村人たちがみな集まってくるほどになった。神託を直接受けることは、高い社格のあかしだったからである。
--------
龍吾への報告を終えた村社の宮司は、どこかふらふらとした足取りで退出した。後には、同行した鳳吾が残った。逆に、別室でそっと話を聞いていた謙吾が入室した。近侍たちは宮司の茶菓を片付け、在室の者たちに茶を出し直すと、何も言われぬうちにそっといなくなった。
鳳吾は村社の神職としては宮司より立場が下だが、十橋家の中では神社方筆頭である。これは宮司を十橋家が推挙し、それを受けて萌吹大社が任じるというしきたりと対になっていて、村社が宿命的に両属組織であることを踏まえた妥協点であった。村社の費用のほとんどは十橋家からの寄進がまかない、譜代たちの個人的な寄進も十橋家と村社が険悪になれば霧消するのだから、村社での鳳吾の立場は出資者総代のようなものである。だから宮司が去った後、こうして「十橋家の内輪」で相談することになるのだった。
「大樹に依れ……か」
龍吾は、神託の内容を繰り返した。紙片にはそれだけ書かれていた。書体や紙質から、神託の紙片はその文面とともに、まず偽造できないものとみなされていた。宮司も、神職として教育を受けた鳳吾も、神託が本物だと疑っていなかった。鳳吾が解釈を述べた。
「大輪様の尊崇される金神様と、木神様のあいだで連携が成ったということでありましょう。ただ御二柱の神様方、もともとお好みの違いがおわします」
「そう承っておる」
龍吾の表情は、神託が下し置かれた家の頭領にしては、まったく冴えなかった。助けというより、難題が下ったと取れるのである。萌吹明神は森神・農神であるから、戦乱そのものを嫌う。これに対して鋳砧明神は武神・鉱工業神だから、大戦後の世界情勢が許す限りで、力による支配の拡大を後押しする。これはそのまま、小領主の軍を機動的に動員したい大君主の抱える内部矛盾でもあった。「大輪・戸塚に協力してやれ」と神託を下ろされても、十橋家にはめでたくないのである。
「先日来の大輪様と我らのやり取りから察するところ、今般のご神託は金神様の求めに、我等の尊崇申し上げる木神様が応じられたのでしょう。ですから木神様がお助け下さるのでなく、おそらくは大輪様から我が荘にご加勢があるので、受けよと」
龍吾は顔にくしゃりと皺を作って苦笑を作り、謙吾は緊張を浮かべた。そして三人とも、その後しばらく黙ってしまった。
--------
「常丸にございます。護提様には父の屋敷でお目にかかって以来でございます」
「穂沼様の御三男であったか。よしなに頼む」
穂沼常丸は兵吾の前で表情の硬さが抜けなかったが、叫び出したい心境を懸命に抑えているのは兵吾の方であった。戸塚家の取次であり兵吾夫妻の仲人、穂沼大八郎を訪問した際、この縁談がなければ兵吾を婿に取って云々という話を、確かに大八郎はしていた[婿取り編(2)]。だが目の前にいるのは、あのとき茶を供するのが早すぎて怒られた大八郎の近習であり、じつはその三男であったという。三人目まで予備がいるのに婿に取るも何もない。
「我等、若輩者ばかりにござる。研鑽いたしますゆえ、よろしくお使い立て下され」
快活にあいさつを締めくくったのは、大輪家と戸塚家からやってきた小十人組の組頭、佐賀大膳正であった。佐賀江西大尉の弟の子だが嫡男ではないそうで、三十才なのは小十人組最年長であった。駄馬は連れてきたが騎兵はおらず、徒士十名、常丸のように元服前の近侍五名、馬の世話などをする小者十名という構成だった。これが「(佐賀家の婿である)十橋護提様与力」という名目で送り込まれてきたのである。つまり砦の守備隊として通常戦力を出すから、兵吾の組は大輪家のために野戦に出せと言うわけである。
滞在費はともかく、俸禄は大輪家・佐賀家と戸塚家・穂沼家が出すというのだから十橋から見て破格の厚遇だが、進駐軍でもある。とはいえ、身の丈ぎりぎりの投資をしている十橋家としては、正直ありがたさが先に立つ。祝田砦に手を出せば、大輪家に矢を射ることになる……という抑止効果も期待できる。
歓迎のあいさつもそこそこに、兵吾は中村へ至急帰って来いと龍吾から言付かっていた。協議せねばならぬことが多すぎるのは兵吾にも察しがついた。
--------
「いやいや、なかなかの大仕事でございました。人を大勢使いまして、申し訳ございません」
「なに、後であわてるよりもよほど安心です。ご無理を言いましたな」
全転の村松支店長、為吉は秋葉屋仁左衛門に多額の費用を請求した詫びを言っていた。今日は内密の相談だから、秋葉屋がよく商談に使う旅籠の一部屋を借りている。旅籠の主人がじつは秋葉屋のもと番頭であることは、用心深く秘密にされている。
「小十人組の皆様、実際に名のあるお家のご子弟でいらっしゃいますな。出自を偽るような方は、小者に至るまで誰もおられません。特に武名とどろく方々でもございませぬが、評判の悪き方々でもなし」
「神託まで根回しされているとあらば、そんなものですかねえ。これは考えすぎましたか」
仁左衛門は無駄な出費を嘆くようにおどけて見せた。全転に依頼して、小十人組にまぎれて専門の牒者が送り込まれた可能性を探らせたのである。結果として何のたくらみも見つからず、十橋家が大輪家から大きな恩を売られたのがはっきりしただけであった。
「しかし皆様、それぞれ名家の方々ですから、飛脚を立てて普通に音信はなさいましょう。例の新村の仕掛けの件、無駄になりましたかな」
「品に疵がないなら、売り先を変えればよいことですよ」
「おや……大輪の御屋形様ですか」
「ふふふふふ」
仁左衛門は答えを濁した。たしかに仁左衛門を逃がすための仕掛けは、大輪兼治を脱出させるためにも使えるはずだった。
--------
別に大輪家は十橋家に気を遣って、内紛状態の太刀谷家に攻め込まないのではなかった。幅のある川で隔てられた領境をわざわざ攻め口にしたくないだけである。
細い支流が何本かあるだけの投網川上流でも、大輪家と太刀谷家の勢力圏は隣接していた。十橋荘周辺に比べると、互いに出兵しやすいので小勢力は淘汰されている方だったが、被官となって日が浅い、つい最近まで土豪だった者たちが守る、小規模な山城が多かった。
重い軍費負担に家中をまとめきれなくなった先代の遺児を立て、幼君の後見となっている太刀谷刑部小夫は、先代の弟であったが、先代の死の真相への疑念も抱かれて、やはり太刀谷家全体をまとめきれてはいなかった。大輪家の諸将から絶え間なく太刀谷家の有力者に書状が送られ、それがまた家中の疑心暗鬼を呼んでいた。
十橋家は常備軍に費用をかけ、日々の暮らしを倹約していたが、太刀谷家も飯綱家もその逆で、死傷率の高い任務ほど傭兵を一時的に雇って済ませていた。火術者を雇ったあたり、決して貧しい家ではなかったのだが、劣勢に傾くと傭兵は集まりにくくなり、軍費を強引に増徴しようとしても、豊かな暮らしに慣れてしまうと反対や面従腹背が多かった。歴史のある分だけ、先例を盾に取る者が多いということでもあった。
軍費増税のことはともかく、太刀谷刑部小夫に疑心を持つ者たちの輿望は、一族の長老である太刀谷蔵管に集まった。浜千代から見て祖父の弟である。刑部小夫の実権掌握に当たって放置されたことが、その家中での評価を示していて、直ちに刑部小夫と浜千代を放逐できる力はなかった。だが、一旗揚げる最後の機会にしがみつく気概……いや、執念はあった。
刑部小夫と浜千代は、「これまで通りご昵懇に」と与謝部家を頼ったから、太刀谷蔵管は大輪家に密使を送り助力を求めた。それに応じる動きの中で、兵吾たちに出兵が求められた。手紙の文面は丁寧であったが、小十人組派出との兼ね合いで、断れるものではなかった。
「では護提どの、御先に出立いたします。頼りにしております」
「微力を尽くす所存です」
領境の村で、兵吾は大輪家の足軽大将に頭を下げた。太刀谷蔵管の拠る小城に向かって、大輪家の増援四百人と駄馬数十頭が向かうのだが、この足軽大将が任されたのは五十人の先遣隊である。なにぶん、点在する太刀谷傘下の村や砦は向背が定まらない。大輪家が動く以上、与謝部家も動いているだろう。だから先遣隊が行軍経路を偵察し確保する一方、兵吾の率いる十橋衆が別行動して、弥助の力を借りて危険な動きをつかみ、先遣隊に警告する計画であった。
兵吾の隊は十五人であった。十橋から派遣した十人に、大輪家から太刀谷領に土地勘のある地元出身者や、強行偵察の熟練者がつけられていた。直接的な戦闘力はほとんどない。逆に、十人のうち三人は特に屈強な若い農夫であり、行く手の灌木や草を切り払う鉈兵であった。
ぞろぞろと先遣隊が出発した後、兵吾たち十橋衆もそっと村を離れ、草むらに入った。手元の地図は大輪家の測量に基づき、遠くから目立つ山と城の相対位置が正確に描かれた木版地図に、川と道が毛筆で描き込まれていた。
会話もなく歩み去る兵吾たちを、枯れた冬の葦がさわさわと見送った。木神の支配下にある葦たちが何を誰に言い送っても、気づく者はいなかった。




