洲走編(1)
祝田周辺の新田は、中村と新村を合わせた十橋荘の耕地を一割ほど増やすことになる予定であった。成人人口千人の十橋荘は、千百人を養えるほどに拡大するはずである。しかしそれは新田の生産力が従来の農地並みに上がった暁には……ということであり、夏の祝田砦着工を見越していくらか農地開発には手がついていたものの、来年の秋が事実上最初の収穫期であり、それを楽しみに十橋荘全体が重くなった負担に耐えているところであった。
信頼のおける村人を短期間に百人増やす手立ても、あるはずがなかった。だから飯綱領から逃散してきた農民たちは、貴重な労働力……かというと、やはり難しい問題があった。壮年男子たちは戦って死傷し、老人たちは歓迎されないのを見越して村を動かず、年長の子供たちがいる寡婦も、無住の農地だけはある飯綱荘に残った。縁者を失った未婚の娘たちや、幼子を連れた寡婦が、村での先行きと他村での奴婢働きを天秤にかけて、川を渡り十橋荘へ受け入れを願う者たちの主体となった。太刀谷家の代官も、残っても食い詰める者たちの出奔をとがめなかった。
その中に例えば太刀谷の息がかかった間者がいたとしても、十橋家には見分けがつかない。だから十橋家は彼女たちを受け入れ、投網川から遠い中村の豪農たちに一名、二名とばらばらに引き取らせた。引き取った家から十橋家が定額の冥加金を取り立て、奴婢たちが元気に働けない悪しざまな扱いをすれば大損になるようにしたのは、いくらかその過酷な運命を和らげたはずであった。
「異界の者には、奴婢の扱いはやはり過酷に見えようか」
「飯綱の村でのわたくしの扱いも、さほど上等とは言えませなんだので、こちらはそのような世なのであろうと思います」
兵吾に対するひかりの返答は、他人事として冷淡なものであったが、旧主への憎しみを感じさせるものではなかった。
「飯綱の方々のわたくしへの仕打ちが天罰に値すると言うなら、それはもう下っておりましょう」
「それがよかろう。過ぎたる復讐は我が身を焼くだけだ。何人か、そのような先人のことを老臣どもから聞かされた」
ひかりは、飯綱の亡命者に混じっていたわずかな職人や下吏とともに、十橋家への年季奉公人という扱いとなった。転居や転職の自由はないが、村の中を自由に移動することは、特に事情がなければ許された。無一物で村を逃げ出そうとすれば、できなくはない程度の自由さであった。
「だが飯綱の村人が、あちらで奴婢であったそなたが自由に出歩いているのを見て、どう思うかは分からぬ。だからというて、祝田衆のそなたに向けて何もできまいが、中村の方にはなるべく出歩かぬがよい」
「お気遣い、かたじけのうございます」
「何の下知もなければ、朝夕に組頭に伺候するだけで、あとは自分で修練しておればよい。だがまだまだ片付かん砦のことだ。頼まれごとが多いのは堪忍してくれ」
「承知いたしました」
弥助も祝田砦の長屋に居宅を移し、ひかり同様に昼間は猟師として生業に励み、呼び出されれば軍務につくことになった。そして太吉は、馬の勉強をするという名目で、番衆の馬小屋に修行に出された。馬糞にまみれて馬の世話をするところを譜代や徒士に見せておかないと、運のよい特別扱いの者とみられて、戦士たちへの溶け込みが遅れるとの配慮であった。
ひかりは、体を張って群盗と戦ったことから、そうしたやっかみを受けずに済んでいるようであった。その点では太吉の実父、向田甚太も死霊術師を一矢で射抜いた事件[人斬り吟味編]が弓一筋の譜代たちに感銘を与え、今すぐ譜代に取り立てる提案をしても相当数の賛同者が得られそうなほどであった。太吉も共に戦う機会が一度あれば、風当たりも止むのであろうと兵吾は楽観していた。定住した流民集団である十橋の気風は、この世界の平均像と比べて閉鎖的ではなかったし、その武士たちも他家に比べれば、さばさばしていた。
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投網川の川原に生える長い草は、燃やせば灰が良い肥料になるのだが、今年は特に念入りに刈られていた。祝田周辺の新田を整えるため、いくらあっても足りないのである。砂利がむき出しになった川原に、ぽつんと残された松の木があって、その枝に大輪兼治の鷹である霜風が降り立っていた。不在で良いのか……と考えるのは無駄である。神の小さな化身は、いちどに二羽が降臨しても、大した神力の消費ではなかった。そしてその傍らには、小柄な梟が止まっていた。
≪このたびの常盤一家の濫妨により、御身の氏子たち、あまた失われたこと、お見舞い申し上げます≫
≪ご丁寧なご挨拶、痛み入ります≫
鷹の言葉も、梟の返答も、人の言葉ではなく、音で伝わるものでもなかった。
木火土金水の元素神のなかで、武神と言えば金神たる鋳砧明神であり、大輪家は鋳砧明神を主たる祭神としていた。大勢力であればよくある選択である。鷹は鋳砧明神、梟は十橋家が奉じる木神・萌吹明神の化身であった。
小領主や農民たちは萌吹明神をまつって豊作を願うことが多く、常盤一家が殺傷した村人たちは主としてそうした信者たちであったから、鋳砧明神は悔やみの言葉からあいさつを始めたのである。
≪大輪兼治くんを通じて知りましたが、面白い氏子たちをお持ちですね。今回も凶賊を討ち取るおぜん立てをしたとか≫
≪あの子たちのところにふたりめの術者が来たのは、大輪どのの'やりよう'のせいでもあるでしょうね。常盤一家、見て見ぬふりで放置してきたのでしょう≫
≪恐縮です≫
鷹が兵吾たちのことを口にするのを、梟は予期していて、鷹はそのことに驚かなかった。中立国でわざわざ外交官が話をするような、こんな人界での対話を鷹が特に願ったのだから、梟はその理由を考えていたに違いなかった。
≪大輪どのの術者たちを手前で待たせて、先にあの子たちにつぶし合いをやらせましたね。どうせそれを大輪どのの脇で見ていたのでしょう≫
鷹は無言で頭を下げた。人のいないところでの化身の身振りに、神々の面子などかかっていない。しかし鷹は梟がこの件を「貸し」だと考えていることを思い知った。だから鷹は、手札をさらして降参の構えを見せた。
≪思ったよりも便利に使えそうだと考え直して、御身による加護を頂けないかと思った身勝手、認めるほかございません≫
≪わらわがあの子たちに加護を与えねば、鋳砧様が氏子として引き抜く名分が立つとお考えですか≫
≪めっそうもないことです≫
鷹は憤然と……まあ鳥に表情の変化はほとんどないが、梟をにらみつけた。神に感情がないわけではないが、化身の挙動は意識して行うものだから、そこに意図せず漏れるということはない。すべてが芝居であることを互いに納得しているような、そんな会話だった。
≪あの子らが大輪どののお役に立つよう、いくらか加護を与えましょう。その代わり、御身が直接あの子らに言葉を下ろされることは、しないと約束して頂けますか≫
≪それは手厳しい。しかし、受け入れましょう≫
鷹はくちばしを、くいくいと上に振った。「異界の者には恵まず、害さず、宣らず」という神々の申し合わせ[鷹狩り編(3)で言及]を、転生者たちは面白がって「なんきょくじょうやく」と呼び、この世界の神職たちはそれに難局条約の字を当てた。兵吾は異界の者ではないので、その対象ではない。兵吾が異界の者たちを束ね、指揮してくれれば神々にとって利用しやすい。それはどの神々にとっても同じだから、梟は鷹に対して執拗なほどに、兵吾と直接話すな、引き抜き交渉をするなと求めているのである。
≪わらわもあの子の日常を親しく見るすべを、用意するとしましょう。ご用事はそれだけですか≫
≪……はい。御身お大事にお過ごしくださいませ≫
鷹の返答は遅れた。梟は兵吾に監視の目をつけると言う。それは兵吾を通じて、鷹の影響下にある大輪兼治の思惑や行動が漏れ伝わるということでもある。それも呑まされた鷹は、背を向け飛び立った。鋳砧明神の実際の機嫌がどうであるか、その飛び方に表れることはなかった。
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乾いた音を立てて、鎧を構成していた板状の部品がちぎれ、飛び散った。もう使い物にならない戦利品の古鎧とはいえ、強い衝撃を受けた結果であった。
「すさまじいものだな」
「ご覧の通り、初手をはずせば、次の手は間に合いませぬ。距離があっては当たりませぬ。文字通り、最後の一手でございます」
兵吾のつぶやきに、ひかりが応じた。ふたりの組頭と儀次郎も同様に、称賛の笑顔を見せていた。見張りの持ち場にいる者を除くと、残りの兵は新村で刈り入れ、乾燥、脱穀、籾摺り、俵詰めと続いていく膨大な作業を手伝わされていた。それが終われば、祝田砦の落成祝いを兼ねた秋祭りの振舞酒だから、村役たちのご機嫌は誰も損ねたくない。
「先日のようなこともある。この技でいのち永らえることもあろうよ。ひとりで戦うものではないゆえな」
ひかりは無言で頭を下げ、兵吾への返事に代えた。
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太刀谷の兵がいくらか飯綱荘に姿を見せてから、十橋家は投網川対岸への上陸を控えてきた。そして小舟での偵察も、川の中ほどから遠望するだけにしていた。いつも村人に頼んで漕いでもらうのだが、農繁期とあって村の老人がひとり乗って、あまり経験がない若い徒士を指図して漕がせていた。いつも二艘出すところ、今日は一艘にとどめている。
偵察に慣れた徒士が、今日の偵察班を仕切る儀次郎の注意を引いた。
「儀次郎様」
「あの旗印……」
対岸に騎馬武者が三騎、ゆっくりと歩いていた。徒士を連れていないから、戦闘を想定しない巡見なのだろう。中央にいる、二番目に良い鎧を着た武者は、旗指物を背負っていた。その紋所は、与謝部家のものであった。太刀谷家の向こう側に版図を広げ、石高・人口規模では大輪家に迫る。
「太刀谷では飯綱荘を抱えきれぬということか、あるいは……」
与謝部が太刀谷を吞み込む好機と見たのか……という憶断を、儀次郎は兵の前で口にすることを控えた。




