群盗編(1)
厳吾の当主館で、兵吾は軽食を喫していた。兵吾たちの母親がすでに没していることもあって、長男の嫁である亜里沙が女主人のように接客を仕切ることが最近増えていた。亜里沙とその父である秋葉屋が、十橋の同盟者として信を置かれるようになった証左でもあった。
「義姉上に頂いた着物、重宝しております。松もくれぐれもお礼をと申しておりました」
「まあまあ、働けと急き立てるようで気が引けておりましたのに、喜んで頂けましたか」
兵吾は茶菓を出しに来た亜里沙に、婚礼祝いの礼を言った。佐賀家から松とともに箪笥と衣装がやってきたが、小身の三男坊の嫁は農事はやらぬにしても、烹炊やら裁縫やら裏方仕事の陣頭に立たねばならず、要るのは華美な訪問着より作業着・割烹着のほうだった。おそらく佐賀家から発注された衣装の構成を秋葉屋がつかんで、亜里沙の名義で実用的な衣服を贈ってくれたのである。
「そういえば佐賀家の見舞いの米十俵、新村の貯えに加えたが、良いのか」
「新所帯には口二つしかございませぬゆえ」
負傷して帰ってきた兵吾を追って、佐賀家から米十俵が「御見舞」の名目で送られてきた。まあ見舞いの名目で刀剣類を贈るわけにもいかないから、何か表ざたにできないことで兵吾が謝礼か褒美をもらった……と周囲の者は察した。
大輪家の秘密の鷹狩りに注目が集まらないよう、兵吾は兄弟と父にだけ起きたことの全体を伝えたが、先日会った厳斎は苦笑いをしながら兵吾の肩を無言で叩いて行ったから、龍吾が何人かにそれを聞かせたようだった。それもおそらく数人に限られていた。
わずかな沈黙の意味を察して、亜里沙はさりげなく席を立ち、龍吾と兵吾だけが残った。
「上手に負けてこいと申しつけたに、引き分けたうえ米俵を背負って帰って来おった。途方もなきことよ」
「途中まで戸板に乗せられて帰ってきましたので、いまひとつ面目も立ったやら立たぬやら」
「言うわ」
兵吾はだまって頭を下げた。龍吾は静かに続けた。
「うぬの屋敷周りの集落だが、新村の小字扱いにするとして、名がなければ不便であろう。うぬの婚礼のこともあり、うぬが生きて戻ったこともある。祝田と名づけようと思うが、どうか」
「結構な名かと存じます」
他人事のように平静で、どこか面白がってすらいる口調だった。しかしそれなりに婚礼や生還だけでなく、十橋家に兵吾が残ると言い張って、当面それを押し通したことを、龍吾は内心喜んでいるようだった。それを口に出すと、将来大輪家に押し切られたとき当主の意向に逆らって家を離れたことになってしまうので、控えてくれているのだろう……と兵吾には思えた。
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集落名が祝田になったので、ようやく本工事が始まった砦も祝田砦、その常勤兵も祝田衆ということになった。伝令用の馬は若干数置くが、戦力は歩兵だけということで、勘定方と話はついていた。
鷹狩りにもついてきた譜代の三男、伊賀三次も祝田衆のひとりに選ばれていた。役米をもらって部屋住み脱出である。これで婿か養子の口がかかってどこか譜代を継げれば万々歳、役米がつくうちに所帯を持って開拓農地か空き農地を任されれば、士分ではなくなるが一家は立てられる。
徒士として評価されれば譜代の家に迎えられることもあった。早瀬家は耕す人手をすっかり失って、もう乗馬も維持できないから譜代から外される可能性があったが、よそ者から自作農になる太吉をうらやむ者たちもいた。
家から何人も徒士(歩兵)、あるいは村で選抜に挑んで騎兵を出す自作農たちが、人を雇い馬を飼い子弟を(主に騎兵として)教練する譜代たちとともに、十橋家を支える構造になっていた。言い換えれば、譜代のほとんどは豪農である。勘定方などの文官は、いろいろな家から向き不向きで登用され、代々という家は神職くらいだった。
話を祝田衆に戻そう。建設中の砦にも敵対勢力の工作者や、資材泥棒は来るかもしれない。だから祝田衆予定者は全員そろってはいないが、すでに内定した者たちは警備の輪番でかなりの仕事があり、その合間に教練も続けられていた。とくに番衆経験のない者は、個人戦闘の技量は十分でも、集団戦闘や合図への反応を訓練する必要があった。
「どうだ、三次。目途はつきそうか」
「もう少しのところまで来ております」
見回りに来た兵吾は、新入りの徒士を少し離れて見ている伊賀三次に声をかけた。三次は四人ほどの兵のかたまりに兵吾の注意を促した。ひとりの兵が、声も動作も大きかった。
「権左は盛んに声を出しております。膂力[=腕力]はとくに優れておりませんが、新入りへのあしらいが丁寧です。今の我等には、ああいう者がおればありがたいかと」
「ひとり目は、決まったか」
「御意。あとひとり、四人ほどから決めかねております。それもここ二日ほどで、兵のなつき具合も見まして」
「あいわかった」
三次は祝田衆にふたり置く組頭のひとりに内定していた。四、五人を率いる小頭を、経験の長い兵や戦闘力のある兵から選ぼうと、守将である兵吾に相談しているのであった。有事には兵たちの心を励まし、支えるのがそうした下級指揮官であったから、個人技以外の面も見た方がいいのだが、なかなかそれは難しい判断だった。有事に露呈する人としての底力を、平時に推し量って見誤る例は、尽きることがない。
人口千人をようやく超えた十橋荘に新しい砦を築いたのである。それにしては守兵は大盤振る舞いをして、ふたつの組で合計二十人ほど、さらに新村の農兵を教練代わりに交代で詰めさせる予定であった。
「早瀬の若は、やはり物見衆ですか」
「左門[早瀬太吉の義父]は、身共の供回りを期待しておるようだったが、猟師の心得は物見にも通ずるゆえ捨て置くに惜しい。当分は物見と使番[使者、ときに見聞役]の見習いだな」
伊賀三次は、兵吾のお気に入りにも見える太吉との距離感を測りかねて、年下の新参者を「早瀬の若」と呼んでいることに兵吾は気づいた。この空気は払拭せねばならないと、兵吾は心に留めた。そして言った。
「まだ元服前だ。太吉で良い」
「はっ」
三次の返事と表情は、兵吾が何かを読み取るには情報が少なすぎた。近づく馬の足音が兵吾の気をそらした。やがて下馬した軽装の武士が兵吾に一礼した。
「護提様、御見回りありがたく存じます。中村の弓衆と打ち合わせておりました」
「こちらへ詰める顔ぶれは決まったか」
「弓の師範が務まるほどの者は出したがりませんので、小頭見習ほどの者を修行名目で引っ張ろうかと存じます」
名和龍三郎は三十才を過ぎ、戦士として円熟し始めていた。厳斎に次ぐ番衆副長格をつとめてきたが、その役目を厳斎の長男に譲って、祝田砦で兵吾の副将になった。若く柔軟な三次の組を切り込み隊として、龍三郎は弓衆を中心に本陣を守る組頭でもある。まあ、兵吾が大輪家に持っていかれたら、祝田砦を引き継げる人物を配置しておかないと十橋家も困るのである。
同じ理由で、兵吾と乳兄弟である儀次郎も祝田砦で固定的な役目を持たず、兵吾の側近として働くことになっていた。こちらは使番の即戦力として期待され、しばらく二の次にしていた馬術の教練を厳しく課されて、ひいひい言っていた。新村の役宅は、すっかり譜代の新村長たちに引き継がれていた。
「太吉も、修行に出した方がよいかもしれぬ……」と兵吾は考えをめぐらせた。
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中村から急な呼び出しがあって、兵吾が村長役宅に上がり込むと、謙吾と鳳吾、そして藤庵が奥の間に集まっていた。珍しい取り合わせであり、当主たる龍吾はいなかった。若い三兄弟に顧問格で藤庵がついて、何かを決めろと言うことかもしれなかった。
「じつはな。飯綱の遠い分家という御仁から書状が来た。誼を通じたいと言うて来た」
「いきなりですか」
「そうなのだ。いきなりだ」
鳳吾の問い返しに、謙吾がむっつりと答えた。内通の申し出をするなら、もう少し日頃の音信を重ねてから、それに混ぜてほのめかすものであろう。焦りを見透かされることをかまっていられない……という印象を、兵吾も持った。藤庵が諜報責任者として、状況を説明した。
「冬の戦で手痛い負けがあって、祝田の砦を邪魔する余力もなくなった。もともと飯綱は傭兵に頼りがちであったが、やはり集まらぬようだな」
「送り主はどういう家なのですか」
「飯綱は古い家だから、分家したのもいつのことかもう分からぬ。だが何度も本家と通婚しておる。目立つ武勲はないが、一門の中では分限者であるようだ」
家産があり、従う者の多い豪農であれば、主家の不振に巻き込まれたくないと考えるのは自然であろう。鳳吾も黙り込んでしまった。わずか三代を重ねただけの十橋家だが、一の御方にも弟や従兄弟が従っていたから、もう十橋を名乗らない遠縁の一門衆がいくらかいる。それは荘の藩屏であると同時に、内紛の核にならないとも限らなかった。
「今は何も約束せず、時候の挨拶だけで返すというのはいかがでしょう。こちらは祝田砦を固めたいところで、いまことを構えるのは損というもの」
鳳吾が理詰めなことを言った。だいたい三人の中では、こういう視点で物を言うのは鳳吾の役回りであった。とすれば兵吾は、情やしがらみの面から考えるべきなのだろうが、会ったこともない敵将に情も何もなかった。
「先方にも事情はありましょうが、何をしてくれるのか分からぬままに誼と言われても、応えようもありませぬ。それは先方もわかるでしょう。今後ともご昵懇に……とあいまいに返すところかと」
「そうだな。護提、仲人殿[穂沼大八郎]を通じて戸塚様に一報を入れてはくれぬか。我らが飯綱と通牒したと戸塚様に思われてもつまらぬ」
「承知」
話がまとまったので、謙吾は藤庵のほうを向いた。
「殿様には身共から言上しておこう」
謙吾が何も言わぬうちに、藤庵は短く言って、結論を了承した。おそらく藤庵と龍吾の間で、あらかじめ妥当な結論の範囲が話し合われているはずで、藤庵がすぐ異論をはさまないのは、三人の結論がその範囲に収まったということであった。




