婿取り編(2)
「まだ賛丸(兵吾)が気になるのか」
龍吾は謙吾の盃に濁り酒を注ぎながら言った。次期当主として龍吾の館での仕事が多い謙吾を、龍吾は時々引き留めて夕食を共にさせた。何か用事があるときだけ呼んだのでは、呼んだら変事出来と周囲に知れてしまうからである。だが今日はほんとうに、話があった。
「人を使うことに慣れよ、市丸(謙吾)。身共も厳斎や藤庵をつこうてきた。其許はいずれ、叔父御をこき使うことになるのよ。弟をわが身と引き比べるなど無駄」
無言で杯を干した謙吾は、やはり無言で頭を下げた。龍吾は、独り言のように言った。
「運ばかりでつかんだ手柄とまでは言わぬが、今度は肝が冷えたわ。戸塚も危ない賽子を振らせおったものよ。合戦の様子は、聞いておろう」
術者の所在が知れないせいで、この冬の太刀谷勢との戦いは戦場の霧が深く、矢面に立つ武者たちにはいつ何が飛んできてもおかしくなかった。ちょっとした運の悪さがあれば、十橋勢は兵吾もろとも甚大な損失を出していたところである。龍吾は当主の仮面を捨てて、父親の苦衷を見せていた。
「其許もこういう顔をして、こういう思いをすることになるのだ。そちらのほうを嘆くがよい」
「はい」
謙吾はもう笑うしかなかった。
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戸塚家が兵吾と松の仲人に指名してきたのは、十橋一族の予想通り、穂沼大八郎であった。秋の武者揃えでは戦奉行であったが、本来この人物は文官で、戸塚家の中小土豪への取次(渉外担当)が本務である。
丸岡の穂沼邸にあいさつに来た兵吾は、建物の隅々まで繊細な造作に驚いた。そして外敵への備えが民家の戸締まり以上のものでないことも見て取った。市街で戦闘になることを、もう戸塚家は想定していないようだった。
「いやあ、この度は祝着にござる。またとなきご縁ですなあ。ささ、こちらへ」
穂沼は玄関まで出迎えてくれた。客間の上座には座布団がなく、対座するようになっていたから、さすがの若い兵吾も恐縮した。仲人と対等の席に着くなど聞いたことがない。だが穂沼が翻意しないので、座布団の配置通りに座った。
何気なく座った穂沼が、いきなり幅広く手をつくと、平伏した。
「過日は当家が無理な使い立てをいたし、まことにお詫びのしようもなく存ずる」
一瞬、何が起きているのかわからなかった兵吾であったが、この冬の太刀谷勢との戦いの話だと気づくと、あわてて声を上げた。
「お手を……いやいやいやいや、お顔をお上げください。身共らは、戦場の習いとしか思うておりませぬ」
日頃の用心深さが吹っ飛んでしまったのは、経験の浅さと言えるかもしれない。
「主家には表立って頭を下げることができませぬが、なにとぞ良しなにと、殿のご内意にござる」
だがなんとか、ここで兵吾は持ち直した。穂沼の早口が、日頃の用心を呼び覚ましたのである。同じ速度を避け、ゆっくりとした口調で応対すべきときだった。
「……戸塚様と当家は一蓮托生でございます。常々、父から言い聞かされておりまする」
そこまでは言われていない。だがここは話を盛ってでも、穂沼と一緒に形式を踏んでやるべきだと兵吾は気づいた。大輪家が兵吾に嫁をやるのは、事実上傘下にある戸塚家の酷薄な仕打ちをとがめ、埋め合わせるものと見えなくもない。戸塚家と十橋家に「何の遺恨もない」ことを確認するのが穂沼の仕事であり、それは兵吾も分担すべきものである。
「ありがたきお言葉。いやこうなると惜しゅうござる。はよう我が娘の婿に取るのでござった」
また穂沼に流れを持って行かれて、兵吾は頭の中が真っ白になった。
「家中で相談をしておったのでござるよ。どの家に来ていただこうかと。我が家も乗り気でござったが」
それはそうであろう……と兵吾は思った。入り婿に取る側からすれば、実の娘どころか、ゆくゆくは家督もくれてやるのである。下士の娘を養女にするより、話がまとまるのに時日がかかるに決まっている。穂沼自身が本当にそれに加わっていたか、盛った話なのかは、今となってはわからない。
「恐縮にございます。あらためましてお仲人の儀、よろしくお願い申し上げます」
「微力ながら、あい務めさせていただきまする」
「失礼いたします」
茶碗ふたつを盆に乗せた若衆が廊下から声をかけた。柔らかい表情が穂沼から瞬時に消えて、鋭い眼光が若衆に飛んだのを、兵吾は気づかぬ顔をした。穂沼が頭を下げ終わるまで部屋に近づかないよう指示されていたが、茶が冷めるから、頭を下げ終わったとたんに声をかけてしまったのである。これではすべてが穂沼の予定通りであったと、丸わかりであった。
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村人の当たりが柔らかくなって一家が喜んでいられたのは半月ほどだった。ある意味でその余波なのだが、太吉の婿入り話が舞い込んだのである。
冬の太刀谷勢との合戦で、番衆の騎馬武者がひとり戦死した。若かったから跡取り息子もいない。だいたい譜代の嫡子は番衆として長屋に待機する暮らしを選ばないものだが、功名に憧れていたのでその道を選び、そして戦死した。
譜代の当主に残ったのは娘だけだった。その婿として、ひとり息子ではあるが武家の子として教育を受けてきたらしい太吉を「くれないか」というのである。当主ももう相応の年齢であり、今から育てるにしても、幼子では間に合わない。譜代の次男坊三男坊がいないわけがないのだが、幼子でなく鍛える余地も残る……という年恰好でえり好みをすると、太吉が良いと先方は言うのであった。どうも当主のほうも武芸と功名にこだわりのある人物らしかった。
太吉の気持ちも聞かず、浪人とはいえ武士の面子として、嫡子の他家への婿入りなど言下に断る……ような感性を、この数か月の凸凹した人生で、甚太は鈍らせていた。太吉も弥助にいろいろ教わって、年齢に似合う程度以上に、ものを考えている様子だった。だから甚太はまず太吉に事情を話した。
「太吉も気付いておろうが、父は微力だ。一代でもう一度家を興すこと、正直自信はない。転生者の来る異界では、生まれに関わらず道を選ぶことが当たり前であると聞いた。太吉もそうしたいのであれば、向田の家にこだわることもない」
「……父上は、どうしたいのでございますか」
「どういうことだ」
日が暮れようとしていた。新村に来てから、甚太一家は主人だけ飯の菜を多くするようなことをせず、ひとつ鍋から同じものを食うようにしていた。共にいろりを囲んで、何も言わぬ母がどことなくそわそわしているのは、話が長くなって日が暮れると灯り代がかかってしまうからかもしれなかった。
「弓矢で身をお立てになりたいのですか。それとも職人として暮らしてゆくことをお望みですか」
「それを聞いてなんとする」
「太吉は武士の子でしたが、もう一年近く、武士の子としての修行を怠っておりました。今度のお話を受ければ武芸はもとより、安東介さま[鳳吾]の塾で読み書きと軍学を習うこともできましょう。武士の子に戻ることはできますが、父上もご存じのように」
太吉の笑い方は、子供のものではなかった。要らぬ苦労をさせたせいかと、甚太はちくりと悲しみを覚えた。
「太吉は弓の筋があまり良くありませぬ。父上には一生及ばぬかと存じます」
「なればこそよ。弥助殿にいろいろ、生計の道も習っておるのであろう」
「弥助殿の異界にも、夢を追って追い切れず、それを引きずって一生を終わる方々がおられるのだそうです。ひとりがかなわぬ夢を追い続けることで、周りに何かが押し付けられることもあるのだと、弥助様から教わりました」
甚太は言葉が継ぎづらくなった。太吉は誰も責めず、誰も称えず、自分と父の行く末だけを考えているようだった。甚太もさっき太吉にそれを許したつもりだったが、太吉はもう自分の知らないところを歩いているように見えた。
「向田家を丸ごと立て直すというのは、見込みが薄く痛みの大きい道だと思うのです。父上とふたりで、ひとつの夢を半分ずつ追うというのは、いかがでしょう。太吉は武士の子に戻り、自分になれる程度の武士となって、行けるところまで行きまする。父上は弓の上手として、太吉のことを気にかけず、母上とお心のままに進まれませ」
「……お前さま。これは一本取られましたよ」
母が明るい声で割り込んだ。
「負けておしまいなされませ。せっかく太吉がここまで、行く末のことを考えてくれたのです。太吉。跡取りのことは、太吉の心配することではありません。母に任せておきなさい」
ぽんと母が自分の脇腹をたたいて音を立てたから、父も子も何も言えなくなった。やがて甚太が愉快な笑い声を立て始め、太吉も続いた。
婿取り編 了




