嫁取り編(2)
「困ったことになりました」
春のうららかな陽光が縁側から差し込んでいるのに、秋葉屋仁左衛門の表情は重苦しかった。仁左衛門が多忙な身を新村へ急がせたのは、それだけの変事があったからだった。
「恐縮です」
「護堤様……それは途中を端折りすぎでは」
控える儀次郎が兵吾をたしなめた。
兵吾の嫁を探すことになった仁左衛門は、まず村松の、しかし豪商など大輪家の家臣「ではない」良家から候補を探すつもりだった。
しかし先日の戸塚家と太刀谷家の合戦で戸塚家が一方的に勝ったことは大輪家も注目していて、仁左衛門のひそやかな打診はすぐに大輪家に耳打ちされ、大輪家から仁左衛門に対して兵吾の縁談がねじ込まれた。こうなると戸塚家は蚊帳の外である。大輪家は人ひとりの人生を使いつぶしてでも、何が起きたのか知りたいのである。大勢力となると、背負っているものも重く、生き残るために使える資源も底深い。
縁談相手は、大輪家の重臣、佐賀江西大尉の養女とされる松姫である。仁左衛門が誰に問い合わせても、娘本人については最近のことしかわからなかった。今回の話に合わせて、急いで養女としたものであろう。
佐賀家に仕える軽輩の娘で、容色は若い軽輩たちのひそやかな噂になるほどだという。それは結構なのだが、つまり両親一家を人質に取られたまま大輪家から送り込まれてくるのであり、兵吾にとってというより、仁左衛門にとって極めて都合が悪いのである。万一のときの脱出先として、大輪家と縁遠い十橋に渡りをつけた意味がなくなってしまう。
しかもその松姫、神社参詣のためと称してわざとらしく十橋荘を通る旅程が組まれ、わざとらしく新村で休憩するので世話を頼むという大輪家の依頼が龍吾あてに届いたから、ますます面倒なことになった。
「父上とも相談せねばなりませんが……受けるしかないのではありませんか。十橋としては利ばかりある話です。むしろ戸塚様が嫉妬しかねないくらいで」
「婿に取られるのでなく、あちらから嫁を送るという話ですからなあ。こちらから誰か代わりに送り出すわけでもございませんで」
仁左衛門もつられるように言った。圧倒的に大身の大輪家が、最近「結果を出した」十橋家という集団を評価し、それを壊すような婿取りを遠慮する形であった。
「秋葉屋様」
儀次郎は主家の親戚筋である仁左衛門に丁重な態度をとった。
「私どもと連絡をつける手立ては、いくらでもございましょう。むしろ松姫様おつきの方々が、あれこれ嗅ぎ回ることへの対処が、我らでは手が回りませんので……」
「儀次郎様は、商人になっても成功されますなあ。いやあ、うまいところに気が付かれる」
仁左衛門は機嫌を直したように笑った。要するに新村の防諜強化に、秋葉屋から人を出せと儀次郎は言っているのであった。
そして、そういうことになった。
--------
今日は新村に着いて兵吾に挨拶する旅程だったが、旅籠の朝食に見慣れないものが出た。
「松姫様、縁起物でございます。お召し上がりください」
「これは」
「おなごが殿方と見染めあうとき、口にしているとうまくいくとか、異界の習わしと聞いております」
練った小麦粉を四角く延ばして焼いたものを、松姫は不思議そうに口にした。香ばしい塩味がついていた。それを老女の菊路は無表情に、帳簿を確認するような目で見ていた。
菊路は松姫を養女に迎えた佐賀家に長いこと仕えているらしいが、急に決まった縁組で、松姫になじみはなかった。何がとは聞かされないが、様子を探りに行く役目らしい……と松姫も気付いていた。だがそれは菊路をはじめ、一緒に新村へついていく数名の女たちの仕事であるらしかった。
松姫は、佐賀家の養女となることが一方的に言い渡されてから、最後に家族と過ごした日のことを思い出していた。
--------
軽輩の家では、冠婚葬祭のときでも澄み酒(清酒)など口にできるものではなかった。他領に嫁してもう会えないかもしれない(実の)親子のため、佐賀家の用人が気を回して、上等な酒肴を届けてくれていた。
父は穏やかな人物であった。武勇の手柄はほとんどなかったが、いつも大けがをせずに帰ってきていた。乱世ではない時代に生まれていたら、もっと世に出る機会があったかもしれないと母が嘆くのを聞いたことがあった。
「松。お前は我らより出世するのじゃ。これよりは、おのれを我らの嫡流と思え。我らは」
父の言葉は、そこで少し止まった。言葉を慎重に選んでいるようだったが、単に慣れない上等な酒に酔っていたのかもしれなかった。
「我らは、あるじ様への重恩があるゆえ、それに殉じる。だが松、お前はもう女当主じゃ。新たな地で生き延びよ。親子をこともなげに引き裂く上様[殿様の上の人、この場合は大輪家当主]の没義道、何かしら報いはあろう」
母が目を丸くしたが、何も言わずにこらえた。弟で嫡子の小太郎も、顔を上げたが言葉を控えた。そう。松姫が大輪家の意に沿って何かを命じられるとき、両親一家は人質とされる……と松姫も気づいていた。だが父がそれを口に出すとは思っていなかった。
「小太郎。父に万一のことあらば、一身の判断により……姉を頼れ。名乗る名字など何でもよい。そなたたちが我が家ぞ」
「はい」
小太郎が小さな声で答えた。松姫が何も言えずにいると、母が言葉を添えた。
「異界に、'やられたら倍返しだ'という言葉があるそうです。子を得て栄えなされ。無理を押されぬ、力ある一家になりなされ」
松姫は無言でうなずいた。




