人狼パニック
大口英樹は人を殺す。
なぜなら彼は人狼だからだ。
カツン、カツンと大理石の床を、颯爽と歩く女子高生がいる。
英樹のクラスメイト、才城亜美である。
モデルのように背筋を伸ばし、長い黒髪を打ち振る姿は、すでに女として完成している。
髪をかきあげる仕草すらも優雅であった。
英樹は、学校に潜り込んだ際から、亜美を食すことばかり考えていた。
あの才色兼備の亜美を、蹂躙し、切り裂き、骨の髄までむしゃぶりつくてやりたい。
顔面に張り付いた余裕のある笑みを、ぐちゃぐちゃの恐怖に歪めてやりたい。
そして亜美に成り代わりたかった。
英樹は廊下の角から、彼女をストーカーのように観察した。
しかし、英樹は首をかしげた。
時刻はもう深夜になり、昼間は眩しかった青い海も、鳴りを潜めている。
そんな時間帯に、なぜ亜美は出歩いているのだろうか。
しかも、このフロアには一般客しかいないはずだ。
英樹は悩んだが、散歩でもしているのだろう、と結論付ける。
埃一つない廊下は、彼女の足音ばかりを反響させ、他の生命の声が感じられなかった。
人狼とはいえ、英樹は不気味で仕方がない。
されど、亜美が深夜に出歩いているのは、またとないチャンスである。
夜、考えなしに出歩いたら、偶然亜美を見掛けるなんて、今日の自分はツイている。
狩場が見知った空間ではなく、今日来たばかりの修学旅行先の高級ホテルなのが、不安要素ではあるが、この機会を逃すわけにはいかない。
不意に亜美は、302号室の扉を、ためらいなく開けた。
「え?」と英樹は顔をしかめる。
散歩とばかり思っていた亜美が、突然一般客の部屋に入ったのだ。
どうすればいいのだろう。
英樹は落ち着きなく首をキョロキョロとまわした。
当然、周りには英樹以外だれもいない。
しかし、英樹は突然、はやくしなければ見つかってしまうという焦燥にかられた。
昔から臨機応変という四字熟語が嫌いだった。
毎回、ハプニングに遭うと、自分でも思いもよらない行動に出てしまう。
他の人狼からも、人狼に向いていないと揶揄されていた。
しかし、そう言った人狼たちは全員死んだ。
英樹はこの事実を、自分が向いていない訳ではない、と解釈した。
足を忍ばせながら、英樹は、302号室の前に立った。
むしろこれは絶好のチャンスではないか。
今、亜美は袋の鼠なのだから。
しかし、宿泊客がいるかもしれない。
「…………」
英樹は自棄気味にドアノブを握った。
空腹と混乱と、見つかることへの恐怖が、彼を302号室へと追いたてたのである。
扉は鍵がかかっておらず、ゆっくりと開かれた。
部屋のなかは、奥でわずかな光が揺れるだけで、ほとんど真っ暗だ。
人狼の英樹は、すぐに暗順応ができるので問題ない。
耳をすますと、微かな女性の喘ぎ声が聞こえ、嗅覚は甘い匂いを捉えた。
英樹はゾクゾクと昂奮した。
亜美が交尾をしているのかもしれない。
援助交際でもしているのだろう、と英樹は短絡的に結論付けた。
いささかショックを受けたが、好機であることに変わりはない。
母親からも、食事中、睡眠中、性交中に襲えと、口を酸っぱく言われていた。
男子高校生の顔が歪に変形をはじめた。
鼻が前へ前へと突っ張り、唇が割れるように拡がっていく。
焦げ茶色の体毛が全身を覆い、彼は人狼へと変貌した。
人を切り裂くための長い爪、頸動脈を噛みちぎるための鋭い犬歯、人を殺すことに特化した生物だ。
人狼と化した英樹は、音をたてずに部屋の奥へと進んだ。
亜美を食べるために、英樹はこの2週間、人食を我慢してきた。
その絶食生活がやっと終わりを告げるのである。
「……は?」
英樹は刃物のような目を、丸くせざるを得なかった。
ベッドの上で男が死んでいるのである。
靴を履いたまま仰向けに倒れ、頸動脈から溢れる血潮でシーツが染まっている。
光りのない瞳が、英樹を虚ろに眺めていた。
男の風貌は堅気ではない。
厳ついスキンヘッドをしており、はだけた胸元から龍の入れ墨が覗いている。
「なんだよこれ。なんだよこれぇ……」
頭を抱えて悶える英樹。
彼はとりあえず食べることにした。
二週間の絶食をした胃が、目の前の人肉に耐えられなかったのだ。
テレビに映るアダルトビデオに耳を苛まれながら、英樹は大きな口をひらいた。
「ふぅ」
英樹は入れ墨の男を肉片一つ遺さず完食した。
極上の雌肉を喰らう予定が、淡泊な食事に変わってしまい落胆する。
けれども、空腹よりはマシなはずだった。
「ウッ」
英樹の外貌がふたたび変形していく。
栗毛がぬるぬると引っ込みはじめ、鼻がつぶれたように縮んだ。
体格も大きくなり、胸に龍の入れ墨が浮かぶ。
英樹は入れ墨の男に変身した。
顔も、胴体も、臭いすらも、完全にコピーしたのである。
昔から人間の姿をもっていた人狼だが、喰らった人間に変身するこの能力は、近年備わったもの。
監視カメラの発達によって、食事のたびに姿を変える必要性が生まれ、その結果、肉体が喰らった人間に変身するよう進化したのである。
記憶は引き継がないため、臨機応変さのない英樹は、苦労することが多いけれど。
「英樹君だよね?」
英樹は女の声で後ろを振り向いた。
その瞬間、彼は生唾を呑んだ。
亜美が素裸で立っていたのだ。
肉付きのよい身体から、英樹は目を離せない。
雪白の肌も美味しそうに輝いている。
ずっとシャワー室に籠っていたのだろう。
しかし、なぜ――その疑問が英樹に浮かぶ前に、亜美は答えた。
「今食べた男、わたしが殺したんだよ」
あっけらかんと亜美は笑った。
英樹はまた混乱する。
本来の捕食対象が、変身した彼を英樹と呼び、しかも罪を告白したのだ。
情報量の多さに、英樹は耳を塞ぎたくなった。
けれども少女は、追い打ちをかけるように囁くのだ。
「ねぇ。仲間の仇をとりたくない?」
△▼△
英樹が亜美の言葉に混乱している頃、ホテルの屋上にスーツ姿の男たちが集まっていた。
陽気なはずの南国の空気が、木枯らしでも吹いたかのように凍えている。
葛城八衛は、男たちの中心に立ち、オールバックの髪を梳かしながら、満点の星空を見上げていた。
「やはり私は、都会の空よりも、地方の空の方が好きですね」
「はい。葛城さんには美しい場所が似合っています」
葛城は髪を梳かすのやめ、彼らを見まわした。
「ここまで来るのに、時間がかかりましたね」
葛城の言葉に男たちの身体が引き締まった。
粗暴そうな彼らの目に、羨望の光が宿り、称えるような視線を葛城に注ぐ。
「私たちは、あの山中組とついにコネクションをつくり、クスリの契約を結ぶのに成功しました」
そう言いながらも葛城は、瞳に涙をためていく。
苦労を背負った身体が、否応なく反応してしまうのだ。
「1年前、私たちは人狼から薬を奪うために、危険を冒しましたね。その冒険で、20人いた仲間が、10人に減りましたが、彼らの犠牲のおかげで今日の取り引きがあるのです」
淡々と言葉を紡ぐ葛城に、金髪の男が一人体を震わせた。
首筋に汗をかいて、目に恐怖が浮かんでいる。
葛城は、金髪の男の異常に気づき、そっと笑みを浮かべた。
「どうしたのですか? 早見さん。体調不良だったら、言ってくださいね。大切な取引に、何か間違いがあったらいけませんから」
「い、いえ、大丈夫です」
「そんなこと言わずに。さあ」
金髪の男――早見から血の気が引いていっている。
彼は1年前の葛城の所業を憶えているのだ。
愛想笑いを浮かべている葛城の目に、苛立ちが表れはじめていた。
「早見さん。あなた、異分子ですか?」
「ち、ちがいます。私は葛城さんに忠誠を誓った、劉生会の一員です」
「そうですか。そうですか」
葛城は懐から、サプレッサー付きの拳銃を取り出した。
「く、葛城さん!?」
「早見さん。前々から、私たちのお金を、少しずつ抜いていましたよね?」
「な、なんのことですか?」
「はぁ。私はとても残念ですよ」
「ちょ、ちょっと、まっ――」
早見は何の前兆もなく、背中からコンクリートに倒れた。
ひたいに人差し指ほどの穴があき、噴水のように血が溢れていく。
「さぁ、お片付けをしてください」
「はっ」
男たちは葛城の命令に従い、仲間だった亡骸を淡々と片付けていく。
彼らはもう知っているのだ。
葛城を裏切ってはいけないことを。
1年前に死んだ仲間たちは、皆、葛城に謀反を企てていた者たちだったのだ。
葛城は忠実に従う男たちを見てほくそ笑んだ。
不良あがりの何も頭がない屑ども。
彼らを手足のように操ることは、葛城にとって造作もないことであった。
「ん? そういえば羽佐間さんがいませんね」
胸に龍の入れ墨を彫った馬鹿な男。
しかし、腕っぷしは劉生会のなかで一番だった。
「まさか逃げましたか……うーん。勿体ないですが、裏切り者は、粛清ですよね」
葛城はふたたび空を見上げた。
裏切者の出現など、これから得る多額の報酬に比べれば些細なことであった。
報酬の使い道に思いを馳せ、葛城は気分よく鼻歌を唄う。
歯車がすでに狂いはじめているとも知らずに。