それでも先生と結ばれたい
法律だけがわたしたちの味方だった。
法で禁止されてはいないという事実があるから、どんな時でもくじけずにいられた。
――たとえ、スーツと眼鏡型端末で固めた男の人たちに追われていても。
「もうすぐ屋上だ、手離すなよ!」
「もちろんです!」
大好きな先生に引っ張られて、マンション最上階の廊下を走り抜ける。
手つなぐのなんてまだ数回目くらい。ドキドキがすごいけど、今はそんな場合じゃない。
「区民番号760012:引地 柚希、男性不妊者と交際を行っているとの通報多数により、聴取にご協力願う。これ以上の逃走は特定監視対象となるため、即刻停止するように」
さっきから無機質に呼ぶ声は無視して、屋上への階段前にたどり着いた。手袋を脱いでセンサーに手をかざせば、空中にウィンドウが出る。
『居住者と認定。生体チップの蓄積情報から自殺の意志はないと判断。屋上への通行を許可します。OK?』
いちいち確認文なんていらないのに。急いでOKをタップしたら、かちゃりと音がした。扉を押し開――あっ違う、これ引き戸か!
ちょっとヒヤッとしたけど、無事あの人たちが入ってくる前に扉を閉めた。あとは退散してくれるまで見張って――
もう一度、かちゃりと音がした。
「えっなんで!」
「ハッキングか何かか……と言っている場合ではないな」
「とにかく逃げましょう、先生!」
一段飛ばしで駆け上がる。だいぶ足が痛いけど、そんなの今は我慢の子。
今度こそ間違えずに、屋上への扉を開けた。
大して広くない空間、地上4,50mくらい。逃げ場は――ある!
「免許取りたてで不安ですけど、いきますよ!」
「怖いこと言うなよ……」
先生には背中につかまってもらって、助走つけて手すりを飛び越える。そのまま都心の空を逃げるんだ。
専用グローブとシューズ、それからヘッドギアの三点セットで、重力波を出して反重力で飛ぶ道具。両手をぎゅっと握り閉めて加速した。
「あの、どこ行きますか?」
「新木場に監視のゆるい所があるんだ。案内は私がする」
ビルの間縫って振り切らなきゃ。チップのGPSをいったん切って、たくさん曲がりながら進んでく。方向転換のたびにグワングワンするし建物とかにぶつかりかけるけどしょうがない、今はひたすら逃げるだけ。
あっ追いつかれる、スピード出さなきゃ!
「おい、前を見ろ!」
ビルの看板が目前に迫っていた。悲鳴をグッと飲み込んで、なんとかすれすれをくぐり抜……あれ、目がまわる――
『安全な追跡が不可能と判断。よってただちに帰還する。また、引地 柚希とを特定監視対象に指定。どうぞ』
落下する感覚の中、かすかにそんな声がした。
※ ※ ※
「やっとお目覚めか」
すぐ真上に、心配そうな先生の顔がある。……あれ、この距離感と後頭部のやわらかい感じは、
「なっなんでひざまく」
「まだ横になっとけ」
慌てて起き上がりかけたら、腕でがっしり止められた。けだるげな老け顔が赤くなってる。ついかわいいと思っちゃう。
「あの後自動操縦に切り替わったんだよ。おそらくお前が座標登録していた場所で一番近かったのがここなんだろう」
「……どこなんでしょう」
あちこちに柱と倉庫のある、一面コンクリートの広い空間。ちらほら人がいるけど、大抵けわしい顔してる。さっぱり覚えがないんだけど。
「私たちと同じ不届き者が作ったシェルターだよ。これは廃地下鉄の駅跡にあるやつだな」
「……思い出しました。そういえば適当なシェルターを登録しとけって言ってましたよね」
「そうだ。言う通りにしてくれたんだな」
「えへへ」
思わず笑顔になったけど、先生はそれにつき合わない。
「……これでよかったのか? そりゃあ逃げなければ『聴取』が待っている。だが監視対象にされた今、もう駆け落ちどころじゃないだろう」
「黒服の人たちがずっとそばで見張ってくるようになるんでしょう? でも大丈夫ですよ」
ひざ枕から起き上がって、疑わしげな目の先生にほほ笑んだ。
「今すぐ駆け落ちしちゃえば、向かってくるまで時間ができますから」
シェルターは確か、電波も音も届かないようなところに作られてる。GPSは飛ぶ前に切ったし、勝手に復活する仕様だけどあと数時間はあるはずだし。
とてつもなくバカなことを考えてる自覚はある。でもわたしはこうしたいんだ。
「お前本気か?」
口調は強いけど、とても心配そうな顔。その目から視線をそらさずに、素直な気持ちを伝えた。
「本気も本気です。もろもろ連絡とか手続きとかしなきゃですけど、それはひとまず後にしませんか?」
「そこまでこだわる理由はなんだ」
それは、今までで一番簡単な質問だった。
「先生のことが大好きだからにきまってます。……だめですか?」
「だめでは、ない。……だがな、」
つらそうに眉根を寄せて、先生は一回言葉を切る。
「『人工子宮が実用化されたにもかかわらず深刻な少子化が進むわが国では、積極的な人口減対策が行われている』
『治療見込みのない男性不妊の国民は、国の行政機関で公務員として勤務することを義務づけられる』」
「た、たしかにそうですけどなんで」
いきなりの堅苦しい言葉に戸惑ってしまう。
「去年俺が授業でやった内容の一部だが、もう教師を辞めさせられて、現代社会の敵かつ政府の犬になってしまった存在だ。異性と交際するだけで今のように黒服が嗅ぎつけてくるんだぞ。お前はそんな存在と交際どころか結婚までしようとしている」
「はい、おっしゃる通りです」
どこまでもやさしい、じっくり語りかけるような声だった。
いつも赤点ギリギリの私を見かねて、他クラスなのに放課後よく個人指導してくれたあの時みたいに。私が初恋をした、あの時みたいに。
「……本当に、そうしたいんだな?」
「したいです。あなたと結ばれたいんです。逃げましょうよ、先生」
きっぱりと、言い切った。
「……わかった。私は、心根の強い教え子を持ったようだ」
「あっ、ありがとうございます……」
周回遅れで恥ずかしくなってきた。不特定多数のいる空間でプロポーズしちゃったとか、自分で自分が信じられない。先生の顔が見れなくて、思わずそっぽ向いてしまった……けど。
「やれやれ、芯の強さはどこへ行ったんだ。だが、そういう純粋さと折れない度胸を合わせ持つのが、お前のいいところだと思っている」
そっとあごに触れられて、先生のほうを向かされる。わりと近い距離で目が合う。
……ああ、そうだ。あきれられたり厳しかったりするけど、いつもあたたかく私の長所を伸ばそうとしてくれる、そんなところに惚れたんだ。
ほかほかな気持ちで笑った。
「ありがとうございます、ではその折れない度胸で、ちょっと電話してきますね。先生と合っているのを通報してきた人、心当たりがあるんです」
「まあたぶん、あの人だろうなあ。行っておいで」
「はい。わたしたちのためです、がんばってきます」
このシェルターの中で、大きな通気口の近くだけは電波が入るらしい。
この人と通話したい。そう思うだけで脳波から端末が起動して、電話をかけるかの確認画面になる。不安になるけど、ためらわずに『はい』を選んだ。
『……もしもし、お母さん』
「今ちょうど電話かけようとしてたのよ。なんなのあれ! 特定監視対象って街頭ウィンドウにあんたの顔と名前がでかでか出て、気失うかと思ったわよ!」
「自分で通報したくせに」
やっぱり、すごい剣幕だ。でも押されない、それが嘘だと気づいているから。
「……そうよ。お母さん、もう我慢の限界なのよ。あの人はとてもいい先生だったけど、関わることで大変な目に合うのはあんたなんだからね? 大事になる前に、一度厳しく『聴取』してもらったほうがましだと思ったの。それに、あなたには婚約者がいるのを忘れないでよね?」
「あんなわたしの身体しか見てないやつ、婚約者なんかじゃない! それに、お母さんたちが勝手に決めたことでしょ。だから私も、勝手に先生と結婚するって決める」
わがままなのはわかりきってる。でも、もう止まれない。止まらない。
「気持ちは強そうだけど……だめよ。もう、結婚式の話決め始めてるんだから」
「――えっ」
呼吸が止まった。
でもこんなことを言われたって、一歩ずつ前に進んでいくんだ。




