それは真白な雪のように
彼女、いわゆる雪女が私の家にやってきたのは、今から十日ほど前のことだ。
それは草木も凍るほど寒い二月の朝。
もう春が来るというのに気温は氷点下に達していて、吐いた息はとても白い。喉はカラカラに乾燥していて、うまく唾を飲み込めなかった。
暖房を付けることすらも億劫で、毛布にくるまりただジッと気温が上がるのを待っていると、不意に窓の外のベランダで何かが動いた気配がした。
いつの間にか身体から冷や汗が流れていて、パジャマをぐっしょり濡らしている。このまま布団から出たら、寒さで凍え死にそうだ。
不審者がいるかもしれないのに、私は割りかし冷静だった。
いや、そもそもここはアパートの三階だし、わざわざ登っては来ないだろう。私の部屋まで登ってくるなんて、どんな物好きだよ。冷や汗も、たぶんただの発汗だ。
それでも私はとりあえずその気配の正体を知りたくて、毛布にくるまりながらモゾモゾと床の上を這いつくばった。
フローリングがやけに冷たくて、さっそく布団から離れたことを後悔する。
芋虫みたいにグネグネ動いて、やっとこさ窓際へと辿り着いた。グイッと上体を起こして、ベランダの様子を確認する。
そして私は、目を見張った。
いつも花壇の置いてあるその場所には、肌と髪の毛が真っ白な白装束の女の子が倒れていた。
突然の非日常に遭遇してしまった私は、寒さも気にせずにとりあえず窓を開け、彼女に話しかけてみる。
「もしもし。あの、生きてますか……」
返事はない。
お化け、ではなさそうだった。実体はあるし、呼吸をしているのか微かに小さな肩が動いている。
じゃあ何者かと言われれば、やっぱり普通の人間にしか見えなかった。
長い髪の毛は透き通るほどに真っ白で、肌は病的なまでに白い。だけど彼女はしっかりと人間の姿をしている。
体格的に、中学生ほどの女の子だ。
こういう時は、救急車を呼んだ方がいいのだろうか。
この女の子、絶対にワケありだし少しめんどくさそうだ。保険証持ってなさそうだから医療費がバカにならないだろうし。
起きないかなぁと思いつつ、真っ白いほっぺたに人差し指をつき立てる。
「つめたっ!」
思わず、出した指を引っ込める。
まるで雪の中に指を突っ込んだような、突然指先が凍ったような……いや、それはさすがに誇張しすぎだ。とにかく、そのほっぺは雪のように冷たかった。
やだやだ、死後硬直?
そんなことを考えていると、女の子のまぶたがピクリと動いた、気がした。
なんだ、ちゃんと生きてるじゃん。そう、私はホッとした気分になった。
「う〜……」
小さな小さな呻き声を上げて、体をグネグネ動かしだす。まるで、布団の中から出れなかった数秒前の私のようだ。
「あの、大丈夫?」
今度は私の声が聞こえたのか、ピタリと動きを止めてゆっくりと顔をこちらに向ける。うっすらと開いたまぶたの中には、これまた綺麗な赤色の瞳が隠されていた。
「ずー……」
「動物園?」
「みーずー……」
どうやらお水を所望しているらしい。突然ベランダに現れていきなりお水を要求するなんて、親の顔が見ていたい。
だけど優しい私は何も言わずにリビングに戻ってコップを用意した。水道水じゃなくてミネラルウォーターを注ぐあたり、本当に出来た女の子だなと思う。
まあ、昨日買って飲まなかったやつだけど。それは彼女には伝えないで置いてあげたい。
ベランダに戻ると女の子はぺたんと女の子座りをしていて、眠いのか目をひたすらこすっていた。こんなところで寝たら眠いどころじゃなくて凍死しちゃうと思うけど。彼女にとっては全然平気らしい。その力を、少しは私に分けて欲しかった。
「はいこれ、水」
「あ、どうもです」
彼女はぺこりと頭を下げた。
案外に礼儀正しい子でやや拍子抜けする。
彼女はコップに入ったミネラルウォーターをゴクゴクと一気飲みし、プハッと満足そうに息を吐き出した。ビールを飲んだおっさんかよ、と心の中でツッコミを入れる。
「お水まだ飲み足りない?」
「もう充分です。ありがとうございます」
またぺこりと頭を下げた。
なんだか可愛いなと思っていると、身も凍るほど冷たい風が私の身体を通り抜けた。ブルッと身震いして、毛布を羽織る。
彼女は私とは対照的に涼しそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、お部屋の中に上がってもらっていいかな?私このままじゃ風邪引いちゃう」
「いえいえお気になさらず。私はベランダで充分ですので」
「いやいや気にするから。とりあえず、部屋に入って」
その真っ白な冷たい腕を掴んで、半ば無理やり部屋へ招いた。得体の知れない女の子を部屋に入れるだなんてどうかしてるけど、私じゃなくてもきっとこうしてたと思う。
だって、ベランダから落とすわけにもいかないでしょう?ここ三階だし、落ちたらさすがに近所の方の迷惑になるわ。
「とりあえず暖房付けるわね」
「すいません、暑さにはめっぽう弱いんです」
「でも風邪引かないの?」
「寒さに耐えられるように出来ているので」
私はとりあえず、コタツの中に足を突っ込んだ。足の先っぽからだんだん温まっていき、幸福な感じに包まれる。朝、コタツに入るのが最近一番の楽しみだ。我ながら安い女の子だと思う。
「あの、何も訊かないんですか?」
探るように、彼女は私に訊いてくる。怯えなんかの気持ちは伺えないし、ただ純粋な興味なのだろう。
「最初は驚いたけど、今はあまり。全然害は無さそうだし」
強いて言えば、暖房をつけられない事ぐらいだ。私は独りに飢えていたのかもしれない。
「私、あなたを襲うかもしれませんよ?えっと、お名前はなんていうんですか?」
「玉樹真冬よ。あなたが誰かを襲う人には見えないわ。どちらかというと、襲われる側だと思う」
「タマキン?」
「……あなた、今すぐ出て行ってもらっていいかな?」
「ご、ごめんなさい!」
ややドスを効かせた声でそう言うと、彼女はすぐに頭を下げた。正座をして、両手を床につく。見事な土下座だった。
なぜかそれが堂に入っていてちょっとおかしい。
「玉樹真冬よ。タマキンじゃなくて、タマキ。気にしてるんだから間違えないでね」
彼女は、タマキマフユと三回ほど唱えた。それでようやく覚えたのか、小さく右手でガッツポーズしている。
小動物みたいで、少しかわいい。
「タマちゃん、タママ、タマタマ、どれが一番好みですか?」
「一番最後以外ならどっちでも……強いて言うなら、タマちゃんかな」
「じゃあ、今から玉樹さんのことはタマちゃんって呼びますね」
意外と馴れ馴れしい女の子だった。というか、私は猫なのだろうか。
別に不思議と悪い気はしなかったから、良しとしよう。
「ところであなた、雪女なの?」
「雪女かと言われれば、それに近いのかもしれませんね」
「じゃあ、名前は?」
「名前はありません。親のような人に長らく放置されてきましたので」
何か地雷を踏んだのかと思ったけど、特に気にしてない感じだからよかった。
雪女の暮らしがどんなものなのかはわからないけど、名前が無いのはなんだかかわいそうだ。両親に愛されていなかったのだろうか。
こんなに出来た女の子なのに。
「じゃあ、あなたの名前は今日からシロね。全身真っ白だから、あなたにとてもよく似合ってる。それに、なんだか子犬って感じがするもの」
シロはまた、シロと三回ほど名前を呟いた。
その名前が気に入ったのか、シロと呟くたびに口角を緩めている。たぶん、もし尻尾があったらぶんぶん振っているのだろう。




