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見習い楽士の「祝福の音」

 荒涼とした草原。

 澄み渡る空、草花を揺らす風。

 美しい音色を奏でる一人の少女。


 それは夢の中にいるかのように幻想的だった。聴く人に幻を見せてしまえるほど儚い音が、空間を支配する。

 事実、奏でている少女自身もどこか遠くの景色を見ている気分になっていた。大きくうねる大河や朝靄の湖、華やかな町並み……少女は自らの音楽にのって旅をしていた。

 音に思いを込め、肩までの髪を振り乱しながら弾く。右腕は大胆に、左指は細やかに。なぜか白い光に包まれていて、彼女の銀髪が鏡のようにそれを反射させていた。


 少女——エレナ——はバイオリンに生きていた。


 田舎町、ルーベに生まれた彼女がバイオリンと出会ったのは六歳の頃。両親の仕事を手伝って楽器工房に木材を運んでいたときだった。


 誰もいない工房にぽつん、と楽器が置かれていた。彼女はなぜか、どうしようもなくそれに惹かれ、魅了されていた。


「弾いてみたいか?」


 急に声をかけられ、驚いたことを覚えている。振り向いた先にいた無愛想な顔も。この、声をかけてきた人こそサンドロ親方だ。


 親方は、昔はプロの宮廷楽士を目指していたほどの楽器の腕前を持っていたらしい。エレナに一から弾き方を伝授し、楽器を作り、さらには

「音楽院に入らないか?」

 とまで言ってくれた人でもある。

 もちろん、一切お金を払わせずに。


 エレナは、家族が貧しくて音楽院に行く余裕なんてないことも、これ以上親方に頼れないことも知っていた。

 けれど。


「親方。私、音楽院に入りたいです」


 彼女は諦めることができなかったのだ。

 エレナはある日、髪をばっさり切って工房に現れた。彼女の自慢だった美しい銀髪を売り払い、音楽院へ入るための資金にしたのだ。


 ——それが、一ヶ月前の話。

 音楽院とも話がつき、エレナは入学試験を受けることになっていた。試験で彼女の才能が認められれば入ることが出来るそう。試験を受ける為には音楽院のあるヴァイナスの神殿まで行かねばならない。

 ヴァイナスへ旅立つのは明日。

 彼女は練習漬けの日々を送っていた。



「お姉ちゃん、お母さんがご飯だよって」


 エミィの声にエレナは手を止める。

 もうとっくに夕暮れを迎えていたようで、草原は太陽の色に染まっていた。


「いつも呼びにきてもらっちゃってごめんね、エミィ」

「お姉ちゃんは気にしなくていいの! わたしはお姉ちゃんの役に立ちたいだけだから」


 エミィの高い声が誰もいない草原に響く。エレナはそっとエミィの頭に手を乗せた。柔らかい茶色の髪を優しく撫で、愛おしそうに見つめる。


「もう、一緒に帰れるのも最後になったりするのかしら」


 複雑な感情が乗せられた言葉にエミィは曖昧に笑ってみせた。


「エミィは、きっとそうなるんだと思うよ。受かったらもうそのままあっちにいるんでしょ?」

「そうねぇ、たまに帰ったりはできるでしょうけど。まぁ、まだ受けてもいないのにこんな話しちゃだめよね」


 エミィにじっと見つめられていることにも気付かず、エレナはため息をつく。


「そうだ、お姉ちゃん。もうかみ切ったりしちゃだめだよ」

「え?」

「かみ、切らないでって。きれいなんだから。都会に行くんだし、それなりにおしゃれしなくちゃだめだよ」


 エレナは決然とした表情を浮かべる妹を不思議そうに眺め、ゆっくりと苦笑した。


「髪は切らないわよ。……おしゃれについては考えておくわ」


 いつもよりも大人っぽい表情を浮かべるエレナが眩しくて、エミィは目を離せなかった。





 夜は明け、窓からは光が静かに射し込んでいた。

 エレナはゆっくりと伸びをする。日の出直後なのにもう目覚めていたようだ。隣ではまだエミィが眠りこけていた。


「ふぅ」


 ためいきのような、あくびのような何かがもれでた。不安と期待と緊張が、彼女の心の中で混ざりあう。


 もし、才能が認められれば。

 ぼんやりと考える。


 音楽院に入ってあのヴィヴァリ様に師事することができる。ヴィヴァリ様の指揮する楽団に入ることもできる。当然、楽器の腕は上達するだろうし、楽団に入れれば家族にお金も入る。

 夢は間違いなく叶うだろう。


 逆に、才能が認められなかったら——才能なんてなかったら。


 夢はきっと、叶わなくなる。こんなチャンスは滅多にないのだから。

 けれど、これまでと変わらない暮らしができる、と思うと少し気持ちが揺らいだ。たとえ貧乏でも、両親の仕事を手伝いつつ仲良く妹と過ごす生活も悪いものではない、という気がするのだ。


「こんな弱気なことを考えていたらエミィに怒られるかしら」


 エレナは自嘲気味に笑うとベッドから起きあがった。



 エレナは朝食の準備を終えるとエミィを起こしに部屋へ向かう。エミィは早起きが苦手で、いつも起こそうとしてもなかなか起きない。

 けれど、エレナはエミィを起こすのが好きだった。


「おはよう、エミィ」

「んん?」


 エレナが肩を叩いてもエミィは目を開けない。


「ほら、起きて。もう朝ご飯できてるんだよ?」

「もうちょっとだけねかせてよー」

「お父さんもお母さんも待ってるの」


 エミィの肩を掴んで無理やり起こす。


「ほら、起きて。朝ご飯食べましょ?」


 エレナはエミィを部屋からひっぱりだし、連行していった。



「おはよう、エミィ。今日もお寝坊さんですよ?」


 母が呆れたようにエレナたちを迎える。もう両親とも食卓に座っていて、朝食の準備は万端なようだ。


「お母さん、お父さん。おはよう!」


 そんな両親に気付いているのかいないのか、エミィは元気に挨拶を返す。父はふぅ、とため息をつきながらのんびりとスープをすすっていた。


「あ、ずるい! もうお父さんたち食べてるの? わたしたちも早く食べなきゃ」


 エミィは慌てて机にかけよっていく。

 エレナは家族のいつも通りな様子に驚きつつ、安心していた。


 みんなが席に座ると、エミィの食前の祈りが始まる。


「今日もお恵みを感謝いたします。わたし達をみちびき、まもり、いつくしんでくださるお方よ。これからもみなに祝福がおとずれますように」


 祈りの言葉を唱えるあいだは全員が手を止め、目をつぶらねばならない。神聖な行為なので、思考を全て神に向けなければいけないのだ。


「みなに祝福がおとずれますように」


 最後の節を四人で繰り返し、食前の祈りを終えた。

 祈りの時の厳かさとはうってかわり、興奮したようにエミィが話し出す。


「ねぇ、お姉ちゃん。もう今日だよ、信じられない! 着くのはいつ頃だったっけ?」

「そうね、朝ご飯を食べ終わったらすぐにお迎えがくるそうだから……今日の夜までには着くんじゃないかしら」

「わー、やっぱりヴァイナスは遠いんだね」


 うっとりとした表情のまま、エミィはどこか遠くを見つめている。


「父さんもヴァイナスには何回か行ったことあるぞ? やっぱり、神殿はすごかったな」

「え、でもお父さんは入ってないでしょ? お姉ちゃんは神殿に入ってきちゃうんだから」

「そのまま勤めるかもしれないしな」


 父と妹の話にエレナは少し顔を赤くさせた。音楽院に入るだなんて、少し前までは夢物語でしかない大それたことだと考えていたのだ。今でも現実味を帯びているはずがなく、自分のことだとは思えなかった。


「確か、音楽院から楽士になった中で、すごい人がいるんでしょう?」


 おっとりとエレナに訊ねるのは母。


「そうよ、楽団のコンサートミストレスをしてらっしゃるステラさま。才能に満ちあふれていて『祝福の音』も使えるんだから」

「お姉ちゃん、祝福の音ってなに?」

「……そのくらい知っておかないと恥ずかしいわよ? 祝福の音を聴くと、実際に神様の祝福を受けることができるの」


 「祝福の音」は、限られた優秀なバイオリン奏者しか使うことができない技法だ。祝福の音を扱えるほどの才能を持つバイオリン奏者は三十年に一人、生まれるか生まれないかぐらいだという。


「そのステラさまは、今も音楽院にいるのか?」

「えぇ。音楽院でもコンサートミストレスをしてらっしゃるわ。もしかしたら、試験で会えるかもしれないの」


 エレナは目を輝かせる。

 家族四人とも、話に夢中で食事の手が止まっていた。誰一人としてまだ半分も食べ終えていない。


「え、どうして会えるの?」


 エレナがエミィの質問に答えようとしたとき、突然ドアを叩く音がきこえた。


「朝早くにすまない、サンドロだ。エレナの迎えにきた」


 低く無愛想な声がしてゆっくりと扉が開く。


「親方、もうですか?」

「間に合わなくなるからな」


 エレナが慌てて立ち上がると、他の三人も次いで立ち上がった。


「まだお別れもちゃんとしてないのに、もう」


 拗ねたようなエミィがネックレスをエレナに手渡す。


「これ、お守り。応援してるよ、お姉ちゃん」

「ありがとう」


 母もエレナに近づくと、小さな包みを渡した。頭をそっと撫でながら微笑む。


「余ったパンよ、それと役に立ちそうなものが入ってるわ。あなたなら大丈夫だから」

「お母さん……行ってきます」


 エレナはもらったものを懐にしまい、荷物と楽器を肩に掛けた。

 急な出発に彼女の心は追いついていなかった。涙の一粒さえ浮かんでこない。けれど、今は感傷に浸っている場合ではないのだろう。


「行ってらっしゃい」


 送り出す三人の声が背中の方から聞こえた。


 人生を賭けた試験が、近づいてきている。


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