食事処 竜華亭 〜調理長は娼婦じゃありません〜
特徴的な香りを持つセザム油を熱した鍋に入れる。鍋肌に当たり、ジュワーッ、と景気のいい音が上がるのと同時に一気に、食欲をそそるセザムの香りが厨房に広がる。
底が半球状になっている竜華鍋と呼ばれている竜人が好んで使う鍋、そして竈に入れたサラマンデルの紫色の高温の炎。それらを操るのは1人の竜人の女性だった。
「豚頭オークと雷ポッポの合い挽き肉ちょーだい」
「はいっ!」
鍋から視線を外さずに後ろに差し出した手に皿に入れられた合い挽き肉が渡され、それを鍋に投入。
柄の長いお玉、専門用語では鉄杓……竜人風に言うのならテイジャオと呼ばれるそれを使い、リズミカルに合い挽き肉を炒めていく。
肉に火が通り、ほぐれてきた頃を見計らって爽やかな辛みが癖になるジンジャ種とガリク種のマンドラゴラの根を細かく刻んだものと青白細ネギと丸ねぎを細かく切ったものを鍋に入れる。
本来、竜華鉄と呼ばれる特殊金属で出来ている鍋は酷く重く、人間にはなかなか振りづらいはずだが女性は軽々と扱い、時折大きく振って中身を空中で一回転させて煽ることもしている。
醤と呼ばれる黒い調味料を回しかけるとそれだけで口から涎が溢れだしそうになる官能的な香りが立った。
「赤辛ホークの爪を使ったペーストとセザムのペースト、酒と蜜大根のすりおろしに胡椒茸のみじん切りに竜族の秘伝のタレをひと匙……」
白く繊細な指が踊るように調味料を鍋に振り入れていく、その度に厨房にはさらに魅惑的な香りが満ち、ついには店の外にも微かに流れ始めた。
他の料理の下拵えをしていた従業員たちもソワソワと鍋を振り返る。じんわりと口の中に溜まる唾液を何度も飲み込む。
「新入り、味見する?」
「は、はいっ調理長」
野菜の下拵えをしていた犬獣人の青年が弾かれたように立ち上がる。選ばれなかった者達の羨望と妬みの視線から逃げるように調理長と呼んだ竜人の女性リュセに駆け寄る。
「名前、なんだっけ」
「せ、セザムです。昨日からこの店でお世話になっております!」
「そう……うん、尻尾も袋に入ってるし髪の毛も耳もきちんと仕舞ってる。いいね。それじゃ、味見皿出して」
鍋の中のひき肉は赤黒く、少し怯むような見た目だが匂いは抜群でくぅ、と腹の虫が抗議の声をあげる。
鎖を通して首にかけてある味見に使う銀の匙を彼女に差し出すと中のひき肉を乗せて返された。
「い、いただきます」
「熱いから気をつけるのよ」
熱い、口に入れた時の最初の感想はそに尽きる。つい先程まで焼けた鍋の中に入っていたのだ火傷を負った口の中がヒリヒリと痛む。そして鼻に抜けるセザム油と香辛料の複雑な風味に知らず尻尾を振ってしまう。
そぼろ状になっているのにガッツリと肉の味を残した合い挽き肉も、シャキシャキと食感を残したネギもたまらない。
「どう?」
「お、美味しいです!」
緊張したようにこちらを見つめたリュセに慌てて感想を伝えると彼女はふ、と表情を緩め鉄杓で鍋を2回鳴らす。
「 ……良かった。それじゃあこれと雷ポッポのがらでとったスープと麺と合わせたら……竜華亭名物の竜人の郷土料理、タンタン麺の出来上がり!」
タンタンと小気味のいい音を厨房に響かせると竈からサラマンデルが顔を出し、近くに用意されていた小さな、火の魔石を付けた箱に黄色い種火を入れる。
炎を司る精霊のひとつのサラマンデルは契約した者の求める炎を吐く。黄色い火種は常に一定の温度を保つ保温用の炎だ。
大皿に盛られた料理達が保温庫に出来上がったものから入れられていき、テーブルやカウンターも手早く整えられていく。
「犬人の郷土料理の進捗は?」
「笑い牛の舌と香味野菜のシチューは完成、内臓のピリ辛炒めもあと少しです!」
「熊人!」
「首長鹿の蜂蜜焼きとデザートは焼き上がり待ち、ドリンクの付け合せのフルーツとナッツの蜂蜜漬けは保存庫!」
「猫人、魚人は!」
「猫人、客寄せ用の屋台料理のドネルケバヴのソースとドネル羊の串焼肉は準備出来てます!」
「魚人、トマトと魚介のスープ完成、パイは焼き色付けるだけです!」
「他のメニューの準備は! 」
「出来てます!」
厨房の速度が加速していき、それぞれの獣人たちの代表が郷土料理を作り上げていく。
細かく指示を出し、店が完成していくのを見ながらリュセはそっとため息をついた。
(やっと……ここまで来た)
思えば長い道のりだったかもしれない。店を開き、軌道に載せるまで、否、店を開く前から波乱に満ちた人生だった。
「準備はいい?」
『応っ』
「食事処竜華亭、夜の部。開店よ!」
日が沈み、街が赤く染まり始める時、火事を防ぐために一般市民は薪と火を使うことを制限され、暗い部屋で作り置いた冷えた食事をとる。
反対に表通りでは次々に食事処や宿屋の屋台が広げられ、通りに食欲のそそる匂いを漂わせる。それが開店の合図だ。
リュセはこの瞬間が一番好きだった。
「扉を開け──!?」
彼女の言葉に従い、給仕が扉に触れた瞬間、ドアが外側から吹き飛んだ。
「──……ようやく見つけましたよリュセルお嬢様」
店に入ってきたのは長身で細身の竜人の男性が3人。先頭に立った赤い短髪に鹿のような竜の角を生やした男がニタリと嗤いながらリュセに向かって頭を下げる。
「……あら、イザーク、お久しぶりね。だけど貴方に愛称を呼ばせる許可はしていないと思うけど?」
「これはこれは失礼致しました。聖なる土地の東の碧の竜族族長の長女、次期族長である私の許嫁であるリュセルカ・ゼア・ノートお嬢様」
わざとらしく深深と頭を下げる男達をリュセは厳しく睨み付けた。
指先でそっと合図をすると背後で殺気立っていた料理人たちが扉とともに吹き飛ばされた給仕を素早く助け起こし、手当をする 。
「それで、何の用?」
「私との婚礼が正式に決まったので、お迎えに上がりました」
「そう、お断りするわ。人様のお店を壊してはいけないなんて礼儀もお母様から教わってない野蛮人と人生を共になんてしたくないもの」
鼻で笑って返すとイザークは顔を顰めるも、何とか取り繕い恭しく手を差し出した。
「……族長からの伝言です。ままごとはおしまいだ。一族の恥を晒し、娼婦の真似をするのは辞めて帰ってこい。だそうです。どうぞお手を、私がお嬢様を幸せに致します」
リュセはイザークの言葉のおぞましさに悲鳴をあげそうになった。何も変わってないのだ。なぜリュセが竜人の里から飛び出したのか、何も理解していない。
──竜人の手料理は家族か家族に準ずるもののみに振る舞われる物
古くは竜人の祖先である竜が番にだけ食事を運んできた給餌行動から来るだとか初代竜人族の長が始めた、など諸説あるが、竜人にとって食事は『貴方に私は心を許している、愛している』という証で、家族や極めて親しい友人に振る舞うものであり、間違っても食事処や居酒屋で振る舞うものではない。
それが竜人にとっての一般常識であり、異性に食事を振る舞えば求愛になり、他の種族にとっては強者である竜人から信頼を得ることが出来たという意味になる。
料理の殆どは門外不出であり、親から子供へ伝えられるか、婚姻などによって相手の家の味を花嫁修業として教わるのみだ。
「碧の竜族の族長の娘たる御方がこのような場所で下等種族と交わり娼婦の真似事をするなど……嘆かわしい」
「……貴方は、いつから許可を持って商売してる他国の人間の邪魔をして、尚且つ自分の族長の娘を侮辱できるほど偉くなったわけ?」
竜人の女性が不特定多数の人間に食事を振る舞う、その行動が意味するのは殆どの場合何らかの理由で娼婦になった時が多い。
1晩限りの婚姻や女性の方から相手を見初めたという建前で春をひさぐのに使われる。
「貴女は部族の娘であることを捨てたと宣言しているでしょう?ならば今この場にいる貴女は竜人として認められていない。里に帰ったら丁重に扱いますよ」
「会わない間に随分頭が悪くなったようね。イザーク。あなたと話すことはもう無いわ。ケビン、アーク、ニスラ、この迷惑な男達を外に捨てなさい」
「かしこまりました料理長」
「なっ、そんなことしてもいいと思っているのですか!」
リュセの言葉にそばで控えていた熊人の3人が喚く竜人の3人を次々と抱き抱える。
熊人は魔法は苦手だが力と体力は竜人よりあるのだ。このまま街の外まで運んでくれるだろう。
「……お店、掃除が終わるまで開けないね。今日はおやすみにしよう。」
店の外も騒ぎの恐ろしさに人っ子一人居なくなっている。思わず声が虚ろなものになってしまう。
「料理長……」
「大丈夫だよ。明日には大工を呼んでまた頑張ろう。料理は各々が家庭に持ち帰っていいよ。余った分はご近所に配るから……だから今は、1人にして」
疲れ切った老婆のようなため息をつくリュセを心配そうに見やるも意思を尊重して手早く身支度を整えて出ていった。
厨房は相変わらず食欲をそそる匂いが漂っている。いつもは通行人の足を止める匂いも人っ子一人居ない今はただただ虚しいだけだった。
「大丈夫だよ、負けないよ。アルマだってそれを望んでいるはず」
かまどから心配そうに顔を出すサラマンデルの頭をそっと撫でながらリュセは今は亡き友人の名前をそっと呟いた。
「アルマのオムレツ食べたいな……チーズたっぷりで優しい味のするやつ」
掃除用具を手にしながらリュセはこれから来る嵐を予感していた。




