希望の魔女
大魔女マザー・アギネスが終末の予言を告げてから十年が経過していた。
曰く、九つの災厄が国を焼くと。
曰く、九つの災厄が人を喰らうと。
曰く、九つの災厄が大地を割ると。
曰く、九つの災厄が海を飲むと。
曰く、九つの災厄が空を落とすと。
曰く、九つの災厄が光を閉ざすと。
曰く--曰く--曰く--。
曰く、九十九の災厄が世界を滅ぼすと。
しかし、黙って受け入れようとするほど、人類は潔くはなかった。
魔女協会が誇る未来観測局はその未来が十年後に起こるということを突き止めた。
そしてその十年の猶予をひたすら災厄への対策に当てた。
人類は、九十九の災厄に立ち向かう道を選んだ。
これにより、今まで表立った活動を行なっていなかった組織が大きく動き出した。
数多の魔術師が集う魔女協会もその一つであった。
多くの超常的事案を極秘裏に解決してきた彼らは未知の災厄に挑むに当たって大きな戦力だった。
そして、その魔女協会が持つ切り札の一つに『希望の魔女』と呼ばれる魔女の存在があった。
あるところに父親と娘がいた。
二人は住み慣れた家で使い古されたテーブルを挟んで座っていた。
淡いランプが天井にぶら下がっており、その灯りだけがこの一室を照らしている。
一方で二人の間に流れる空気というのは明るいとは言い難かった。俯いてテーブルの木目を見つめて黙っている。
すん、と娘が鼻を小さく鳴らした。
爽やかな柑橘系の香りがどこからともなく漂ってきたのだ。
気になって首を回して見ると上の階へと続く階段から光が漏れていることに気がつく。
「誰かいるの?」
「ああ、会うのは始めてか」
トントン、とゆっくりと足で階段を踏む音と同時に陶器が擦れ合ったような音が響く。
間も無くして、エプロンドレスを纏った少女がカップを二つ乗せたトレイを持って姿を見せる。
少女は小さく頭を下げると、洗練された動きでテーブルに近づき、それぞれに紅茶を淹れたカップを差し出した。
「紹介しよう。弟子のネイキスだ」
娘の方を向いて、ネイキスはもう一度頭を下げる。
「で、弟子⁉︎ お父さんが⁉︎」
「なんだ、そんなに驚くことか?」
「驚くも何もお父さん昔、弟子なんか取らないって」
「終末の予言がされたんだぞ? 気の一つや二つ変わるもんさ」
「それにしたって」
娘の言葉を聞き流しながら、父親は紅茶を口に流し込む。
小さく唸りながら娘もカップを手に取ろう
「儀式は明日だったな」
とした手がピタリと止まる。
「……先生、わたくしは失礼させていただきます。御用の場合はいつでもお呼びください」
少女が最後に深くお辞儀をすると上の階へと戻っていった。
再び明るくない空気が漂う。
さっきと違うのは、沈黙が長く続くわけではなかったところだ。
「クラリス」
「やめて」
父親が名を呼んで、娘がそれを制止した。
「私の名前はアルヴィス。希望の魔女アルヴィスよ」
「……そうだったな」
父親は空になったカップを机に戻す。
「希望、か」
その言葉に軽率さとそれに反比例したような重さを感じた。
「お父さんは先代と面識があったんだっけ?」
「無限の魔術の研究で少しな」
希望の魔女とアルヴィスという名前は襲名であった。
魔女協会に属する魔術師は、その実力が評価されると二つ名を貰うが、希望の名を持つ魔術師は少し勝手が違う。
希望の魔女は協会の認定無く、師が弟子を認めた時のみ、その名が受け継がれる。そしてその名と共に歴代の希望の魔女が作り出した秘伝の魔術が継承される。
魔女協会でも一部の人間しか知らないその魔術は『無限の魔術』と称され、希望の二つ名の通り人類の希望となるためだけに行使することが許されている。
「俺と先代のアルヴィスが開発した無限の魔術は無限の精神力だ。魔術師にとって精神力とは自然界に存在するマナを体に取り込むためのパイプ。
それが無限ということは、意思ある限り永遠にマナを取り込み魔術を使い続けられるということだ」
「改めて言うと、凄い魔術だよね」
はにかんだ表情で娘が胸に手を当てた。
「それが今、お前の中にある六つの無限の内の一つだ」
手を握る。そこにあるかどうかということを確認するように。
「そして、七つ目の無限が明日の儀式でお前の中に組み込まれる」
「無限の……時間」
「その魔術で重要なのは始点と終点の設定。始点は無論、儀式を行う魔女協会本部だ。そして」
「終点は九十九の災厄を乗り越えること」
娘の言葉が強引に割って入る。
「私が九十九の災厄を乗り越え、生き延びることこそが終点。つまり、世界が救われるまで」
「……そうだ。それが実現しないままお前が死を迎えた時、お前の意識は始点にまで戻る。何度でも、終点が実現しないなら何度でもだ!」
父の震える右手がテーブルを乱暴に叩いた。娘の口をつけていない紅茶の水面が揺れる。
「このトライアルアンドエラーは終点に辿り着かなければ永遠に続く、故に無限の時間の魔術。しかし、九十九の災厄を前にいつか人類が勝つなんて保証はどこにもない!」
俯き、顔面を覆った左手に血管が浮かぶほどの力が入っていた。
「お前は……限りなく無限に近い時間を経った一人で過ごすんだ。そして、常人ならば気が狂うような時間が経ったとしても、無限の精神力がそれを許さない!
同時に発動する無限の記憶力とも合わさってお前は、膨大な時間の全てを記憶し、処理し、世界が救われる方法を導き出す。その果てにあるのは……人間性の喪失。お前はお前である必要を無くし、ただ世界を救うために動く機械となる!
その上、例えそれで世界が救われたとしても、お前に待っているのは無限の代償……お前という存在の消滅だ!」
矢継ぎ早に放った言葉がそこで途切れた。全力疾走をした後のように父親は息を切らせている。
一度、息を吐き切ってから元の呼吸に戻す。落ち着こうとして手を伸ばしたティーカップには、すでに紅茶は入ってなかった。
「俺はな、自分の娘が犠牲になるのは嫌なんだよ。例えそれで世界が救われたとしても」
「大丈夫だよ。お父さん」
娘は父親の硬く握られた右手を両手で包み込んだ。
「これは私にしかできないことで、私がやると決めたことなの。それは私がこの世界が好きだから、お父さんが見せてくれたこの世界が好きだから、私は恐れずにこの世界の為になることができるの」
「……お前」
男の目に涙が浮かんだ。視界がぼやけて、目の前の娘の姿が霞む。すると髪の色と輪郭だけが見えるようになって、その姿が今は亡き、世界で最も愛した女によく似ているように映った。
父親はそこで決意を固めた。
「子供がやるって言ったことを全力で応援してやるのが、できた親なのかもしれないな」
「お父さん……!」
右手を娘の手の中から抜き出すと、ティーカップを指差した。
「冷めないうちに飲んじまいな。ネイキスの淹れる紅茶は美味いぞ」
「うん!」
頷いて、娘は紅茶を口にする。香りを楽しむでもなく、味わうでもなく、コクコクと流し込んでいく。
それを父は静かに見守った。
「ん、美味しい!」
「そうだろう。ネイキスは魔術の腕もいいが、家事もよくできてな、助かってる」
「任せっきりじゃダメだよ? たまには自分で掃除も洗濯もすること」
「はいはい、分かったよ」
父も娘も一緒に笑う。明日から二人がまた会えることになるのはいつか分からないから、できる限りこの時間を楽しもうとした。
ふと、娘の口に水が滴った。一気に飲んだ紅茶が垂れてきたのかと思って親指で軽く拭った。
すると、親指の先が真っ赤に染まった。
「……え?」
「そう、子供を応援してやるのができた親。だよな」
娘の上半身がぐらりと大きく揺らいで、テーブルの上に倒れた。
その目は血走り、いくら待てども焦点が合わず、常に視界が明滅している。それでもなんとか頭を動かし、目を動かし、テーブルを挟んだ向こう側の父を見て、その落ち着き様を目の当たりにする。
「お父……さん?」
「毒に耐性を持つ魔女でも殺せる魔女殺しの毒だ。安心しろ、苦しいのは一瞬だけだ」
「なん……で」
「俺はな……結局のところそこまでできた人間じゃなかったんだ。自分の娘と世界の救済。この二つを天秤にかけて、世界の方に傾かせることができない程度にな」
「あ……あは、は」
娘が苦し紛れに笑い出した。父はその様子を苦々しい表情で見守る。
「ショックだろう……だが」
「違う……よ」
「なに?」
「希望はね。一つじゃないの……」
意味が分からなかった。希望とは希望の魔女とは、目の前にいる娘のことで、それ以外の何であると言うのか。
「私の中にはもう、希望は……無限の魔術はないの」
「……⁉︎」
「希望の種は……もう、撒いてあ……る」
異様な沈黙が流れた。娘の目からすでに光は失われ、呼吸も鼓動もない。
「く、くはは」
その中で男は震えていた。悲しみと罪悪感と畏怖がそこにあった。
「我が子ながら恐ろしいやつだ。自分が殺されると分かって、すでに希望を託していたとはな……」
そして、その全てを塗り潰すように決意を固めた。
「俺は決めた。世界がお前を捨てると言うのなら、俺が世界を捨てる」
立ち上がって娘だったものを世界の希望だったものを見下げる。
「さらばだ希望の魔女。次に会う時は、世界もろともお前の元まで叩き込んでやろう」
これが第一の災厄だった。
世界を襲う災厄は手始めに、人類の希望を殺したのだった。




