夢見の国の孤悪党《モノローグ》
『夢見の国の孤悪党』
第00話 This Man & That Woman
幽質素失調症の人間をホテルに入れるな。
支配人が、顔を茹で蛸みたいにして怒鳴っていたのを思い出し、俺は独り、苦笑いを浮かべた。支配人には悪いが、今日もまた約束を破ることになる。
そもそも、支配人も悪いのだ。幽質素はオカルトじみて気味が悪いから、床が汚れるからなどと言って、患者の入室を拒むのは前時代的なやり口だ。今のご時世、どんな商売をやるにしても、客を選ぶことは出来ない。俺だって我慢しているのだから、彼も割り切るべきだろう。
俺は散々、この理論を以て支配人に抗弁してきたものだが、どうにも色好い返事が得られない。それもこれも、昔のインチキ霊媒師たちが口や鼻あるいは眼球から、幽質素と名付けられた吐瀉物を垂れ流しているイメージが、彼の記憶に強く残っている為に他ならない。俺にはそれがもどかしい。割りと見た目が似たり寄ったりな事も、歯痒くてならない。
だが、幽質素失調症という奇病は、俗に言うエクトプラズムとは根幹からして違う。一切のコントロールは叶わぬし、望んで発現させられる物でもない。故に、霊能力などと呼ばれ、持て囃される代物とは区別されるのが道理である。
そして、その道理に準えて言うならば、俺が部屋に連れていったあの娘は、患者ではない。紛れもなく、霊能力者と呼ぶべき存在だった。
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防火扉を抜けて客室に踏み入ると、《《例の如く》》、中はオモチャ箱と火鉢を一緒くたに打ち明けたような騒ぎだった。備え付けのベッドからは火の手が上がっており、床中を燻りかけの幽質素が覆っている。眼前の宙空では、火の玉が回遊していた。放っておけば、フロア全体を巻き込む大火事になることは、火を見るよりも明らかだ。こんなに燃えているんだから、間違いはない。
この部屋では、かなりの頻度で火事が起きる。規模や火元はその時々で異なるが、原因はいつだって一つ。件の霊能力者、比良塚サヨモが自身の体質に対して配慮を怠ったことが原因だ。
彼女の「霊媒」というヤツは、一般にイメージされる降霊術などとは大きく異なる。トランス状態に入って死者の霊を呼び寄せたり、無病息災・商売繁盛・不労所得その他諸々を祈願したりなんて真似も出来ない。彼女に出来るのは、夢に見た物を幽質素によって物質化すること。たったそれだけ。自力で抑制することも出来ないから、キャンプファイヤーだろうが二尺玉花火だろうが、例外なく体外に出力してしまう。
だから、彼女の寝屋は常に焼け落ちる可能性を孕んでいる。御守りを買って出るならば、まず危険物取扱者の資格か、爆弾処理の経験を持った方が良いだろう。ちなみに、俺はどちらも持っている。
だが、そんな事はどうでも良かった。熱いものは熱い。俺はヤケクソ気味に障害物を蹴散らして、火元のベッドに歩み寄っていった。蹴り飛ばした幽質素の塊が、どれも寿司を象っていることに気が付いた。呑気に腹を減らしているのか、この女は。
「起きろ、比良塚。夢がダダ洩れだ」
ベッドの傍に小走り気味に行き着くと、俺は女の肩をガシガシ揺さぶった。この現実離れした地獄絵図を仕舞いにするには、女の睡眠を妨げるのが最も有効だ。だから、一切の遠慮も迷いもない。ついでに言えば、余裕もない。靴が炎で炙られている。
「起きねぇと消火剤振り撒くぞ。そら、起きろ」
「ううむ。あと五、五…………五十分……」
「比良塚ァ!」
彼女は、目を覚まさなかった。寝惚けたことを抜かすと、再び寝息を立て始めた。比良塚の身体からは火花と共に、かんぴょう巻が射出される。俺は危うくそれを躱すと、ベッドの傍に転がっている睡眠心象変成器に飛び付いた。
この装置を使えば、夢模様のモニターからコントロールまで、何もかもが思うままだ。無論、 比良塚の目を覚まさせることも造作もない。初めからこれを使えという話だが、そもそも彼女が装置を起動してから眠っていれば、俺が炎と寿司に巻かれて死にかける必要も無かったのだ。悪いのは俺ではない。このズべ公だ。
俺は憤りと焦りに任せて、ボタンを連打する。覚醒信号を促す、緊急用のボタンだ。ディスプレイに表示されている脳波計は、程なくして彼女の意識が覚醒に近付いていることを示した。悪夢はようやく終わりを告げる。
「よくも起こしてくれましたね。ほんと無粋」
比良塚サヨモの寝起きは良くなかった。開口一番から不機嫌丸出しで、身体の炎は未だ不安定に揺れている。俺は速やかに弁明に移った。
「何言ってんだ。周りを見てみろ。こっちは危うく、火炙りになる所だったんだよ」
「それくらい慣れたでしょう。心頭滅却すれば火もまた涼し、でしょう。私の夢を台無しにする理由にはならないわ」
文字通り、怪気炎を上げる比良塚。俺は耐火毛布を盾にしながら、すかさず言い返した。
「抜かせ。それを言った人間はな、焼き討ちで死んだんだよ」
火炎が涼しい訳はない。人は焼けると死んでしまうのだ。自分の炎で火傷を負わないからと言って、この女がそれを理解していない筈もない。
「ふうん、流石はイガラシさん。博識でいらっしゃる」
「世辞は結構だ。そんな事より、現実の話をしようか。歴史の講義も、夢の話ももう十分だ」
「話が早くて助かるわ。私、イガラシさんのそう言う所は好きよ」
女が蓮っ葉に語り掛ける。しかし残念、俺の名はイガラシではなく、出芥子だ。出芥子禄郎だ。いい加減覚えて貰いたい。涙が出ちゃう。
俺も俺の事は大好きだよ、と適当に応じながら、俺はコートの懐から依頼書を取り出した。
「さて、仕事の依頼だ。我らがアイリスヒュプノワークス社から、霊能力者の比良塚サヨモ先生にな」
「はいはい、確かに」
比良塚は依頼書の入った封筒を受け取ると、外身をビリビリ破き始めた。なんてガサツな女だ、と思ったが、決して顔にも口にも出さぬよう努めた。雄弁は銀、沈黙は金と言う。
「今、私のこと粗野な女だと思ったでしょう。ねぇ、《《出芥子》》さん?」
先人の教えに倣い黙っていると、比良塚は書面から目を上げる事もなく、俺にそう告げた。途端に冷や汗が、ナイアガラ瀑布が如く流れ出た。
「な、何を言う。君は読心術の類いは専門外だろう。俺の考えてる事なんて、分かる筈がない」
「さて、どうでしょう。出芥子さんの思考を読み取るくらい、誰にだって簡単に出来ると思いますよ。顔に出てますから」
「なんだって? そんな莫迦な」
俺は顔中の筋肉を自在に動かせるよう、特殊な訓練を受けている。表情から思考を読み取られるなんて下らないヘマは、まず有り得ない。
とは言え、気に掛かるから顔面をペタペタ弄くっていると、彼女は心底愉快そうに笑い始めた。
「ごめんなさい。嘘」
「こんにゃろう」
まんまと踊らされたらしい。非常に癪に障る事だが、比良塚の溜飲が下がったのなら良しとしたい。周囲の火勢も大分収まってきた。幽質素も殆ど霧散している。情緒が安定してきた証拠だ。
彼女の笑いが収まるのを待ってから、俺は再度、依頼内容に話題を戻した。
「付属の調書にも有る通り、今回の対象者は赤士宗真。19歳。明鏡大学に通う大学生で、今は短期休暇の真っ最中だそうだ。例の如く、この部屋の真上に宿泊するよう手を回してある。今回、君に依頼したいのは――」
「社にとって不都合な記憶の回収、でしょう。分かってる。貴方達が私に頼む仕事なんて、大概がそれなんだから。また手を汚せってんでしょ」
「すまん」俺はバツの悪さから、謝罪の言葉を漏らし、それから気休め程度に付け足した。
「だが、警察も夢の中まで追っては来るまい。大体君を、何の罪に問えるって言うんだ」
「そういう話じゃないんだけど。まあ、良いわ。引き受けましょう」
「……すまん」
「いいえ」
何か諦めたような、虚無的な笑みを浮かべる彼女に、俺は謝るしかなかった。一回りほども年の離れた娘に、犯罪紛いの仕事を頼まねばならないなんて、俺は一体どこで人生の分岐路を誤ったのだろうか。年で弱った涙腺が、緩みそうになる。
「じゃあ。準備が有りますので、一端部屋を出て貰えます? 一時間も掛かりませんから」
「ああ、分かった」
「決して覗いちゃいけませんよ。見たらど偉い目に遭わしますからね。きっとですよ」
お決まりの警告で釘を刺し、比良塚サヨモは俺の背中を戸口の方へ押す。
彼女がこれから行うのは、自意識そのものの幽質素化だ。夢に見た物を物質化するのとは違い、繊細な環境設定を要する。その為、睡眠心象変成器のセッティングから、入眠までを全て自分独りで管理する必要がある。
ただ、その後は簡単だ。彼女の意識体を上階に侵入させ、赤士とかいう少年に憑依させる。そうして意識を乗っ取ったら、睡眠時の記憶整理に乗じて記憶を改竄する。散々繰り返してきた仕事だから、俺も比良塚も手慣れたものだ。まず失敗はない。
その筈だった。
比良塚サヨモの意識は、この夜を最後に所在不明になったという。少年に憑依する段になって、睡眠心象変成器の計器類が異常数値を示した所までは、俺も意識があった。だが、覚えているのはそこまでだ。
次に俺が目を覚ました時には、一ヶ月が経過していて、比良塚サヨモの肉体は生きているだけの脱け殻と化していた。
今、彼女がどこにいるのか、誰も知らない。




