五、最後に
本能寺の変を概観して思うのは、「天才ゆえの悲哀」である。三郎信長は天才であるがゆえに、まったく理解されなかった。今日に於いてさえ、彼の思想は完全には理解されていないというのに、当時、彼の思想を理解する者がいたであろうか。ましてや、彼の心情を理解する者がいたであろうか。
天才、というものは、いつの時代も、また如何なる分野でも孤独なものである。音楽や、芸術の世界に於ける数多の天才たちもみな孤独であった。三郎信長も、自身の言う絵画や匠の「名人上手」のように、軍略と政治の名人上手であったのであろう。そして、その天才のゆえに、孤独であったのであろうと思う。であるから、彼はキリシタンに帰依しはしなかったが、キリシタンの宣教師や、彼らの文化に、自らの魂の充足を求めたのかもしれない。彼がキリシタンのイエズス会師たちに見せた親愛の情は、このようなことで理解できるかもしれぬ。
三郎信長の成したことはあまりに大きく、それに比してその遺産はあまりに少ない。彼の成したことは、彼の人物そのものから発している。今日の我々は、彼の人物に、その果断な判断力、明晰な頭脳、鋭い洞察力、総合的な視野、に驚き、目を向けるのであるが、彼がそれらの彼の能力のすべてを傾注して実現しようとした、彼のみの国家像にも、もっと目を向けるべきであると思う。そして、その思想が「理」という単純明快にして完全なるものに依っていたということに、目を向けるべきではないであろうか。
二〇〇八年一月三〇日