四、思想史的立場に立った「本能寺の変」論
三郎信長は、この日本に、一体如何なる国家を樹立しようとしていたのであろうか。
これまでに考察してきたことを考え合わせれば、それが最早我が国に今まで存在した如何なる政治形態、如何なる政権とも異なった、極めて独特の、我が国の歴史からは連想しがたい政権構想であったことは容易に考えられよう。では、この三郎信長の政権構想とは、一体如何なるものか。
それは、先ほども触れたのであるが、まさに絶対主義的な帝国であったのではあるまいか。「天下布武」の言葉が示すように、寺社勢力、朝廷・公家勢力、領民の上に武家と、その長たる三郎信長自身が君臨する国家である。しかし、この信長の政権構想を、西欧にあった、たとえばルイ十四世時代のブルボン王朝であるとか、フリードリヒ大王統治下のプロシア帝国のような絶対主義帝国と同じように考えてはなるまい。西欧列強の絶対主義、帝国主義は、封建主義の延長線上に現れた国家形態である。そのような帝国は、むしろ後の徳川内大臣によって開かれた徳川幕府に見るべきである。
織田政権では、むしろ信長個人が、個人の思想と権力が前面に打ち出されていたように思う。三郎信長の政権のもとでは、信長自身こそが神であった。これは、三郎信長の居城であった安土城内に建立された摠見寺に安置された「盆山」という石の存在で証明される。三郎信長は、「盆山」こそが自らの化身であり、神体であるとしており、まさにここにあって三郎信長は神となったのである。羽柴筑前守も後に「豊國大明神」として、徳川内府も「東照大権現」として神となったが、この二人はその死後に神として祀られたのに対し、三郎信長は、その存命のうちに自ら神を名乗ったのである。
このような彼の考えや行動は、彼の同時代人には全く理解されなかったに相違あるまい。筑前守も信長の一番の理解者であるとされているが、その実、三郎信長のこうした思想は到底理解できなかったであろう。
ここからさらに話を限定し、三郎信長の思想そのものについて論じようと思う。
三郎信長が朝廷をはじめとする旧来の勢力を歯牙にもかけていなかったことは、これまで述べたとおりである。この裏には極めて厳格な合理主義精神が潜んでいると思う。彼が旧来の勢力を軽視していたのは、理に叶わぬ不合理な存在、古色蒼然とし、形骸化してその意味を失っているものは最早存続するに値せぬ、と考えていたからであろうと思われる。彼は、堺屋太一の指摘するように、戦国時代に於いて「天皇機関説」に相当するような考えを持っていたのであろう。すなわち、帝も特別な権威を有した神聖な存在なのではなく、この国の一つの機関、特定の役割をもった個人のすぎぬ、という考えである。そして、その位置は明らかに三郎信長よりは低かったのである。しかし、天子の有していた宗教的な権威は、三郎信長といえども武力によって奪い去る、というわけにはゆかなかった。それ故に三郎信長は「盆山」を神体とすることによって、自ら神となり、その宗教的な権威をもわが手中に収めようと考えたのである。
ここからは少し憶測になるのであるが、私はこのような信長の政治思想を鑑みるに、彼の心情に思いを馳せずにはいられぬ。恐らく、彼は誰からも、同時代に生きた日本人の誰からも理解されなかったのであろう。理解者を強いて挙げるならば当時日本にやってきていたイエズス会宣教師たちであろうか。彼らが恐らく信長の心の内を、最も理解していたのかもしれぬ。
このような思想は、最早その当時の、それ以前の日本人が全く考えもしなかった思想である。多くの点に於いて百年から数百年、歴史に先んじた考え方であり、そのいくつかは、現代に至ってもまだ実現されてはいない。
この三郎信長が目指した政権構想、政治思想は、我が国のこれまでの思想の流れからして、極めて異常であり、非常に突出した異様さを持っている。この当時の日本人には(現代でも)、叡山の宗教的権威を全く歯牙に掛けず、これを焼き討ちし、数千の僧侶とその他の老若男女を虐殺するようなことは、思いつかないというよりも、彼らの意識の外にあったであろうし、天子と朝廷の権威を全く認めず、自らは天子よりも高位の者である、と宣言するなど、まったく想像もできなかったであろう。
ここで留意すべきは、この信長の思想は、現代に於ける我々の目からしても、かなり特異なものに映る点である。現代の我々にも、政治的な権力を有していないとはいえ、天皇よりも自らが高位である、と言えるような人物はまずいないであろうし、天皇が不要である、と言うのも憚られるであろう(このような考えを持っている人もいるし、それは別に悪いことではない)。こう考えると、信長の政権構想は、現代にあっても受け入れがたいものなのである。
「麒麟児」という言葉があるが、三郎信長はまさにその麒麟児である。彼のような人物は、日本史上二人としておらぬ。彼ほど進歩的な、あるいは西洋的な頭脳の持ち主、理知的で論理的な思考の持ち主、深い洞察力と巨大な視野の持ち主、徹底した理論家は見当たらぬ。このことは、逆に我が国で信長の思想(人物像ではない)が如何に受け入れられにくいかを示していよう。三郎信長は、朝廷を中心とする旧勢力に殺されたのではない。我が国の思想の流れから拒否されたのである。
我が国の思想史は、三郎信長の思想を拒絶した。私はそう考えている。朝廷の公家たちは、自分たちが安住してきた権威、これまでの日本人が敬ってきた権威、精神的権威が奪われることを恐れて、三郎信長の死を画策した。彼らは歴史の流れを変えようと考えたのかもしれぬ(具体的にそういう意識があったかどうかは別として)。三郎信長のもたらした思想の流れを押しとどめ、断ち切ろうと考えたのかもしれぬ。彼らは、自らの意志の力によって、これを行おうと考えたのかもしれぬ。
しかし、三郎信長の死は、私は必然的なものであったと思う。本能寺の変が、たとえ起こらなかったとしても、三郎信長と彼の思想は、いずれ死を迎えたと思う。三郎信長は、日本の思想史から拒絶された麒麟児として、本能寺の変の発生如何にかかわらず、いずれ葬られる運命にあったのである。たとえ、三郎信長がその天寿を全うしたとしても、彼の死後、その思想を受け継ぐものは一人も現れなかったのではあるまいか。三郎信長が嫡子信忠も優れた武将であり、軍略家としても優れた人物であったようだが、思想家、政治家としての手腕は如何であったろうか。三郎信長の築いた国家構想を受け継ぐほどの器があったか、甚だ疑問である。筑前守秀吉や、徳川内府にも、信長の思想を受け継ぐような器量は備えていなかった。二人とも優れた軍略家であり、優れた政治家であり、勇猛な武将であったが、そして、徳川内府は徳川幕府二百六十四年の繁栄の基を築くだけの器量をもった人物ではあったが、三郎信長ほどの異文化に対する鋭い理解力、そして論理性は備えていなかったと思う。太閤豊臣秀吉が思想家、政治家として、三郎信長には及びもつかぬのは、文禄・慶長の役という愚行を見ればよく分かろう。
こう考えると、本能寺の変の位置づけも自ずと変わろう。この事変は、冒頭に述べたように単なる弑逆などではなく、また、旧勢力、反信長勢力による暗殺でもなく(歴史学的にはともかく)、三郎信長という麒麟児の、極めて特異な思想に対する、日本全体の拒絶反応の表出だったのである。それがたまたま、公家勢力と日向守光秀という形をとって現われたにすぎない。