三、三郎信長の改革について
本能寺の変の思想的意味を探る前に、我々は三郎信長が如何なる思想を持ち、我が国に於いて如何なる変革をもたらそうとしていたかを考えねばならぬ。何故なら、三郎信長が京都本能寺にて討たれた本能寺の変という事変の思想的意味は、その主人公である三郎信長の思想を云々せねば、見出すことができないからである。
三郎信長の変革は、いくつもの面から見ることができる。大別するならば、それは「軍事」「経済」「内政」「外交」ということになろう。
(一)軍事革命
よく三郎上総介は「中世を殺した男」と形容される。その最大の理由は、軍事革命にある。上総介の軍事革命とは、一体如何なるものであったのか。
まず、第一に挙げられるのは「兵農分離」である。この事業は三郎信長の時代には完成せず、信長の後に天下に号令した太閤豊臣秀吉による「刀狩り」、そしてその後に征夷大将軍となって江戸幕府を開くこととなる内大臣徳川家康による「士・農・工・商」という身分制によって完成された。この「兵農分離」こそ、中世と近世の日本の軍陣を大きく隔てる特徴なのである。
中世の軍勢の主力は、土佐にその覇を唱えた長宗我部氏に代表されるような、いわゆる「一領具足」である。この一領具足とは、一領の具足を田畑に持って出る農民のことであり、主君より下知があれば、その具足を田畑から着て戦場に駆けつける、いわば農民でありながら武士であるようなものを指した。つまり、一領具足の本業は農民であり、戦場に出るのは副業のようなものであったのである(随分高い代償を要する副業なのであるが)。
しかし、現在の最新の研究によれば、三郎信長の「兵農分離」は、羽柴筑前守が後に行ったものに比べれば、まだまだ徹底したものとは言い難い。武人と農民の境は、三郎信長存命の時代には、まだまだはっきりしていなかったのである。
その他にも、彼の軍事改革はいろいろと挙げられる。「兵站」というものを重視したのも信長が最初であろうし(もっとも、兵站の重要性については、筑前の方がよく理解していたであろうが)、信長の統括する巨大な軍事機構、すなわち方面軍(柴田権六勝家の統括する「北陸方面軍」、惟任日向守の率いる「近畿管領軍」、筑前守秀吉率いる「中国方面軍」、滝川一益の「関東管領軍」、神戸信孝の下にある「四国方面軍」)の存在を把握するための参謀制度(これも、筑前守のもとでさらなる発展を見て、完成の域に達した)を充実させたことも挙げられよう。
世界史的な観点から言えば、石山本願寺の顕如との戦いに於いて、石山本願寺に兵糧を届けんとする毛利勢の村上水軍を打ち破るため、志摩の九鬼水軍に命じ、世界初の鉄甲船を作らせたことが特筆されよう。村上水軍の火攻めに手を焼いた三郎信長は、九鬼水軍の将であった九鬼嘉隆に燃えぬ船を作れと命じ、その結果として、船体全部を鉄板で覆った安宅船六隻が完成した。これは、いずれも鉄板の重量に耐えられるよう、普通の安宅船よりも大型に作られ、同時に単に鉄板で船体を覆ったのにとどまらず、三門の大筒(つまり大砲)を搭載していた。この大筒によって、村上水軍の舟は、鉄甲船に群がったところを狙い撃ちにされ、ことごとく撃沈されたのである(第二次木津川口海戦)。これによって石山合戦は急展開を見せ、信長は本願寺を制圧することに成功したのである。この鉄板による装甲を施した船は、当時ヨーロッパにもまだなく、世界初の試みであった。
もう一つは火縄である。三郎信長の軍が装備していた火縄の数は、当時としては日本一であった。勿論、時代が下り、大坂の陣ごろになると、その数はさらに大きくなったのであるが、それでも、最高で一割にも及ぶ火縄の装備率は群を抜いている。特に、長篠城をめぐる攻防で、武田四郎勝頼勢一万二千を、設楽ヶ原に打ち破った時は、織田・徳川連合軍三万四千のうち、一〇〇〇挺とも三〇〇〇挺とも言われる火縄を使用し(これらの火縄は、主に堺と国友で製造されたものである)、これを打ち破った(いわゆる長篠の戦いであるが、この戦いは決してこの火縄による設楽ヶ原での戦闘に決着があったのではない。それ以前に、長篠城を包囲していた武田勢を、徳川家の臣、酒井忠次率いる別働隊四千を用いて鳶ノ巣山砦に撃滅した時点で勝負はあったのである)。
この多数の鉄炮の装備を可能にしたのが、三郎信長の圧倒的な経済力である。
(二)経済改革
三郎信長の取った経済政策の中で、もっとも有名なものは「楽市楽座令」であろう。三郎信長がこの令を発するまで、商人はある市で商いをするためには「座」という一種の組合に加入し、それに対して税を納めなければならなかった。上総介は、この「座」というものを撤廃し、商人たちが自由に商いをできるようにしたのである。この政策によって、経済は活性化した。
また、三郎信長は自らの領する国々で関所を全廃した。これにより、さらに流通が活発になり、人と物の行きかいが盛んになり、更なる経済活性化をもたらしたのである。
この関所の全廃には、他にも狙いがあった。それは情報の流通である。この当時、諸国の最新の最も正確な情報を掴んでいたのは商人たちであった。京や堺、安土に出入りする商人たちから、遠隔地の情勢をいち早く掴むことも、この政策の狙いであったのである(もっとも、情報の重要性は羽柴筑前守の方がよく理解していたであろう。平和の時より縦横に情報網を張り巡らし、中国の最前線にあっても畿内の情勢を把握していた。この情報網のゆえに、本能寺に主君信長が横死した時、いち早く兵を引き、織田家の宿老権六勝家や、盟友であった徳川家康よりも早く謀反人たる日向守を打ち果たすことに成功したのである。彼の「中国大返し」の成功も、彼の情報網の故であったのである。結局のところ、いつの時代も戦争とは情報によって決するものである。これは戦国時代であろうと現代であろうと同じである。旧大日本帝国は、太平洋戦争で米国に敗北したが、それは明らかに情報のなんたるかについて、米国の半分にも満たぬ認識しか有していなかった故であろうと思う)。
三郎信長の直轄領も、このような経済政策と連動している。彼が直轄地としたのは、東海道の要衝であり、畿内への入り口である美濃、尾張、そして、琵琶湖を中心とする畿内の水上交通の要衝である近江の安土、天下の政治的、経済的、文化的中心地であった京都、南蛮貿易と流通の中心地であった堺などである。いずれも、選ばれているのは経済の中心地と交通の要衝であり、如何に三郎信長が経済と交通を重視していたかがこれからもよく分かる。
このうち、三郎信長にとって堺の直轄領は極めて重要であった。というのも、堺は硝石貿易の中心地であり、火縄を使うための大量の火薬に使用する硝石を一手に引き受けていたのが堺だったからである。日本には硝石を産出するところはほとんどなく、九割以上をインドや唐の国からの輸入に頼っていたのである。設楽ヶ原に於ける三〇〇〇挺の鉄炮の使用の陰には、三郎信長の並はずれた経済力と、経済政策があったのである。
(三)内政
内政に於ける三郎信長の政策は、先述した軍事および経済に於ける革命的政策と一体であるため、ここで新たに述べることはあまり多いとは言えない。しかし、いくつかの点を挙げることが出来よう。また、ここでは三郎信長の文化に寄与した改革も述べようと思う。
内政に於いては、後の本論考の主要部である三郎信長の政治・国家思想と密接に関わってくることがある。それは、何よりも室町幕府と朝廷の権威の、徹底した軽視である。
確かに、室町幕府の権威を軽視したのは、決して三郎信長が特別であったわけでもなかろう。すでに、この時期に入っては、室町幕府は実際的な権力を何ら有しておらず、幕府の権威に従おうとする戦国武将は皆無であったといってもよい。甲斐の名将武田信玄も、その生涯の最後に上洛を果たそうと図ったが、これも表面的には叡山を焼き打ちにした仏敵である織田上総介を、時の公方足利義昭の命を受けて打ち果たすため、としているが、信玄に足利幕府を再興する意志があったとは考えにくい。信玄も、足利家の権威を利用して、天下に号令しようとしていたのであろう。
しかし、三郎信長と武田信玄の大いなる相違は、三郎信長の全く将軍家に対する礼節を欠いた態度である。三郎信長は、自ら文書によって、公方の発する下知は、すべて信長の許可が必要である、と通告し、それが守られていなければ、更なる通告を行うなど、足利義昭に面と向かって、汝は傀儡である、と宣言するような行動を繰り返している。三郎信長が、足利将軍家の権威を、端から全く重視していなかったことがよく分かる。このことは、後に述べる三郎信長の思想と極めて密接にかかわってくる事柄である。三郎信長は、旧来から続いていた権威、というものを全く認めようとしなかったのである。
叡山の延暦寺を焼き討ちにしたのもその為である。三郎信長は、延暦寺の僧侶を、遠いイスパニアやポルトガルからやってきたルイス・フロイスやオルガンティノをはじめとするイエズス会の宣教師たちに比して、極めて堕落した者どもである、と考えていた。実際、当時の延暦寺の僧侶の中には、酒を飲み、女犯を犯す者もいた。三郎信長は、そのような僧侶に比べて、自らの命の危険も顧みず、極東の地にまで自ら信ずる教えを伝えにきた宣教師たちの勇気を高く評価していたのである。故に、出家の身分を忘れ、酒色におぼれる僧侶たちを許せなかったのであろう。しかし、今日の感覚からしても、そして、当時からすればなおさら、天台宗開祖の最澄が開山し、平安京遷都から千年以上の歴史を誇る比叡山延暦寺の焼き打ちは暴挙であり、惟任日向守をはじめとして家中にも多くの反対者がいたが、それを退けての焼き打ちであった。この結果として、武田信玄の上洛作戦を招くこととなる。先述したように、信玄は、足利将軍家を愚弄し、千年の歴史を持つ延暦寺を焼き討ちにし、多くの僧侶を殺戮した仏敵信長を打ち果たすことを大義名分として上洛の途に就いたのである。
信長の朝廷に対する数々の蔑視政策は、先ほどの項で述べたので、ここでは繰返さないが、かくも三郎信長の旧来の権威に対する考えは急進かつ厳格なものだったのであった。
だが、三郎信長が我が国の文化、特に築城技術に寄与したものは極めて大きい。三郎信長は、若いころより、築城に関しては、当時としては極めて特異な考えの持ち主であった。
三郎織田信長の、当時としては極めて特異な築城は、まず、美濃の岐阜城(かつて斉藤道三、義竜、竜興三代の居城であった稲葉山城)に現れる。三郎信長は、この城を斉藤竜興を追って自らのものとしたのち、大規模な改築を行った。この岐阜城に、三郎信長は初めて「天守」を築く。それまでの山城に備えられていた「櫓」よりもはるかに規模の大きい、二層か三層の建築物であり、それはその城のシンボルであり、権勢の象徴でもある。ここに、中世とは異なる近世城郭の最大の特徴である「天守」の存在が出現する。この「天守」はその後も発展し、いわゆる戦国三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の築いた三つの城(安土城、大坂城、江戸城)の「天守」でその建築物としての頂点を極める。
しかし、三郎信長の築いた「天守」は、他の城の天守とは意味が異なってくる。特にそれが顕著なのが、彼の築いた城の最高傑作であり、日本建築史上まれに見る名建築物であった安土城の「天主」である。この安土城の「天主」には、「天守」の文字は使用しない(使用例もあるが、本来はこれは誤りである)。
通常の城(江戸城や大坂城でもそうであるし、現存している姫路城や松本城、犬山城でもそうであるが)の天守は、本来居住空間ではない。非常のときにそこに籠城するための備えはしてあったが、普段から城主やその家族がそこで暮らしていたわけでもないし、家臣がそこに伺候することもなかった。普段、城主とその家族は天守のある曲輪の「本丸」に住んでいた。飽くまで天守は城の象徴であり、領国を眺め渡す櫓的な性格を多分に有していたのである。
しかし、安土城の「天主」はそれとは全く異なっている。安土の天主は、城主である信長の居住施設だったのである。一階には畳を敷き詰めた書院や局、信長の寝所などがあり、信長はそこで寝起きし、家臣の伺候も、使者との謁見もそこで行った。上の階も単なる櫓のようなものではなく、いくつかの階には畳が敷かれ、当時一級の絵師であった狩野永徳による襖絵が並んでいた。また、五階は八角堂のような形状をしており、外面には鯱と龍(いずれも中国では皇帝の象徴とされている動物である)が描かれていた。最上階は高欄を持つ方形になっており、室内には狩野永徳の手になる「三皇五帝」「孔門十哲」「商山四皓」「七賢」の絵が描かれていた。
天主に城主の居住空間が置かれた例は、後にも先にも安土城だけではなかろうか。我が国の建築史を見るにあたり、貴人の屋敷、邸宅の中では、大体外から見た限りではその屋の主が、その邸宅の敷地の中の、どの建物に住んでいるかは、わからない。これは、信長の後の城郭でも同様である。しかし、三郎信長の築いた安土城では、主である信長自身がどこに住んでいるかが、どこから見ても分かる。その点から考えても「天主」は極めて斬新な建築物であったのである。
(四)外交政策
外交面での信長の政策は、極めて進歩的であった。「鎖国」というようなことを、三郎信長は考えたこともなかったであろう。先進的な西洋の技術を積極的に取り入れ、いわゆる「南蛮貿易」を奨励した。その中心地であった堺に対して、三郎信長が並々ならぬ注意を払っていたのは先述したとおりである。
三郎信長の外交政策の中で、特筆すべきはキリシタン、つまりカトリック教徒に対する政策である。彼は先述したとおり、海を越えて布教にきたキリスト教徒の勇気を高く評価し、自身その教えに帰依することこそなかったが、キリスト教に理解を示し、その布教活動を支援した。織田家家中には、高山右近(洗礼名「ユスト」)をはじめとして、多くのキリシタン大名もいた。十兵衛光秀の娘で、細川藤孝の息子忠興の室となった玉も、「ガラシャ」という洗礼名を持つキリシタンであった(「玉」よりもむしろ「ガラシャ夫人」として有名である)。また、安土城下にはカトリックの神学校である「セミナリヨ」もあり、三郎信長のもとでカトリックは順調な布教活動を行えたのである。このセミナリヨでは神学のほかに、音楽も教えられており、当時の中世の音楽がそこで奏でられ、三郎信長もセミナリヨに立ち寄った際にはそれに熱心に耳を傾けていたという。
三郎信長は、同時に有名な「日本史」の著者でもある宣教師ルイス・フロイスや、ヴァリニャーノ、オルガンティノらとも親交を持ち、西洋文化に対する理解を深めた。フロイスが三郎信長に謁見した折、フロイスの「地球は丸い」という言葉に対して、三郎信長が即座に「理に叶う」と答えたという話は有名である。この逸話が実話であるかどうかは別としても、三郎信長が、当時の日本人としては極めて進歩的かつ合理的で論理的な頭脳の持ち主であったのは確かである。作家の辻邦生は、その作品である「安土往還記」に於いて、三郎信長をどこまでも「理」を追求し、「理」の前には己をも捨て去る人物、と位置付けている。
ここからは、私の憶測も含まれるのであるが、恐らく三郎信長は、諸外国、南蛮との貿易もさらに促進し、西欧列強に並ぶような国家を構築しようと考えていたのではあるまいか。彼が浅井・朝倉攻めや、長島一向一揆を討伐した時の徹底した殲滅と落ち武者狩りは、西欧の絶対君主を想起させよう。三郎信長が如何なる国家を構築しようとしていたかは、この様なところからもうかがえよう。