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二、本能寺の変の主因について~朝廷共謀説

 この事変が、日向の一存で起こったことなのかどうか、また、日向は何故主君三郎信長に謀反したのか、長年議論がなされてきた。有名な仮説としては、三郎信長に非道な仕打ちをうけ、また、母親を見殺しにされたことに対する恨みが謀反の動機とする「怨恨説」、日向自身も天下に号令せんとする野望を抱いていたという「野望説」、あるいは、何者かに裏で操られていたという「黒幕説」などがある。また、この「黒幕説」にしても、黒幕として取りざたされている人物は種々多様である。例えば、時の天皇正親町(おおぎまち)帝、あるいは信長によって追放された、室町幕府最後の将軍である足利義昭、その他にも徳川家康や羽柴筑前守の名前まで取りざたされている。

 しかし、最近の研究では、これらの説はいずれも退けられ、日向の背後で三郎信長を快く思わぬ公家がこれに関与していたという説が専ら有力である。

 当時、朝廷にあって武家伝奏(ぶけてんそう)の役についていた勧修寺(かじゅうじ)晴豊(はれとよ)が、その日記である「日々記―天正十年夏記」のなかで、「信長(のぶなが)(うち)談合(だんごう)」の存在をはっきりと記している。この談合には、日向自身のほかに、もちろん勧修寺晴豊、前関白(さきのかんぱく)近衛前久(このえさきひさ)吉田兼見(よしだかねみ)誠仁(さねひと)親王も名を連ねていた。これには時の正親町帝も関わっていたという説もある。彼らが朝廷内にあって三郎信長の死を画策し、実行犯として朝廷にも近く、名門土岐(とき)源氏の出身でもある惟任日向守を選び、信長を死に至らしめたのである。日向自身も、信長に不信を抱き、又信長に左遷されたこともあって、進んでこの反逆に加担した。

 「信長打談合」…。この存在は、本能寺の変が単なる日向個人の弑逆ではなく、新勢力と旧勢力の争いの頂点で起こったことが見えてくる。これは、上総介織田信長という男の築いた政権が有していた、というよりも、三郎信長という人物が有していた、宿命的対立構造なのである。

 旧勢力は、公卿の筆頭格である前関白近衛前久を中心とし、誠仁親王をはじめとする天皇家の姻戚者や公卿がこれに加わり、室町幕府の足利将軍家にも近い土岐源氏の出身である惟任日向守が加わることで特徴づけられる。新勢力は、その筆頭にして代表であり、それを体現するものである三郎信長が率いており、筑前守秀吉も、その部分的賛同者と見ることは不可能ではない。三郎信長が平氏の流れを継ぐものであることを考えれば、日本の武家社会の宿命ともいえる、源平の対立をも見ることができる。惟任日向守が非常に近い存在であった足利義昭を追放したのが三郎信長であることを考え合わせれば、日向守が織田上総介を討たんとしたのも充分に頷けよう。

 しかし、三郎信長の死を画策した者の中心が公卿であったことは、少し問題とせねばならぬ。なぜ、公家勢力が、それも朝廷の中心的な位置にいる公家が三郎信長という、武家の筆頭者と対立せねばならなかったのであろうか。源頼朝による鎌倉開府以来、否、そのさらに以前の相国(しょうこく)入道平清盛(たいらのきよもり)がその実権を握って以来、わずかな例外(建武の新政)を除き、朝廷と公家たちが天下の実権を失って久しい。であるから、三郎信長から天下の実権を奪い還そうとした、とは考えにくいのである。しからば、なぜか。

 「天下(てんが)()()」という言葉は、三郎信長が、己が印に使った言葉である。従来、この言葉の語義は、「武力をもって天下を平定する」と考えられてきた。しかし、三郎信長の内政、行動、思想を見れば、単なる天下の武力平定を意味していたとは考えにくい。むしろ、「天下布武」とは、「武家が天下(朝廷、公家、寺社、町人、農民、その他の庶民)を制する」と解すべきではないであろうか。

 三郎信長は、自らを「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」のいずれかに任じよ、と迫ったり(特に「征夷大将軍」は、坂上田村麻呂以来、源氏の者がその任に就くのが慣例であったにもかかわらず、である。三職推任事件)、朝廷がそれを定めることを常としていた、いわば朝廷の権威である「暦」を、尾張で用いられていた地方暦を使え、と迫ったり(作暦権問題)、あるいは御所のうちで馬揃(うまぞろ)えを行い、総勢三万とも五万とも言われる織田勢の威容を朝廷に見せつけるなど(禁裏馬揃え)、朝廷に対する圧力を緩めず、朝廷の権威を(ないがし)ろにする行動をとっている。

 また、武田攻めの折には、前関白近衛前久に対して馬上から暴言を吐いたともいう。この武田攻めについては、天目山で武田四郎勝頼の一族を滅ぼしたのち、この武田の残党を匿っていた恵林寺に対し、残党の引き渡しを拒んだとして焼き打ちを仕掛けた。山門の上に逃げ上がった僧侶は、結局一人残らず焼き殺された。この中には、朝廷から国師号を受けた高僧の快川紹喜(かいせんじょうき)もおり、「心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば火も(おの)ずから涼し」という有名な言葉を残して炎の中に消えた。

 一連の朝廷を愚弄した行動の仕上げとして、三郎信長は時の天子正親町帝に譲位を迫る。正親町帝は勿論これを拒絶し、信長と朝廷の亀裂がさらに深まりつつあったときに起こったのが本能寺の変だったのである。

 三郎信長のこうした行動から、朝廷に近い公家たちは、朝廷の存続そのものに強い危機感を抱いた。三郎信長は自分の居城である安土城の一角にある摠見寺(そうけんじ)に自らを神として奉っており、三郎信長は天子の権威を全く認めず、自らが日本国王として君臨することを望んでいたのであろう。この様な三郎信長の存在に朝廷に近い公家たちや、日向守が危機感を覚えたのは当然であろう。

 ここまでの本能寺の変の経緯及び背景は、これまで様々な研究者によって研究された内容である。しかし、私はこの事変には更に深い、思想的意味を見出すことができると思う。

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