一、導入~本能寺の変概説
あの戦国末期の衝撃的な事変を、単なる弑逆とする人は、もはや歴史に対して眼を開かれていないと言う他あるまい。あの事変は、三郎上総介織田信長が臣下、惟任日向守十兵衛明智光秀が、主君を討ったという弑逆以上の重大な意味があったということは、もはや明白であると思う。
まず、本能寺の変の真の意味を探る前に、本能寺の変の前後の経過と、その直接的な要因について述べようと思う。
本能寺の変が起こったのは、天正十年(一五八二年)のことである。このころ、三郎信長は中国地方をその支配下に置く毛利氏一族と戦っており、その方面に筑前守羽柴秀吉を向かわせ、中国平定に当たらせていた。一方では老臣、柴田権六勝家は北陸方面に出陣し、徳川家康の主力は関東にあった。そのような中で、羽柴筑前守から、援軍の要請があった。三郎信長は、この援軍として、畿内を統括する立場にあり、近江坂本と丹波を所領とする惟任日向守を立て、同時に自らも中国地方に出陣することとしたのである。
十兵衛明智は、近江坂本にあった自らの所領に赴き、中国遠征のために一万三千の兵を集めた。一方三郎信長自身は、嫡子織田信忠と、近臣数百をつれて都に入っていた。十兵衛明智は、五月二十六日に近江坂本を経つと、その日のうちに丹波亀山(現在の亀岡)の居城に入り、翌二十七日に嫡子光慶とともに霊峰愛宕山に登った。ここで十兵衛明智は幾度か籤を引いている。さらに勝軍地蔵にも参った。
翌二十八日、愛宕威徳院に於ける百韻連歌に参加している、有名な「愛宕百韻」である。このときに十兵衛光秀が詠んだ発句は非常によく知られている。
ときは今 天が下しる 五月かな
この発句には、隠された意味があると昔から言われている。その一般的な解釈はこうである。つまり、「ときは今」の「とき」とは「土岐」源氏の土岐であり、「天が下しる」の「しる」は「治る」と書き、これで「天が下治る」となる。古くは、これは「土岐氏(つまり十兵衛光秀)が天下を治める」と解釈されていたのであるが、普通「治る」は天子が天下を治めるという時のみに用いる言葉であり、日向守が、自らが天下を治めるのに「治る」を使ったとは考えにくい。よって、これはやはり天子の治世を指していると考えるべきで、次項で詳しく述べる光秀謀反の動機についての「朝廷との共謀説」の一つの根拠となっている。
十兵衛光秀はその配下の将兵一万三千を率いて六月一日に丹波亀山を経ち、申の刻(午後四時ごろ)に、都のある山城国と中国に通ずる街道との境にある老ノ坂に至った。ここで、十兵衛明智は、「わが敵は、本能寺にあり」との下知を下し、沓掛で将兵に腰兵糧、つまり腹ごしらえをさせた後、都に至った。三郎信長は自ら近臣数十とともに本能寺に宿泊し、嫡子信忠はその他の近習数百とともに、二条御所に宿泊していた。
六月二日未明、十兵衛日向守は手勢一万三千を率い、本能寺を囲むと火縄と弓で盛んに攻撃を仕掛け、敷地内に侵入した。三郎信長は、ちょうど朝起きたばかりで、顔を洗っているところを、やけに表が騒がしいので日ごろから重用している小姓の森蘭丸を呼び、「これは謀叛か。如何なる者の企てぞ。」と問うたところ、蘭丸が「明智が者と見え申し候。」と答えると、「是非に及ばず。」と叫んで槍をとったという(この場面の描写は、太田牛一の「信長公記」による)。
信長方も必死に抵抗したが、数十対一万三千では勝敗は目に見えており、結局のところ、三郎信長は手傷を負い、本能寺の奥にこもって、そこで自害し、配下の者もことごとく討ち死にした。
三郎信長の時世は伝えられていないが、死に臨んで、普段から好んで詠じていた謡曲「敦盛」の一節、
人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
ひとたび生をえて
滅せぬ者 あるべきか
を謡って果てたという。享年は四十九歳(満年齢四十七歳)であった。
十兵衛光秀はそのまま二条御所にも迫り、信忠以下の手勢もよく戦ったが、多勢に無勢のことで壊滅し、信忠自身も自害する。織田信忠は享年弱冠の二十六歳であった。
これが、世に言う本能寺の変のあらましである。