「御大」壱 ヨシユキST郎
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■【其の1】妄想劇場 ST郎はどこに?
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「Ntちゃん(僕が幼い頃の通称です)、あんたのお祖父さんはなぁ(しばしタメがあって……)、そりゃあ、えれぇ(偉い)人じゃったんで(だったのだよ)」
僕を膝に抱いて、TK原のおじいちゃんが、語ります。会うたびに、いつもです。幼稚園に上がるか上がらないころの記憶。
これからは僕の妄想炸裂。関係者も多々いらっしゃいますので、一部姓名は〈伏字=アルファベット〉で失礼させてもらいます。
「お祖父さん」というのは、僕の父方の祖父。ヨシユキST郎といいます。
ググってみると、親族絡みの話が中心だし、「S・T郎左衛門」という人とかの話もたくさん混じっていて、本人の個性にたどり着けそうなものはほとんどありません。
母もよく言っていました。「ST郎お祖父さんは、それはすごい人じゃったんよ」。
実家にある写真額のST郎は、かつてもいまも、自信に満ちた柔和な視線を投げかけています。ST郎は1869年(明治2)生まれ。敗戦後まもなく亡くなっているので、僕は写真と周りの人に聴いた話しか知りません。話を総合すると、このST郎という人は、明治から戦争に負ける頃まで、全国に名を轟かせた土木業界の大立て者だったというのです。
僕の実家はヨシユキ組という土木業者です。二代目にあたる父が家業を継いで、小さい頃は盛業だったという記憶がありますが、高校受験の頃事業が傾き、家屋敷を売り払って一時賃貸集合住宅に暮らすことになりました。2年ばかり後、父は再度家を建てることになりますが、往時の勢いはとうとう取り戻せませんでした。
初代の岡山県土木建築業組合・組合長。土建業者として、岡山で初めてヨシユキ組を株式会社とした。鉄道敷設、トンネル掘削、橋梁架設で右に出る者はいなかった。多額納税者だった(いまの高額納税者とは、少し意味合いが違います。後述します)。
ST郎にまつわる話。確かに、なんかすごそうという感じはしますが、いまいち実感が伴わない。
冒頭のTK原のおじいちゃんは、ST郎に忠誠を尽くし付き従った人物。大正から太平洋戦争にかけての、激動の時代をともにすごした右腕の一人で、土木業界の表も裏も知り尽くした人でした。僕をとてもかわいがってくれたので、小さい頃は本当の祖父だと思っていた。当時は確か、新興の土建会社の顧問をやっていたはずです。
「いまはエッラそう(偉そう。ついつい力が入ってしまう言い回し)にしとる(している)XやZは、お祖父さんの前じゃあ小そう(小さく)なって、口も満足にきけんかった(きけなかった)」
皺だらけの、赤銅色の愛嬌ある丸顔、三つ揃いの背広にハンチングがトレードマークのTK原のおじいちゃんの口癖です。XとZは、戦争中に急成長し、戦後復興の波を巧く捉えて会社を育て上げ、ゼネコンに列せられている現在の礎を築いた人たち。
悔しかったのだと思います。ST郎が一代で築いたヨシユキ組が、まだ多少の余力は残っていたにせよ、新興勢力の後塵を拝することになってしまった現実が。しかもいまは、自らが望んだわけではない、他の会社の食客になっている。なぜ、TK原のおじいちゃんが、組を離れることになったのかは、いずれ。
実家にある『岡山県土木建築業組合史』という分厚い本を見ると、ヨシユキ組についての記載はあるのですが、実にあっさりしている。確か「……(組合が設立された頃のメンバーには)……ヨシユキ組の名もある」的な、1行だったように記憶しています。
なぜなんだろう。初代の組合長だったことは間違いないのですが……いろいろと妄想できそうなので、この話続きます。
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■【其の2】妄想劇場 ST郎絶賛される
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少なからず足跡を残したはずの、岡山県土木建築業組合の公式記録に、ST郎の記述がほとんどない。その理由を忖度(=妄想)する前に、彼の事蹟についての記録がないかググりまくっていたら、ようやく一つの書籍にたどり着きました。
1936年(昭和11)に発行された『新日本人物大系 産業人物篇』(中西利八 編・東方經濟學會出版部 刊/2002年:平成14、日本図書センターから復刻刊)という人物アーカイブの大著です。
図書館で閲覧しました。ずいぶんと立派な本でした。編者の中西利八という人は、「人名録の鬼」と称された、いまもなお謎の多い人物だそうです。
とまれ、『新日本人物大系』は、産業人物篇・商業人物篇・官界人物篇・政界人物篇・教育界人物篇 ・法曹界人物篇・刀圭界(*1)人物篇・満洲人物篇・朝鮮人物篇・在支人物篇として編纂され、日中戦争当時の国内外の重要人物データとして、資料価値が認められているようです。
その産業人物篇・四六六頁に記載されているST郎の項を転載します。句読点のない読みにくい記述なので分かち書きにしました。可能な限り記載ママの旧字にしてあります。
◎ヨシユキST郎
岡山縣土木建築業組合顧問、
大日本土木建築聯合組合評議員、
ヨシユキ組主、鐵道省指定工事請負人、土木建築請負
氏は岡山縣御津郡金川町の人 明治二年十月五日同地に生まる
赤坂郡立中學校を經て岡山雲函學舎に漢籍を修む
後土木建築界に投じ明治二十八年獨立開業以來
一貫して斯業に縱事し
拮据經營玆に四十年以て現在に及ぶ
此間四國九州は勿論遠く朝鮮北清方面に迄驥足を展べ
特に鐵道工事を得意とし
岡山驛改築工事に伴ふ地下道及築地工事を始めとし
鐵道省指定工事請負人として完成せる工事枚擧すべからず
鐵道工事専門請負業者として今や西日本屈指の地歩を占む
此間大正十一年岡山縣土木建築業組合創設と共に
其組合長に推され在任前後六ケ年
昭和六年縣強制組合に變更さるるや又復組合長に當選し
満期勇退後顧問に推され又現に
大日本土木建築聯合組合評議員たり
性剛健濶達にして思慮周密而も任侠に富み
地方業界の重鎮として各關係方面の信望篤し
最近の所得本税納入額二百五十餘圓を算す
【家族】妻MR代(明一九生岡山縣NRHR・Y造四女)
長男A助(明三九生創作家)
同妻AGR(明四○生岡山縣MT本TK政姉美容院經營)
同長男JNN介(大一三生)
二男KN造(明四四生立教大學修家業從事)
MGS郎(大四生東大法科在)
(ヨシユキ組=岡山市桶屋町電二八二二)
難しいですね。漢文を読んでるみたいです。思いっきり意訳してみます。
◎ヨシユキST郎
岡山県土木建築業組合顧問、大日本土木建築連合組合評議員、
ヨシユキ組主、鉄道省指定工事請負人、土木建築請負
1869年(明治2)10月5日岡山県御津郡金川町生まれ。
赤坂郡立中学校を経て(*2)、
岡山雲函學舎(*3)で
中国の古典を学ぶ。
土木建築業に従事し1895年(明治28)独立、
ヨシユキ組を開業。
以来40年、土木業に専念し、四国・九州はもちろん、
遠く朝鮮半島や中国北部でも事業を展開し、
その経営の才を発揮してきた。
特に鉄道工事を得意とし、鉄道省指定工事請負人として、
岡山駅改修工事に伴う地下道および築地工事をはじめとする、
無数の鉄道関連工事を受注完成させている。
鉄道工事専門請負業者としては、いまや西日本屈指の存在である。
1922年(大正11)岡山県土木建築業組合創設と同時に
組合長に就任(在任6年)。
1931年(昭和6)組合が岡山県の強制組合(*4)に改組されると、
再び組合長に選出される。
現在は同組合顧問、大日本土木建築連合組合評議員。
強くたくましくかつおおらかな性格で、
度量が大きく思慮分別は細やか。
弱きを助け強きをくじき、義理に厚く、
地方業界の重鎮として
関係各方面から厚い信頼を寄せられている。
最近の所得税は250円余り。(以下略)
ともあれ絶賛の嵐。本人が読んだら照れてしまいそうな……いやST郎は「もっともっと、ワシについては書くことがあったじゃろうに」と思っていたかもしれません。しかし、この本が発行されてから10年ほどの間に世の中は一変します。ST郎に何があったのか!? 妄想はさらにふくらみます。
*1 刀圭界:刀圭とは薬を盛るさじのこと。転じて医術、医者を意味する言葉だそうです。難しいなぁ! てことは、刀圭界=医学界ですね。
*2 赤坂郡立中学校を経て:卒業・中退不明。
*3 岡山雲函學舎:私塾だと思います。詳細不明です。
*4強制組合:業界の任意団体ではなく、行政指導によって改組されたということなのでしょうか? 申し訳ない。よくわかりません。
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■【其の3】妄想劇場 ST郎はどこから来たのか
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全国の人の交流や情報の伝達が不十分だった頃。せいぜい1970年代頃まででしょうか。日本の各地が、それぞれの独自性を保っていた時代。僕の苗字はそこそこ珍しいとされていました。特徴は、苗字(姓)というより名前っぽいということです。
名のると「上のお名前は?」なんて訊き返されたりもした。見ず知らずの人に「名前」をまず伝えるなんてことはありえないですけどね、銀座のおねぇさん方じゃあるまいし。
なぜなんだろう。小さい頃から漠然と思っていました。祖父母は生まれる前に亡くなっているし、親に訊いても「さぁ、古い名前らしいが、なんでじゃろうなぁ」と言われるばかり。考えられるのは、「□□ヨシユキ」という人が、何らかの理由があって姓を捨てて名前を苗字にした、ということ。でも調べる手だてがありません。
岡山駅の近くにあったヨシユキ組は、1945年(昭和20)6月29日の、アメリカ軍による無差別爆撃で焼失し、家財、書画骨董の大半を失いました。焼け残った物も、戦後保管していた土蔵をやぶられて、きれいに盗まれています。手がかり一切無しです。
しかし後年、祖母の実家からわが家の系図なるものが見つかりました。
ここからは「まゆつば」と「妄想」のオンパレードになることを、まずお断りしておきます。いや、面白いというか、よくもそこまで捏造するものだというのが正直な印象。冒頭に以下が記されています。
◎ヨシユキ氏系圖
本國近江國愛智郡長野郷藤堂邑より起る
藤原朝臣中原姓藤堂氏流
家 紋 右三巴
副 紋 藤堂蔦
衣服紋 中蔭蔦
道具紋 右ニ同
ふぅん、近江(滋賀県)出身か、確かに紋は「蔦」だし。でも系図がはじまると、思わずのけぞります。
はじまりは神々です。ま、それはそれとして読み飛ばすとして、問題は奈良・平安から鎌倉・室町にかけての部分です。なに!? 鎌足? 道長?? 頼通???……歴史上の有名人がご先祖様一族として並びます。さすがに「そりゃねぇだろう!」って、ツッコミのひとつも入れたくなります。大半はそんな感じ。
系図冒頭の記述通り、藤原氏、それも摂関政治で日本を支配した北家の流れを汲む(といわれる。この辺も超怪しい)中原氏から別れ、有名な戦国大名である藤堂氏とも縁続きであることを、こじつけようとしています。涙ぐましいというか、必死な感じが、おかしくも哀しいです。
ようやく、そこはかとなく身内感が出てくるのは全22帖の最後の3帖です。
時は応仁。ご先祖様は、応仁の乱の一方の旗頭、東軍・細川氏に味方していたというのです。「味方」といわれても、いろいろありますよね。軍勢の中心で戦に臨んだのか、戦乱に乗じて一旗揚げてやろうとした悪党・雑兵だったのか。
以降のご先祖様たちを、記載年順にまとめます(記述されている年号には西暦を先に付しました)。
◎中原(藤堂)ヨシユキ
應仁乱敗北後本姓を秘して實名を以て姓となす
これよりヨシユキ為三郎盛守と改名
1487年(長享元)丁未三月十三日
出ました。この人です。名前を苗字にしたのは。やっぱりそうだったんだ。
裏付けになると思われる資料があります。塙保己一編纂の、日本の古文献の集大成『群書類從』の続編、『續群書類從 巻第百六十四 系図部五十九 江州中原氏系圖 近江國御家人』に、中原ヨシユキの名が確かにあります。
わが家の系図と部分的には対応しているのですが、藤原北家や藤堂高虎との関係性をつなぐヒントは、当然のごとくありません。中原氏の庶流(別流?)とされる、この「江州中原氏」自体が、元々「仮冒」(他人の名をかたること)と考えられているようで、まったく歴史の闇は深いですね。
しかも「應仁乱敗北後」というのは変です。応仁の乱は、1467年(応仁元)から1477年(文明9)まで11年間、大義なく目的も見失って、ただぐたぐだ続いた日本史上でも珍しい悲惨な出来事です。京とその周辺はまったくの焼け野原と化し、あげく、勝ち負けなど、誰も、どこにも見いだせなかった。唯一残したものは、旧来の秩序が完全に崩壊して、戦国という脱構築の時代の幕開けとなったこと。むしろ「味方」していたという細川氏は、続く戦国時代の初頭には畿内で最大勢力を誇ることになっています。
察するに、敗北というのは、日々京周辺で起きていた小競り合いの一つにヨシユキが関与し、お尋ね者になってしまったということでしょう。何をやらかしたのでしょうか。目に余ることをしでかした。裏切り??
やっぱり、旧来の秩序からはみ出した悪党の類いだったと思います。
年号も不可解です。長享元年丁未三月十三日。亡くなったのであれば、他の人物には「卒」と明記されています。卒年もきっちり記載されている。とすれば、改名した年月日? でもそれでは、応仁の乱が終結してから10年後になってしまう。逃亡者として各所を放浪したあげく「こうなったら名前を変えて生き延びるしかない」と決断したのでしょうか? うぅむ、よくわかりません。
そしてここから、長い漂流がはじまります。
◎ヨシユキ景行
父ヨシユキと共に應仁乱細川氏に味方
◎ヨシユキ景成
1522年(大永2)赤松政村(晴政)に従ひて
浦上村宗と合戦軍忠
後に今川氏親に従ひて武田信虎と合戦軍忠
◎ヨシユキ藤左衛門景高
足利義晴に仕ふ
今川氏親に属し北條氏康と合戦軍忠
◎ヨシユキ藤左衛門景時
◎ヨシユキ藤左衛門景義
1560年(永禄3)今川義元に従ひて桶狭間合戦敗北
後、織田信長に仕ふ 関ヶ原合戦出陣武名あり
◎ヨシユキ藤左衛門景宗
関ヶ原合戦軍忠討死
◎ヨシユキ右兵衛景元
ヨシユキ二男
1584年(天正12)長久手合戦軍忠
1600年(慶長5)関ヶ原合戦軍忠
◎ヨシユキ右兵衛景信
1615年(元和元)大坂夏ノ陣敗北
事実など誰にもわかりません。しかし、よく負けていますね。でもたくましい。記述を信じるなら、次々と新しい主君に仕えている。
日本人が大好きな「武士道」からすれば、とんでもないことかもしれません。ただ戦乱の時代の人間にとって、それは当然のこと。日常的な死と譬えようのない栄達が背中合わせだった、想像もつかない時代です。主君は用のない家臣を容赦なく捨て去ります。一方家臣もまた、力量のない主君は容赦なく見限って、新たな舞台を目指した。
ただ、ひたすらに生き残ること。シンプルでシビア。ご先祖様たちが、這いつくばって命をつないできた結果が、現代のみなさんであり僕です。感慨深いですね。
近江から摂津(大阪府の一部+兵庫県の一部)、播磨(兵庫県)、駿河(静岡県)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜県)、再び摂津へとヨシユキは足跡を残しています。改名年(を信じるとすれば)から大坂で敗れるまでに128年。桶狭間で負けて信長に仕えた、まではわかるとして、その先は闇また闇。主君の名なく、長久手、関ヶ原、大坂と転戦しているのは、いわゆる「陣借り(*1)」衆だったのでしょう。
一発逆転を信じて戦って、負けて、何とか生き残って、徳川・江戸時代がやってきた。
*1 陣借り(Wikipediaより編集転載):合戦の際に正規軍でない勢力が自費で参加すること。恩賞や兵糧・武器などの補給が約束されるわけではないが、活躍次第で、仕官や恩賞を得る場合もあった。何らかの理由で正規軍を追い出された武将などが、再起・再仕官を懸けて行ったケースも多い。
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■【其の4】妄想劇場 ST郎、まもなく誕生す
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大坂夏の陣が終結して30年後、ヨシユキは岡山に現れます。もう少し、わが家の系図なるものにおつきあいください。
◎ヨシユキ右兵衛景知
1645年(正保2)池田光政公仕官
江戸初期に日本を揺るがした大乱「島原の乱」は1638年(寛永15)に終結。1639年(寛永16)にはポルトガル船の入港禁止措置がとられ、いわゆる鎖国がはじまります。ようやく泰平の時代の兆しは見えはじめていたころ。しかし巷には、徳川政権からはみ出した牢人があふれ、世情はまだまだ不安定でした。6年後の1651年(慶安4)には、そんな牢人を糾合して幕府転覆を企てたとされる、「由井正雪の乱」(慶安の変)が、あっけなく鎮圧されています。
大坂で敗れたというヨシユキ右兵衛景信が、仮に20歳だったとすればこの年50歳。当時の平均寿命からすると、亡くなっている可能性が高い。息子が右兵衛景知だとすると、夏の陣当時5歳としてもすでに35歳。
それまで、どこで何をしていたのかわかりません。かなりラッキーですよね。浪々の身から一転仕官できたわけですから。しかも仕えた殿様は、教科書に必ず載っている有名人。水戸の徳川光圀(黄門様です)、会津の保科正之と並んで江戸時代初期の三名君と称される池田光政です。当時光政は、社会不安の大きな要因である牢人の、新規召しかかえを積極的に行っていたようです。右兵衛景知は、うまくその波に乗ることができた。
やがて、何年後かは不明ですが、ヨシユキにもう一度転機が訪れます。
◎ヨシユキ藤左衛門景直
草生村帰農す
◎ヨシユキ藤左衛門直房
草生村名主役
ヨシユキ一族は、津高郡金川の在、草生村(「くそう」と読みます)に土着。明治までそれが続くことになりました。系図なるものは、そこで終わっています。ST郎が生を受けるまで、あと200年あまり。
しかし、せっかく仕官できたのに、あっさりと武士身分を返上してしまったのはなぜなんでしょう。理由として考えられるのは、2つあります。
一つは1654年(承応3)に岡山藩を襲った大洪水です。流出、崩壊、破損家屋3739軒、流死人156人、流死牛馬210頭(*1)という大災害でした。光政は洪水被害復旧と、洪水に伴う飢饉を回避するための、思い切った藩政改革を行い成果をあげました。そのときの、光政の災害復旧対策の一つに「収納面で災害の打撃が大きい家中士卒で、希望する者は在郷に引っ越して居住することを許す(*2)」というのがあったそうです。
武士に見切りをつけ、農業生産者として生きる道を選んだ。そうだとすれば、意味ある選択だったと思います。
もう一つは宗教問題です。
「備前法華に安芸念仏」という言葉があるように、備前(岡山)は、日蓮宗信徒が多かった。しかも厄介なことに「不受不施派」といわれる「日蓮原理主義者」が多数を占めていたのです。「他宗派からの施しを受けず、施しもしない」。日蓮の教えをかたくなに守り続けた彼らは、かなり辛い目にあっています。主だった仏教各宗派を集めて「方広寺大仏殿千僧供養会」を開催しようとした、豊臣秀吉に逆らい参加拒否したことが弾圧のはじまりでした。
世俗のいかなる権威権力も認めないし、それに屈することもない。一向宗のような武力闘争に訴えることはなかったようですが、権力者にとっては扱いづらい集団です。幕藩体制そのものを否定しかねない危険思想を、見過ごすわけにはいかなかった。そしてとうとう1669年(寛文9年)、幕府によってご禁制の宗教とされてしまいます。そうなんです、不受不施派はキリシタンと同じ存在だったのです。
その牙城である岡山の弾圧は徹底的だったようです。不受不施派の寺は破却され、僧侶は追放され、信徒は改宗を強いられた。しかし彼らは、めげませんでした。表向きはともかく「隠れ信徒」として組織的な信仰を守り続けました。わが家の宗旨も不受不施派です。信徒だったと思われるヨシユキ藤左衛門景直は、弾圧下で、藩士として残る余地がなかったとも考えられます。
政府によって日蓮宗不受不施派の再興が許可されたのは、1876年(明治9)。ヨシユキが土着した金川に、本山として「妙覚寺」が建立されました。弾圧に負けず法灯を守り続けた人たちの血が、こんな「軽はずみ」な僕にも流れている。不思議すぎますね。現実感がまるでない。熱心な信徒だったST郎も、2代後のていたらくを泉下で嘆いていることでしょう。
一度母に注意されたことを思い出しました。
「ウチは不受不施じゃからなぁ。神社では(神殿に)一礼するだけで、手を合わせちゃいけんのよ」
元々は神社参詣も許されなかったそうです。そういえば父の葬儀では、棺は僧侶たちの正面に置かれなかった。正面に法華経の掛軸(お掛図というのでしょうか?)が掲げられた、式台の左側斜めに安置されていました。日蓮と法華経がなによりも優先する。恐るべし不受不施、ですね。
*1 被害数は『吉備の歴史に輝く人々』(柴田一著/吉備人出版刊)による。
*2 中国電力エネルギア総合研究所『経済調査統計月報2008年6月』所収「シリーズ特集 中国地域の経世家たち 第2回 熊沢蕃山」(経済・産業調査担当 増矢学筆)による。
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■【其の5】妄想劇場 ST郎、ついに誕生!
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ヨシユキが土着した津高郡草生村は、岡山市の中心部から北へ約24km。当時、岡山藩六家老の一角を占めた日置氏の陣屋が置かれていた金川村に隣接した土地です。金川は、岡山と美作(岡山県北部)の津山を結ぶ津山往来の要衝でした。津山往来は、岡山市から津山市を経て鳥取市に至る、現在の国道53号線とほぼ同じルートをたどっていた街道です。
草生村は、明治以降に御津郡金川町大字草生から同郡御津町金川大字草生へと移行し、現在は岡山市の一部(北区御津草生)になっています。
草生と岡山の間には、辛香峠という難所がありました。相互の距離は大したことはないのですが、峠が人と物産の頻繁な往来を阻んでいたのです。
僕が子どものころ。1960年代(昭和35〜)初頭は、舗装もされていない、山際に沿ってくねくねと続くスリリングな道だったという記憶があります。1967年(昭和42)、峠をショートカットする「辛香隧道」が完成。そして国道53号線が旧道とは別にバイパスとして整備され、いまは、クルマであれば、随分と快適に行き来できるようになりました。
それに先立つ交通革命は、明治時代に起こっています。1898年(明治31)の中国鉄道(現・JR津山線)の開通です。鉄道は辛香峠越えを早々にあきらめ、中国山地に発して岡山市を貫き、児島湾に注ぐ一級河川・旭川沿いのルートをとりました。1944年(昭和19)に国有化され津山線と名を変えたこの鉄路が、僕は好きです。
岡山市街を抜けてしばらくすると、突然左に山が迫ってきます。山といっても200〜300m級なのですが、それが延々と続きます。開業当時と、おそらく変わらぬ景色。右は旭川です。満々と水をたたえた川面、対岸の山々、悠然と飛ぶ白鷺、岸辺の舟の舳先から静かに餌を狙う鵜。水墨画のような景観です。
単線、非電化。2輛から4輛編成のディーゼル列車が、削りとった山肌にかろうじてへばりついている印象の線路を、ガタコト走ります。かつては鳥取行きの特急列車も走っていたはずですが、いまは、岡山・津山間の往復路線になっています。それでも1時間に2本程度のダイヤが組まれているのですから、ローカル線としては優秀ですね。
やがてトンネルを抜けると、視界が開けて辛香ルートの国道53号線と出会い、ほどなく金川の駅に到着します。所要時間約30分。金川にある県立高校や病院に通っている人たちには失礼な物言いかもしれませんが、ここでは、僕の気分は「旅」です。
草生村は、金川の町を抜け、旭川に注ぐ宇甘川の橋を渡った北側です。現在の行政区画である「御津草生」から基本データを割り出してみました。使ったのは「キョリ測(*1)」です。便利ですよ。
◎草生村の面積
約5・97平方キロ
※約181万坪/約597ha/約6016反/
東京ドーム127・6個
外周約10km。けっこう広いという印象ですが、大半は山です。大きく蛇行する旭川の堆積によってできたと思われる平地=耕作可能な土地はかなり狭い。さらに「キョリ測」で類推してみました。
◎草生村の耕作&居住可能面積の推定
約1・7平方キロ
※約51万坪/約170ha/約1706反/
東京ドーム36・2個
全体の約28%の土地に田や畑を開いて、人々が住んでいたのですね。ヨシユキもそこで暮らしたわけです。土着してから約200年。1869年(明治2)10月5日、ST郎は、ヨシユキ新三郎の長男として草生に生まれました。
*1 キョリ測:http://www.mapion.co.jp/route/
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■【其の6】妄想劇場 ST郎、立ち尽くす!
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あまりありがたくない言い伝えというか、ジンクスがわが家にはあります。
曰く「ヨシユキの家は一代おきに怠け者が出る」。
やな言い伝えですよね。まぁ、いいときもあれば悪いときもある。果てしなく浮沈を繰り返したとしても、ならせば結局オールイーブンってことだ、と僕は思うようにしています。
1881年(明治14)3月、ST郎の父・新三郎が亡くなりました。ST郎は12歳でした。
ヨシユキは江戸時代を通じて草生村の庄屋だったと聞いて育ちました。系図なるものにも「ヨシユキ藤左衛門直房 草生村名主役」と記されています(そのへんを巡る妄想は、のちほど)。しかしST郎は、思わぬ現実に直面します。家屋敷はおろか大地主として所有していたはずの土地一切が、借金の形にとられていたのです。
新三郎はなにをやらかして身上を失うことになったのか!? 立ち尽くすしかなかったでしょうね、ST郎は。年齢からすると当時の「小学校上等科(*1)」の3年生。
ST郎がまず通ったのは、1875年(明治8)金川に創設されたばかりの臥龍小学校(現・岡山市立御津小学校 *2)だったと思います。草生の自宅から3km弱を毎日テクテク歩いて通った。それはいいとして、「【其の2】妄想劇場 ST郎絶賛される」に記した『新日本人物大系 産業人物篇』の本人プロフィールと照合しない部分が出てくる。
プロフィールには「赤坂郡立中學校を経て……」とありました。赤坂郡(現・赤磐市)は、草生から金川に流れ下る旭川の対岸です。いまは金川大橋という立派な橋が架かっていますが、当時の様子が確認できません。仮に橋が架かっていなかったしとても、金川は室町時代から旭川流域の物資輸送を担った高瀬舟(*3)の川湊としても栄えていたそうですから、渡し船のようなものはあったはずです。
何を妄想しているかというと、臥龍小学校には「小学校下等科」しかなかったのではないかということ。岡山の学校に通うのはさすがに遠すぎる。一番近い「小学校上等科」(*4)が赤坂郡にあったのではないでしょうか。そして後に赤坂郡立中學校に改組されたため、ST郎は出身校としてそう申告した。あくまで妄想ですのでご容赦ください。
当時の赤坂郡役所があったのは町苅田村(まちかんだ/現・赤磐市町苅田)というところです。小学校上等科が置かれるとしたら、おそらくそのあたりでしょう。ただし草生から約9・6キロ。10歳やそこらの子どもが通えたのか? それとも縁者を頼って寄宿していたのか? 残念ながら事実はまったくわかりません。ともあれ、父親の死は、無一物で残されたST郎に大きな試練を与えることになります。
ここで再妄想。わが家の系図なるものの最後の一節、「ヨシユキ藤左衛門直房 草生村名主役」という記載について考えました。
藤左衛門直房は、ヨシユキの祖先であることは間違いないと思います。「ヨシユキ」は草生を代表する苗字です。土着して200年、ヨシユキ一族は枝分かれしていきました。ヨシユキという家がいまも何軒か存在します。ちなみに、わが家の系図が見つかった祖母の実家、「ナリヒロ」という苗字を冠する家も同じく草生に見られる苗字です。古くからわが家と縁戚関係にあったらしいナリヒロも、苗字(姓)というより名前っぽいというのが、おもしろい一致ではありますが。
臥龍山の北側に、溜池が二つあります。いまの国道53号線と旭川に挟まれた、草生の耕作適地を潤す用水の源です。その耕作地寄りの池に向かう道の途中に「もとや」(元家/本家?)と呼ばれるヨシユキさんの家があります。
小さいころ、墓参りの折りには、必ず両親は土産物を携えて「もとや」を訪れていた。僕も何度か親について行った記憶があります。表敬訪問だったのでしょう。その名の通り「もとや」はヨシユキ藤左衛門直房直系の血筋だと思います。しかし何代かを経て、正統が継いできた「名主=庄屋」役が、枝分かれしたヨシユキのなかの一つ、わが家の系統に移ったのではないか。その事情、経緯は、またまた歴史の闇に呑み込まれています。
親たちの訪問が、たんに本家に対する敬意だけでなく、「もとや」に挨拶を欠かしてはいけないという、わが家のしきたりであったように感じるのは、妄想がすぎるでしょうか。
ヒントになるのは、過去帳です。1600年代後半に土着したはずなのに、もっとも古い記載が1812年(文化9)なのです。戒名(日蓮宗では「法号」というそうですが、ここでは「戒名」で統一します)を連ねているのは24人。俗名がわかるのは、昭和以降の身近な物故者5人を除くと3人だけです。
大正時代にST郎が、強烈な自負心の表明として造った、わが家の墓地が草生にあります。詳しくはいずれ書きたいと思いますが、ST郎を偲ぶ数少ないモニュメントであることは確かです。
その中に9基の古い墓石があります。子どものころから興味があって、なにげに刻まれている年号は見ていたのですが、俗名、享年などの確認は「いつか、そのうち……」と思っているうちに何十年もたってしまった。「軽はずみで怠惰な」僕の面目躍如といったところです。閑話休題──。
ずるずる先送りにしていた墓調べを助けてもらえるサイトがありました。「ごさんべえのぺーじ」です。在野の家系研究の第一人者である著者が、先祖探しのあるべき道筋を緻密な調査と確固たる歴史観で示してくれる〈大労作〉サイトです。先祖とその先に広がる歴史の多層性=「縁」のもつ意味について考えさせられました。
先述「昭和以降の身近な物故者5人を除くと3人だけ……」の、3人の俗名は「ごさんべえのぺーじ」で知りました。実は、僕は曾祖父・新三郎の名前すら知らなかったのです。ヨシユキだけでなくナリヒロも取り上げられているので、ふたつの家の関係性が再確認できました。
あまりに稚拙な解釈で「ごさんべえ」さんには笑われるでしょうが、3人の俗名と過去帳から見えてきたものがあります。1812年(文化9)はそっけない4文字の戒名です。おそらく、新たな家を構えることを許されたヨシユキでしょう。ところが16年後の1828年(文政11)に亡くなった、勘十郎という人物以降の戒名には「院号」が贈られている。このあたりが怪しいです。
「もとや」に何かが起こった。我田引水に解釈すれば、故あって庄屋役を禅譲された。斜めに読めば、一族を巻き込む継承、相続争いが起き、その渦中にうまく立ち回って、もしくは強引に、権威、権益を一手に収めることに成功した。以降、明治の新三郎の死までの約半世紀。ジンクスによれば、その折々の浮沈はあったでしょうが、わが家は庄屋~地主として、草生に暮らしてこられたのでしょう。
しかし、それもすべてが失われてしまった。ST郎は、自立しなければなりませんでした。
*1 小学校下等科・上等科(Wikipediaより編集引用):1872年(明治5)に公布された、日本で最初に学校制度を定めた教育法令「学制」(太政官布告第214号)による学校区分。小学校下等科(4年制/6~10歳)を経た学童が通う中等教育機関が小学校上等科(4年制/10~14歳)。進学する場合はさらに、中等学校下等科(3年制/14~17歳)~中等学校上等科(2年制/16~18歳)~大学と進んだそうです。
*2 臥龍:金川と草生を隔てる城山・通称「臥龍山」(標高221m)からとった名前です。「横たわる龍」。ずいぶんロマンチックな名前ですね。城山は、1480年(文明12)ころから5代にわたって西備前を支配した戦国大名・松田氏の居城があったところ。総延長約1kmの、典型的戦国期山城の遺構が多数残されているそうです。
*3 高瀬舟(Wikipediaより編集引用):河川や浅海を航行するための船底の平らな木造船。室町時代末期ころの岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)で使用されはじめ、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。帆走もしくは馬や人間が曳いて運行され、物資の輸送を主な目的としていたそうです。高瀬舟の起源が岡山にあったとは。まったく知りませんでした。
*4 一番近い「小学校上等科」:「佐久平を元気にする情報サイト ぷらざINFOさくだいら」の「歴史探訪 名所・旧跡を訪ねて─旧中込学校─」に次の記述があります。──明治6年、佐久郡下中込村、今井村、三河田村の組合立小学校として下中込村の小林寺に成知学校(第6大学区第17中学区第7番区の小学校)が設置されました。授業課程は上等科4年、下等科4年の8年制でしたが、当時佐久地方で上等科が置かれた学校は少なく、他に尚友学校(田口)、明倫学校(小諸)、志仁学校(志賀)だけでした。(以下略)──。当時全国的に、郡部では「上等科」を置く小学校は限られていたと思われます。
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■【其の7】妄想劇場 ST郎、独立する
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無一物の12歳。ST郎は、いきなり世間の荒波にもまれることになりました。
ST郎自身、父親の死から土木業者として自立するまでのことについて、話したがらなかったようです。逸話はほとんど残されていません。妄想する手がかりは『新日本人物大系 産業人物篇』の次の部分だけです。
──赤坂郡立中學校を經て岡山雲菡學舎に漢籍を修む
後土木建築界に投じ明治二十八年獨立開業(以下略)──
当時の小学校は有料でした。文部科学省の「学制百年史」に次の一節があります。
──学制の規定によれば小学校の授業料は月額五十銭を相当とし、
(中略)
しかし学制が定めた月額五十銭は、
当時にあってはきわめて高額であり……(以下略)──
授業料を捻出できない子どもに対して、さまざまな救済策は講じられていたようですが、基準の金額があまりにも高すぎた。後ろ盾を失ったST郎は、あと1年の小学校上等科課程(後の赤坂郡立中學校?)を中退せざるをえなかったはずです。またまた妄想するに、何かの縁を頼って岡山に出た。高瀬舟で下る船賃もままならず、辛香峠越えの街道をテクテク歩いたんでしょうね、きっと。
落ち着いたのは、私塾と思われる岡山雲菡學舎。「漢籍を修む」なんて高尚な話ではなく、住み込みの書生・小僧として、とりあえず糊口をしのいでいた。そしてそれは、長くは続かなかった。こきつかわれるというか、ひどい扱いを受けたんだろうなぁ(あくまで妄想です。「漢籍」なんぞくそくらぇ! とばかりに、自分で見切りをつけた可能性もあります)。
話したくなかった経歴・体験は、孫として想像したくないですね。ST郎が頼れたのは自分だけ。幸いにも、頑健な軀と「性剛健濶達にして思慮周密而も任侠に富み」(『新日本人物大系 産業人物篇』による)といわれた才覚には恵まれていました。黴臭い雲菡學舎を出奔して、ST郎は徒手空拳で町に出たのだと思います。
全国で自由民権運動が激化する一方、東京では「鹿鳴館」で浮世離れした夜会が催されていた時代です。岡山では(*1)、紡績工場ができ、柵原で硫化鉄鉱の採掘がはじまり、ランプが普及し、蒸気船が盛んに行き来しはじめていました。
文明開化は、多くの土木建築の需要を生んだはずです。ST郎は荒くれの人夫たちに混じって、日銭の稼げる肉体労働に活路を見いだしたのでしょう。「小才のきく小僧じゃ」と、人夫の親方、組長クラスの目にとまってチャンスをつかんだ。頭角を現すまで、危ない橋をいくつも乗り越えた。ダークサイドの勢力とのせめぎあいも多々あったと思います。
母から聴いた逸話がひとつ。土木業者として成功してからの話です。
小遣いせびりの「旅人」が、ST郎を訪ねてくることがままありました。「たびびと」ではなく「だびにん=博徒などの渡世人」です。ST郎は臆することなく、泰然として彼らと対峙し、けっして弱みは見せなかったそうです。ただしその折には必ず、懐にピストルを忍ばせていた。事実のようです。東映の任侠映画みたいな話ですねぇ。しかしこの話も、母はST郎から直接聴いたものではありません。姑のMR代(ST郎の妻)の、問わず語りだったそうです。
実家の写真額のST郎の表情について以前書きました。「自信に満ちた柔和な視線を投げかけて……」。でもそれは、晩年のことでしょう。『新日本人物大系 産業人物篇』に掲載されている写真は、野心を孕んだ、実に険しい表情です。いかにも、土建業界の親玉然としている。
ステロタイプな土建屋のオヤジ像ってありますよね。「ガハハッ! よっしゃ、よっしゃ!」的なあれです。良い意味でこれを体現し、知的に磨きあげたのが田中角栄総理大臣ですよね。でも、大半のオヤジさんたちは、そうはなれない。成り上がって持ちつけない金を持ち、パァ~ッと散財したあげく、いろいろな意味のステイタスを求めはじめる。
ありがちなのが「立志伝」っていうやつ。艱難辛苦、刻苦勉励、粒々辛苦、臥薪嘗胆、孤軍奮闘、粉骨砕身、八面六臂、獅子奮迅、そしてなにより自画自讃──かなり誇張された武勇伝と美談あふれる、聴かされたり、読まされた人の方が照れてしまうようなお話です。
無一物から成り上がったST郎にそういう一面がなかったか、といわれれば完全には否定できない。ただ、成り上がる過程は、まったく語らなかった。なぜなんでしょう。身びいきとのそしりを畏れず言えば、ダンディズム。一面には、ニヒリズムの色があった気もします。
人は来し方に拘泥すべきではない。これは潔いですね。血肉となった過去=清濁は、自分の心のうちに秘めておくだけでいい。しかしそこには、拭いがたい挫折がある。一夜にして、身ひとつで運命を切り開かざるをえない境遇となってしまったこと。生々流転。確かなものは何もない、ということなのでしょう。
過去を語り残す意味などまったくない。そう心に決めていたのだと思います、ST郎は。
ともあれ草生を出てから14年後の1895年(明治28)、ST郎は独立してヨシユキ組を設立します。時代もST郎に味方しました。鉄道が次々と敷設されたのです。後年、最も得意とした工事分野でした。
1891年(明治24)、神戸を起点とする山陽鉄道(現・JR山陽本線)が岡山まで開通。以降1901年(明治34)の馬関(いまの下関)開通まで、鉄路はひたすら西に向けて伸びて行きました。岡山開通までは人夫として汗を流し、組を構えてからは、下請け業者からはじめて鉄道工事の経験と実績を積んだ。
1897年(明治29)に認可され2年後に開通した、生まれ故郷の草生を通る中国鉄道(現・JR津山線)の工事には、手段を選ばず食い込んだと思います。追われるように出た草生への凱旋でした。遥か後年の、父の代にも津山線との縁は続いていました。山が迫る険しい路線である草生~金川付近の、山肌の崩落を防ぐ工事をヨシユキ組が請け負ったことを、おぼろげながら覚えています。
以後明治から昭和初年までの、岡山県内の主な鉄道工事を列挙します。ST郎がこれらの工事のどの部分に関わったのかはわかりません。しかし、こんなチャンスを見逃すような人物ではなかったはずです。
・中国鉄道吉備線開業(1904年:明治37/現・JR吉備線)
・宇野線(*2)開通(1910年:明治43/現・JR宇野線)
・岡山電気軌道(*3)開業(1912年:明治45)
・西大寺軽便鉄道開業
(1911年:明治44/1962年:昭和37全線廃止)
・三蟠軽便鉄道開業
(1915年:大正4/1931年:昭和6年全線廃止)
・片上鉄道開業
(1923年:大正12/1991年:平成3全線廃止)
・井原笠岡軽便鉄道開業
(1913年:大正3/1971年:昭和46全線廃止)
・下津井軽便鉄道開業
(1913年:大正3/1991年:平成3全線廃止)
・作備線開業(1923年:大正12/現・JR姫新線)
・伯備南線開業(1925年:大正14/現・JR伯備線)
・因美南線開業(1928年:昭和3/現・JR因美線)
言いたくなかった話をほじくり返しすぎると、泉下のST郎から「阿呆ぅ! いらんことはすな(よけいなことはするな)」と叱られそうなので、もうやめます。
*1 岡山では:『岡山文庫 122 目で見る岡山の明治』(巌津政右衛門 監修/日本文教出版刊)による。
*2 宇野線:岡山を起点に本州と四国を結んでいた路線。宇野港と高松港を結ぶ宇高連絡船が就航していた。連絡船は、1988年(昭和63)瀬戸大橋の開通に伴うJR本四備讃線(瀬戸大橋線)開業により廃止された。現在は、茶屋町駅で瀬戸大橋線と分離し、宇野まで変わらず運行しています。
*3 岡山電気軌道:岡山市内を2路線で運行している路面電車。Wikipediaによると、創業100年を経て、当時の名前をそのまま残しているのは非常に稀だそうです。
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■【其の8】妄想劇場 ST郎、凱旋!
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ST郎が組を構えた1895年(明治28)は、日本中が日清戦争の戦捷に沸いていました。でもそれは、日本にとって後戻りできない「崩壊」への第一歩でもありました。三国干渉による占領地の遼東半島返還とロシアの南下圧力、軍事力による台湾支配、朝鮮王朝内の主導権争いに端を発する親ロシア派の皇后・閔妃暗殺事件、孫文による清朝打倒運動の激化など、極東は、いつ再び火がついてもおかしくない緊張を孕んでしまったのです。
ここからちょうど50年間、日本はひたすら戦争の時代を走り続けるわけですが、そのバックボーンとなった「富国強兵」政策は、ST郎に大きなチャンスをもたらしました。
前回「草生への凱旋」と書きました。その「凱旋」とは、父・新三郎が失った草生の土地を買い戻すことでした。鉄道、橋梁など、急激に進むインフラ整備で土木業者としてのし上がっていく一方、ST郎は、かなり強引に事を進めたと思います。「モンテ・クリスト伯=巌窟王」とは言いませんが、何か、ST郎を衝き動かす大きな理由があったような気がします。
凱旋の目的を果たしたのは、おそらく独立してから20年あまりのちのこと。取り戻した土地の広さは何となくわかります。小山の中腹にあるわが家の墓から見渡せる範囲。漠然としてはいますが、【其の5】で類推した「草生村の耕作&居住可能」地域の多くを含むというイメージです。
「ぜぇんぶヨシユキの土地じゃ」。後年の昭和10年代(1935~)、老境にさしかかったST郎は、墓参りの折りに満足げにつぶやいていたそうです。母の記憶です。土木業者としての成功と地主への復帰。ST郎は、いつしか組の人たち、草生の人たちから「御大(*1)」と呼ばれるようになります。
「御大」は岡山訛りで発音すると「おんてゃあ」となります。ネイティブでないと、この発音はけっこう難しい。ちなみに岡山人は名古屋人と同じ「みゃあみゃあ語族」です。例をあげます(別に例示しなくてもいいのですが)。「岡山=おかやま」は「おきゃぁま」。(緊張が高まったりした)はなはだしい場合は「おッきゃぁま」となります。鳥取の名峰「大山(*2)」は「でゃぁせん」です。どうでもいい話ですね。申し訳ありません。
御大・ST郎が草生にもたらしたものは、地主としての支配ではなく、雇用でした。草生・金川周辺の農家の次男・三男たち。家督を継ぐことができない、腕っ節が強く知恵ありと認めた若者たちを、ST郎は次々に雇い入れました。本稿冒頭に登場した「TK原のおじいちゃん」TK原MS治もその一人でした。
「ここにゃぁ、おるとこがねぇんですらぁ」(草生には自分がいるべき場所がないんです)
「ワシんとこの仕事は〈えれぇ〉が、それでもえぇんか」(ヨシユキ組の仕事は〈辛い=しんどい〉が、それでもいいのか)
「なんでもしますけぇ、〈おッ〉きゃぁまにつれの~てつかぁさい」(どんな苦労も厭わないので、岡山に連れて行ってください)
土地に深く根ざした人と人との紐帯。郷党的つながりが、初期のヨシユキ組を支えるパワーになったのは間違いないでしょう。彼らの〈熱〉をエンジンとして、ST郎はさらにのし上がって行きます。
この草生とヨシユキ組の関係性は、僕の父の代、まだ会社が威勢の良かった1960年代半ば頃(昭和35年頃)にも続いていました。
父が墓参りに行くときは、ハイヤーを仕立てて草生に向かうのが通例でした。舗装されていない辛香峠を越える。いわゆるつづら折り。右は山、左は谷です。対向車が現れると、慎重にハンドルを切らないと滑落しかねない難所でした。いまとなってはうろ覚えですが、同行させられていた僕は、そんなスリリングな景色を楽しんでいたような気もします。
金川を過ぎて旭川沿いを北上するクルマは、臥龍山北側の溜池から流れる用水にぶつかるところで左折して、草生の集落に入って行きます。
クルマが止まるとTK原のおじいちゃんが出迎えてくれます。
「よぅ、みゃあられた」(よく、参られた)
「よぅ、えぇでんさった」(よく、おいでくださいました)
TK原のおばちゃん(おじいちゃんの妻)もにこやかに挨拶してくれます。男女の言い方の違いが面白いです。
「おんてゃあ、墓ぁ、いかれますかぃのぉ」(御大、墓参りをまずされますか?)
「おぅ」と父が答えます。二代目の父もST郎同様「御大」と呼ばれていたのです。
早々に墓参りをすませると、祖母の実家であるナリヒロ家へ挨拶。続いてヨシユキの本家である「もとや」へ挨拶に向かいます。お決まりの行程が終わると、TK原家で一服。すると、いつの間にかたくさんの人が集まってきます。老若男女というやつです。父と母は、それらの人一人ひとりと親しく挨拶を交わします。子どもだった僕には耐えられない、たいくつな時間でした。
戦後の農地改革で、典型的な不在地主だったわが家は、ST郎が心血を注いで取り戻した土地のすべてを失っていました。でも、この儀式めいた、習わしと言っていいのかどうかもわからない、人々の行動は続いていたわけです。ハイヤーで乗り入れるという父の行動も、その様式・儀式に則っていた、という気がします。
ひとつ鮮明な記憶があります。
いつものように、父母が草生の人たちと挨拶行動をしていたとき、とある老人が父に語りかけました。
「おんてゃあ、こんだの選挙にゃ、誰ぇ入れりゃあえぇんですかいのぅ・・・」(御大、今回の選挙では誰に投票すればいいんですか・・・)
「阿呆ぅ、そんな話はあとにせぇ!」
(おおっぴらに、そんな話してもえぇんじゃろうか)
子どもごころに感じた〈いけない気分〉が、いまも確かに残っています。
『オールウェイズ・三丁目の夕日』で描かれているのと同じ時代です。あのころが、いまより良かったのかどうか、それは正直わからないですね。いまも日本のどこかで似たようなことが行われている可能性も大いにありますが、ここは、まぁ、そんな時代もあったということにしておきましょう。
*1 御大:「御大将」の略。主人または一派の頭などを親しんでいう語(新潮国語辞典)。
*2 大山:中国山地の最高峰。標高1709mの休火山。美しいその姿から「伯耆富士」と讃えられています。
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■【其の9】妄想劇場 ST郎、興信所に身元調査される
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独立前後にST郎は草生のナリヒロ家から妻を迎え、長女YS子が誕生します。しかし間もなく、妻が病没。のちに亡妻の実妹・MR代を後妻として迎え入れます。かつてはよくあった話でしょう。17歳下の若妻でした。
1906年(明治39)に長男・A助、1911年(明治44)に次男・KN造(僕の父です)が誕生。不惑を迎える世代まで叶わなかった、待望の男の子たちでした。
「これで組の行く末も安泰じゃ」
ST郎の安堵は、やがて、たんなる画餅であったことが判明してしまうのですが、その話はいずれ。
A助、KN造は岡山市の桜馬場にあったヨシユキ組で生まれています。桜馬場は岡山城二の丸の、岡山藩筆頭家老・伊木家の屋敷側にあった馬場にちなむ地名。現在の岡山県庁近くのお屋敷街です。きれいな響きですよね。城下町にはけっこうある地名のようですが。
おそらく、ST郎は没落した旧藩士の屋敷を買い取って、自宅兼組事務所にしていたのでしょう。
20世紀の幕開けは、大戦争と重なりました。1904~1905年(明治37~38)の日露戦争です。薄氷を踏む勝利だったことは、NHKの大河ドラマ『坂の上の雲』(司馬遼太郎原作)でも描かれていましたね(司馬史観を甘受するかどうかは別問題として)。
ST郎にとってこの激動は順風そのものでした。
鉄路は、北海道、東北、九州を縦貫するだけでなく、朝鮮半島、台湾、樺太、そして満州へとひたすら拡大していきました。鉄道バブルでした。『新日本人物大系 産業人物篇』にあるST郎についての記述、「此間四國九州は勿論遠く朝鮮北清方面に迄驥足を展べ……」は、そのあたりの事業展開に触れているのではないかと思います。
「ST郎お祖父さんは、中国におった(いた)こともあるらしいんよ」
そんな、母のかすかな記憶しかその事蹟を探るヒントがないのが、ほんと申し訳ないです。
たとえば、国家的一大プロジェクトだった南満州鉄道建設に、どんな形であるにせよ、係ったという話でもあれば納得がいくのですが、「語らない」ことを本分とする(?)ST郎は、手がかりすら残していない。まぁ、こまめに実直に、請け負うことに自信があった仕事は、国内外を問わず受注したということなのでしょう。そのおかげで、岡山では「御大=おんてゃあ」と称される、いっぱしの土木業者になっていた。
何か資料はないものか。そうだ、交詢社の『日本紳士録』があるぞ。ST郎についての記載があれば、裏付けとはいわないまでも、事蹟を妄想する手がかりになる。でも、どこで参照すればいいのだ!? ネットに頼るだけでこの話を書き続ける限界です。近所の図書館もいいけど、国立国会図書館に行くか……と思いはじめていました。
しかし、捨てる神あれば、なんとやら。僕のような怠け者を助けてくれるサイトがありました。それは、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」です。明治以降の、著作権をクリアした図書資料をPDF化して閲覧できるという優れもので、その数なんと約57万冊(ネットで閲覧できるのは約24万冊)。
早速検索しました。ありました。
またまた脱線ですが、良い時代になったものです。極私的なST郎探索はともかく、思わぬ歴史的な資料をPCモニター越しに入手できるのです。わが家の系図なるものの裏付け資料を見つけた「Google books」にも感動しましたが、お国もけっこう粋なことをやるもんだ、と思いました。いまは独立行政法人化されて、予算的には逼迫しているようです。わずかながらでも納税し続けていますので、どうせならこういった事業を応援したいです。
で、どうした!? そうです、検索したんでした。そこでもう一つの思わぬ資料に出くわしました。『人事興信録』(人事興信所刊/現・興信データ)という人名録です。『日本紳士録』とこの人名録は、明治以降の、人物調査を行う場合の基礎資料だそうです。発行元の人事興信所は、日本初の「興信所=探偵事務所」です。
納税額を基に選別した個人データを掲載してきた『日本紳士録』は、その使命を終えたということで、廃刊されています。一方『人事興信録』は、いまも発行されているそうです。過去の掲載内容から類推すると、個人だけでなく、家族情報、住所・電話番号なども細かく記載されていると思われます。極めて高価な出版物なので、そうそう一般人が目にするものではありませんが、いまも続いているということは、そういった情報を必要とする人たちが、確実に存在する証明なのでしょうね。
『人事興信録』巻頭の凡例がおもしろいので書き写しました。1928年(昭和3)7月発行の第8坂です。( )内は僕の追記です。
◎例言
一、本書採録の標準は日本全國並に海外在住邦人にして
交際社會に名を知られたる紳士と
其家族を網羅するに在るも、
尚ほ知名の人にして脱漏したる紳士もなきを保し難し、
第九版を俟て補足すべし
二、原籍を東京市外に有する人に對しては其原籍役場に向ひ
悉く戸籍謄本の下附申請をなしたるも、
役場の取扱は太だ迅速を缺き
之が爲に編輯締切に間に合はざりしものは
止むを得ず削除せり、之れ亦第九版に俟つものなり
三、實業家に在ては、交詢社出版の日本紳士録、
東京興信所出版の銀行會社要録、
商業興信所出版の全國諸會社役員録、
帝國興信所出版の帝國銀行會社要録を參酌し、
官吏に在ては最新の職員録に據て校訂を加へ、
又戸籍は東京横濱及京阪神は昭和二年四月乃至七月、
其他の地方は同年九月乃至十二月現在なるも、
其後の移動に依り訂正したる者も尠からず
四、本書中別行を以て列記したるは主人、父母、
夫人、嗣子に限りたるも、
二十歳以上の息子と十五歳以上の息女とは
既に交際社會の人なるが故に之を加へたり
五、本書は社交を圓滑にし、
其發達と改善とを圖るを目的とするが故に、
其人の名譽を損ふ虞あるものは、
可成的(かせいてき=できるだけ)之を避けたり、
此れ其詮索調査に於て萬一の差誤あらんことを
恐れたるが爲なるも
明白なる分に限り庶子、私生子を嫡子と區別したり
(中略)
十一、本書は隔年一回改版して誤謬を訂正し、
既に交際社會を退きたる人を除き、新に進みたる人を加へ、
且は採擇地域を擴張し、更に汎く網羅し
苟も漏洩誤脱なきを期すべし
十二、皇室及び皇族は名譽の府にして交際社會の儀表たれば
巻頭に掲げ深厚なる敬意を表す
「本書採録の標準は……交際社會に名を知られたる紳士と其家族を網羅するに在る」=プライバシーも何もあったものじゃないなぁ。「役場の取扱は太だ迅速を缺き……」=お役所仕事は、いつの時代も同じなんですねぇ。「本書は社交を圓滑にし、其發達と改善とを圖るを目的とするが故に……」=よく意味が分かりませんね、このフレーズ。要は「選ばれし〈名士〉のみなさん、お互い身元確認できますぜ。ちゃんと調べて、しかるべき閨閥を築いておくれ」ということですかね。
そのなかでST郎は、以下のように記述されています。ネットで確認できた初出は1928年(昭和3)ですが、ここでは、当時のわが家のフルキャストが登場する1939年(昭和14)の第12版を転載します。同じく( )内は僕の追記です。
◎ヨシユキST郎
土木建築請負業 岡山縣在籍
妻 MR代 明一九、五生、岡山、ナリヒロ・Y造四女
男 A 助 明三九、三生、目白中學出身
婦 AGR 明四○、七生、長男A助妻、岡山、
MT本TK政姉、
美粧師、岡山第一高女出身
男 KN造 明四四、一生、立大豫科出身
婦 TM子 大元(*1)、一生、二男KN造妻、
岡山、OK村TR吉三女(*2)、就實高女出身
岡山縣ヨシユキ新三郎の長男にして明治二年十月出生
同十四年家督を相續す
土木建築業を營み曩に岡山縣多額納税者に列す
【趣味】讀書【宗教】日蓮宗
【家族】尚ほ孫JNN介[大一三、四生、長男A助長男、
麻布中學在學]
同KZ子[昭一○、八生、同長女]あり
【所(得)税】一一四四【營(業収益)税】二一一
[岡山市桶屋町四三【電】二八二二]
『新日本人物大系 産業人物篇』と大枠は同じですが、さすが家族に詳しいです。孫まで追っかけてるし。趣味はいいとして、宗教まで晒されているのは笑える。先述しましたが、いまは〈セレブ〉と称されている一定の層の間では、こういった情報が、なおも珍重されているらしい。立川談志が喝破した落語の本質──人間の、おかしくも哀しい「原初的な〈業〉」──ってヤツに通じる、日本人の宿命なんでしょうね、きっと。
さらに妄想は続きます。
*1 大元:これは誤植です。大元(大正元年)→ 大六(同6年)。5歳も間違えられた母の名譽のためにも。
*2 三女:母は次女のはずなのですが、もしかしたら生後間もなく亡くなった姉がいたのかもしれません。
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■ 【其の10】妄想劇場 ST郎、耐えて忍んで世代交代に成功す
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1889年(明治22)に創刊された『日本紳士録』(交詢社刊)にもST郎は載っていました。ネットで確認できた初出は1927年(昭和2)の第31版。
──東京、大阪、横濱、神戸(西ノ宮市を含む)、
名古屋、福岡の七大都市及其接續郡部に居住する内外名士及び
所得税四拾七圓以上を納むる資産家の氏名、職業、商號、住所、
前記税額及び電話番號を記載し別に
貴衆両院議員、全國多額納税者、
竝びに各地商業會議所議員一覧表を
附録としたり……(以下略)──
と、その凡例にあります。この時点では巻末の「全國多額納税者・岡山縣」欄に1行記載されています(冒頭数字は納税額です/単位:円)。
◎二、一六九 ヨシユキST郎 請負業 岡山市
岡山県の多額納税者が『日本紳士録』本編に採録されるのは1935年(昭和10)の第39版からです。掲載地域は、東京・大阪・京都・神奈川・兵庫・愛知・福岡・静岡・千葉・埼玉・新潟・宮城・石川・奈良・群馬・栃木・岡山・広島の18府県に広がっていました。「内外名士及び第三種所得税五十圓以上又は營業収益七十圓以上を納むる資産家約十七万名の……」という内容です。ネットで確認できた1944年(昭和19)まで、ST郎は掲載されています。
一般的に、昭和初期といまを比較する場合、物価で2000倍、所得で5000倍と言われているようですが、実感が沸かないですね。「47円~50円以上」という基準も、よくわからない。5000倍を信じるなら、ST郎の所得税は1100万円弱ということになる。
岡山県で記載されている184人の60番目、同業者7人中の第4位(*1)。トップは奇しくも同業者の菱川吉衛という人です。
菱川は1844年(弘化元)生まれの、当時84歳。納税額3万3703円。同じ比率で換算すると1億8000万円も納税している。第2位が倉敷の大原美術館をつくったことでも有名な大原孫三郎です。大実業家にして、芸術家のパトロンとしても歴史に名を残す人物を押さえての第1位とは。何で儲けたんでしょうね。興味を惹かれたので調べてみました。近代デジタルライブラリーで検索できた、『岡山縣人物評 第壹編』(1893年:明治26発行/岡山縣人物評發行所刊)という本に出ていました。
これぞ、立志伝中の人でした。岡山県郡部の土地持ちの旧家に生まれながら、不幸にしてそのすべてを失い(誰かの話とそっくりです)、一家で岡山に移住(ここは少し違いますね)。その記載は、ほとんど漢文風の美文調なので、以下に書き下します。かなり乱暴かもしれませんが、ご容赦ください。
──当時一家の不幸は極限に達し、
わずかに残っていた資産は破れた鍋一つというありさま。
(中略)
父は、岡山藩の家老の下僕となることはできたけれども、
その俸碌はわずか年14俵。
その収入で、5人の家族を養うには少なすぎた。
君の衣服はあまりにも粗末で、
町内の悪ガキどもから指差し笑われていたほどだった。
君は、骨身に沁みる屈辱を味わい、
必ず出世して見返してやる!と誓うのであった。
そしてついに、飛騨流の匠(大工)の技を習得し、16歳で独立。
しかし、大工の棟梁として一生を終える気はさらさらなく、
ついには、陸軍から仕事を受注するまでになった。
(中略)
君の運命を変えたのは、廃藩置県後の投機であった。
一攫千金ともいえる利益を得た君は、
名工の中から選りすぐった人材を抜擢して、
岡山県庁建築を成し遂げた。
天神山にそびえ立つその白亜の偉容は、
まったく君の名誉の証である。
君が住まう(岡山市)磨屋町のみならず、
その富は他を圧倒し、
かつて(貧乏人と)蔑んでいた人たちは皆、
君にひれ伏している。(以下略)──
「男子すべからく、逆流不遇を恐るべからず。艱難は幸福の母たるを記憶せよ」と、その記述は結ばれています。
より具体的な話は『岡山県人物月旦』(1918年:大正7発行/岡山新聞社刊)にありました。概略を記します。
──君は18歳で大阪に出て土木建築測量設計を学んだ。
幕末、岡山藩で陸軍局を設置することになったとき、
その技術力を買われて、すべての兵舎建築を受注することになった。
以後、県南の電柱建設、岡山電信郵便局、郡部各郵便局、
岡山県庁、県病院、医学校、師範学校、中学校、
郡役所、警察署、監獄など、
およそ公の建物で君の手がおよんでいない場所はないほどだ。
(中略)
君は、1892年(明治25)市会議員に当選し、
現在は市の参事会員として市政に関与している。
(中略)
君は、熱血の男、強き意志を持つ男、
議場では思い切った強硬論を主張してきた男である。
いまも市の元老として、その発言に耳を貸さない者はいない。
(以下略)──
ボスですね。2冊の本で整合のとれない部分はありますが、それはご愛嬌の範疇。土建の世界だけでなく、いろいろな意味で岡山を牛耳っていた巨魁だったようです。さらに大きな発見。社団法人日本鉄道建設業協会の「日本鉄道請負業史」というサイトに巡り会ったのです。日本の鉄道工事を請け負った主な業者が路線別に記載されている。
ここで、菱川吉衛という人のすごさを知りました。中国地方はもちろん、四国・九州まで、相当数の鉄路建設を受注しています。日本土木/大倉土木組(現・大成建設)、大林組、鹿島組(現・鹿島)といった、現在のスーパーゼネコンと呼ばれる全国区の大手業者と、ガチで勝負しています。
うーむ、想定外でした。紆余曲折はあったにしろ、ST郎は、大正年間には押しも押されもせぬ土建業界のボスに登りつめていたと妄想していました。しかし……、年齢差25歳。28歳で独立してから、働き盛りの30・40代を経て、50代を迎えてもなお、ST郎の眼前には、つねに「菱川吉衛」という大きな壁が立ちはだかっていたということです。
『岡山文庫 58 岡山事物起源』(吉岡三平 編/日本文教出版刊)に「大正所得番附」が掲載されています。日本人は何でも番付にして比較するのが、いまも好きですよね。1924年(大正13)の「(岡山の)一箇年の儲け高を精算したし」と記されています。
東の大関は、当然のごとく菱川吉衛。他を圧倒する17万8900円です。5000倍理論でいうと約9億円(大正年間ですからもっと多額かもしれません)。大相撲で「横綱」が力士の地位として制定されたのは1909年(明治42)のこと。もともと「横綱」というのは、地位ではなく最強の力士に贈られる尊称でした。「大関」は、「横綱」にまだなじみの薄かった大正末期の人たちにとっては、あくまで最高位だったのでしょう。ちなみにST郎は、西前頭二枚目で2万1100円と記載されています。
この番付の前年、1923年(大正12)にST郎一家が桜馬場から移り住んだ桶屋町は、菱川邸のあった磨屋町の隣のブロックです。嗚呼、またまた妄想が!
〈妄想会話〉1922年(大正11)ころ。菱川翁・78歳とST郎・53歳。
「Sよ、そろそろ桜馬場も手狭になっとるんじゃねぇんか?」
「おんてゃあ(ST郎にとっての御大は菱川翁ですね、この場合)、そうなんですらぁ。どこぞ便利なところにえぇ出物でもありゃあ、引越そう思うとるんです」
「桶屋町に手頃な屋敷が売りに出とる。そこにせぇ。ワシの屋敷のすぐそばじゃけぇ、いろいろ都合もええしな」
「へぇ、ほんならいっぺん見てみますらぁ」
1922年(大正11)は、ST郎が創設されたばかりの岡山県土木建築業組合の組合長に就任した年。新時代を迎える業界のリーダーは誰なのか。ST郎は、巨大な旧勢力と巧く折り合いをつけながら、その立場を禅譲された。
ヨシユキ組が土木専業である理由も、なんとなくわかった気がします。上もの(建築)は菱川翁が押さえていて、食い込む余地がまるでなかった。ST郎は、旧勢力との無益な軋轢を避け、組としての独自性を打ち出すためにも、土木を極めた方が合理的と考えた。菱川翁の鉄道建設事業の背後には、必ずST郎がいたはずです。実務はヨシユキ組が取り仕切っていた。名を捨てて実を取る。そして静かに力を蓄えていった。
「此間四國九州は勿論遠く朝鮮北清方面に迄驥足を展べ特に鐵道工事を得意とし……」という『新日本人物大系 産業人物篇』の記述にも符合する。妄想がすぎるでしょうか。
同書に「性剛健濶達にして思慮周密而も任侠に富み……」と評されたST郎の面目躍如、というより、ST郎の苦労が偲ばれます。明るさを失うことなく、ときには周囲を驚かせる男気を見せ、細やかに気を遣い続けて世代交代を成功させた。独立してから27年がすぎていました。
何も語らなかったST郎をいま、不肖の孫が妄想する。「因果は巡る」ってやつかもしれません。しかし、我慢の人だったのですねぇ、ST郎は……など言いつつ、話は続きます。
*1 第4位:菱川吉衛に続く同業者第2位は西山和三郎。岡山県北部を基盤として、山陰線等の建設に大きく関わっています。第3位は、岡山県南の郡部を基盤とする藤原槌松。こちらは、九州の鉄道建設に名を残しています。ST郎と菱川吉衛はともに岡山市に本拠を持ち、いろいろな意味で深い関係性を持たざるを得なかったと思われます。
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【其の11】妄想劇場 ST郎、凱旋の証を残す
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「ST郎お祖父さんは、『これはワシが造ったんじゃ、やったんじゃ!』いうようなことは、まったく言わん人じゃった」
またまた、母の述懐です。
語らない男の仕事。ST郎のメモリアルが、わずかに残されています。その一つ目。
「ぜぇんぶヨシユキの土地じゃ」と、ST郎が周囲を見渡して独り言ちたという草生の墓。国道53号線を岡山から北上し、御津警察署(現・岡山北警察署)をすぎたあたりの、左側の山の中腹に見えるのがそれです。草生の用水際の道から見上げたところに、その墓はあります。田圃のあぜ道を抜けた石ころだらけの急坂(*1)の途中にある、小体な山城のような石垣と白壁なのですぐわかります。
余談ですが、阪神淡路大震災で山陽新幹線が不通になったとき、大嫌いな飛行機で帰省したことがあります。山肌を切り開いた新・岡山空港を使った唯一の体験です。羽田からわずか1時間弱。着陸態勢に入った機体が右に大きく旋回・下降すると、どんどん山が、道が、町が迫ってきます。たまたま、右側の窓際の席にいました。
なんか、見たことのある風景だと思いました。あれッ!? 草生じゃないの? そうだよ、あれは旭川だよ。わッ、見える! お墓だ! えっ、ウソでしょ!? でも、確かに見えたんです。
先祖たちの墓石が並ぶ場所に、ST郎が、一族をまとめて祀るための先祖墓を建立したのは1916年(大正5)のこと。小城のような墓というと、成金趣味の極致みたいな印象を持たれるかもしれませんが、実物はかなりシブいです。【其の6】で「(ST郎の)強烈な自負心の表明として造った」と書きました。草生への凱旋(=父親が失った土地の復活)を記憶するために、土木屋として積み上げてきた技術のすべてを注ぎ込んだのでしょう。執念のようなものを感じます。
再度、身びいきのそしりを畏れず書きます。その姿は美しい。山肌を鋭角に縁どる石垣がとくに美しい。まもなく100年を経る建造物です。地震か豪雨のためと思われる、ほんのわずかな亀裂が認められる部分を除けば、組み上げた石に隙間がないのです。
石の組み方は、戦国時代末期以降の城郭に見られる、「切込接」という技法だと思います。いくつかのサイトから得た〈付け焼き刃〉によれば、積み石を加工して隙間をなくした積み方です。「石の表面をノミで削って平らにする場合がある」そうで、納得できるところがあります。削り磨きあげたであろう石は、いまなお見事に密着しています。
「加工が大変なためか、目立つ(見せたい)場所に限定的に使われることがことが多い」、「石垣本来の機能には関係のない装飾である。切込ハギは権威の象徴としての石垣なのである」、「高い技術力と財力が必要」という記述もありました。
石垣はなおも堅固。墓を囲む曲輪(壁)も塗り替えたかのように白い。ただ、白壁と瓦が破損している部分があります。ST郎の精華ともいえる墓の疵に、不肖の孫はなす術(財力)がない。これを元に戻す技術は、いまや失われつつあるのでは?……と、負け惜しみを言うしかないわけです。お察しくださいませ。
「ヨシユキの人間は、みぃんな(皆)ここへ入りゃぁええんじゃ」とも、ST郎は言っていたそうです。なので、昭和以降の物故者は全員そこに入っている。
凱旋の証はこれで残せた。妻や子どもたち、まだ見ぬ孫たちや一族の終の住処も確保できた。しかし、達成感と満足感に水をさす、いやな予感、不安がありました。
(これがヨシユキの血なんか!? ワシがやっとることは、意味があるんじゃろうか!?)
大げさにいうと、そんな気分だったと思います。ST郎の不安の種、跡継ぎになるはずの男の子たちの話は、少し整理してから書きます。僕の伯父と父です。
またまた余談です。
わが家の墓から少し奥まったところ。TK原のおじいちゃんの家の墓をすぎた、わずかなアップダウンを経た、竹林のぼっかり開いた6帖ほどの空間に、小さな、夫婦と思われる、2基の苔むした墓があります。
「大切なご先祖様じゃから、必ず参らんといけんよ」
子どものころから母に言われてきたので、墓参りの折りには必ず線香と花を手向けています。それが誰なのか、なぜ二人だけ一族と離れた場所に葬られているのか、なにも手がかりはありません。工事中に、相当古いと思われる早桶が掘り出されたという話も伝わっています。
「大けな、相撲取りみてゃあなお骨じゃった」
確かTK原のおじいちゃんが、そう言っていたように記憶しています。手厚く葬ったそうですが、それが誰なのか、当然わかりません。またまた「因果は巡る」って感じがします。
*1 石ころだらけの急坂:1997年(平成9)ST郎の長男A助の妻をモデルにしたNHKの連続テレビ小説が人気を呼び、大勢の方々が墓を訪れるようになったため、当時の御津町がセメントで整地してくれました。いまはずいぶん登りやすくなっています。
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【其の12】妄想劇場 ST郎、地下道に挑む
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1891年(明治24)の山陽鉄道開業以来の、木造の岡山駅舎が全面改築されたのは、1926年(大正15)です。鉄筋コンクリートの最新建築でした。『岡山文庫124 目でみる岡山の大正』(蓬郷巌 監修/日本文教出版)から引用します。
──(前略)中央大ホールの左側に一・二等待合室と三等待合室、
その奥の広いWC(便所)は水洗式で、これは岡山で最初のもの。
大ホールの右側は出札口で、その奥がビヤホール。
当時はまだ人力車時代で、客待ちの人力車が蝟集していて、
客の奪い合いもよくあり、
客を前にして車夫同志がジャンケンで決める姿も見られた。
(以下略)──
当時の岡山駅は、営業収益全国21位、旅客人数33位。大都市の駅と比しても、相当な鉄道拠点だったことがわかります。この駅舎は、僕も懐かしい。子どものころからずいぶん使いました。駅舎に入ると、大きな吹き抜けの空間にまず圧倒された。外国の駅を彷彿させる、クラシックな(*1)よい駅でした。1972年(昭和47)、再度の大改修工事中のそこを通って受験で東京に向かったのが、最後の利用でした。
電車急行「鷲羽」で新大阪へ約2時間。〈夢の超特急〉東海道新幹線の「ひかり」に乗り換えて3時間30分。受験中の2カ月間あまり、東京の親戚宅で居候を決めこみました。全敗でした。「浪人」確定です。暢気なもので、岡山への帰路は、かなり高揚していました。新幹線が岡山まで延伸(*2)していたのです。東京発の「ひかり」がそのまま岡山に至る。確か4時間10分だったと思います。行きと帰りで1時間20分の短縮。これは、感動ものでした(いまの「のぞみ」なら3時間15分。いや速くなったものです)。
帰り着いた岡山駅は、当時プロトタイプだった、没個性の、駅名がなければどこなのかわからない「新幹線駅」となっていましたが。
〈テツ〉の皆さんには及ぶべくもないのですが、僕も鉄道は大好きです。ST郎から父を経て、鉄道省〜国鉄(日本国有鉄道/現・JR)に寄り添って生きてきた業なのかもしれません。
ST郎はどうなった!? そうでした。大正の駅舎改築に、彼はなにを残したのか。
「岡山驛改築工事に伴ふ地下道及築地工事を始めとし……」と、『新日本人物大系 産業人物篇』には書かれています。〈気働き〉の限りをつくして土建業界をまとめることになったST郎は、ここでも一歩引いて、土木屋ならではの、見えにくいところに実績を残しています。
岡山駅は、山陽新幹線、山陽本線、赤穂線、伯備線、瀬戸大橋線/宇野線、津山線、吉備線が運行しています。とくに、首都圏・関西・九州方面から、飛行機以外でもっとも速く鳥取・島根、四国各県へ向かうことができる鉄道の起点です。
高架の新幹線(4ホーム)を除く在来線(10ホーム)は、実は大正の改築から同じ地下通路で、いまも結ばれています。これがST郎の仕事です。
大正末年に地下道でホームを結ぶというは、大都市圏を除くと、例は少ないと思っています。ふつうは、ホームをまたぐ通路を造るはずです。昔もいまも岡山駅に跨線通路はあります。地面と鉄路と停車する車両の荷重を勘案すれば、跨線通路の方がぜったいお得だし造りやすいです。なぜ、地下通路を造ろうとしたのか。誰の発案なのか。
ほぼ同時期に、初めての地下鉄、東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の建設が進んでいました。開業は1927年(昭和2)。浅草〜上野間、わずか5分間の運行に、2時間待ちの行列ができたそうです。「大正ロマン」なんて、またまた的外れなことを口走ってしまいますが、なんかそんな気分。土木建築のトレンドが地下に向かいはじめていた。その流れに岡山駅も乗ったのではないでしょうか。誰も手をつけていない先進の技術を試すことができるのです。ST郎は燃えたと思います。
先進の外来文化・思想・技術をどん欲に取り入れ、換骨奪胎してたちまち大衆化する。いまも昔も変わらない日本人の特質ですよね。パクス・シニカ(中華思想)、パクス・ロマーナ、パクス・ブリタニカ、そして後年のパクス・アメリカーナといった、世界秩序の主導者にはなれないけれども、その端っこで、つねに何かをせずにはいられない。
独楽鼠。間寛平師のギャグ「止まると死ぬんじゃ!」そのものですね。ピンからキリまで、ごちゃまぜの意識が絶えず寄せくる極東の吹きだまり、日本の因果なのでしょう。
大正という時代は、わずか15年の間に、それまでに日本人が経験したことのない自由な空気と、得体の知れない不安をもたらしました。社会資本の充実と都市の発達、デモクラシーへの希望、混沌として奔放な大衆文化の開花、第一次世界大戦による経済バブル(戦争成金の大量出現)に世は浮き立った。しかし一方で、バブルに取り残された地方・農村の疲弊が招いた米騒動、バブルに冷水を浴びせた関東大震災、そしてバブルにとどめを刺す世界恐慌の嵐が間近に迫っていた。
明と暗。経済崩壊、未成熟で歪んだ社会へのアンチテーゼである社会主義運動・プロレタリア文学の勃興などの新たな動きを抱えながら、日本は昭和を迎えることになります。
「わかったような、詮無き話はえぇかげんにせぇ!」。ST郎にまたまた叱られそうです。鉄道に育てられた彼にとっての禁句であろう浅薄な「脱線」はここまで。すべて「(日本人は)キョロキョロしている」と喝破した内田樹著の『日本辺境論』(新潮選書)からの受け売りでございます。
ST郎が請け負った地下道は、いまは「在来線地下コンコース」と呼ばれています。岡山駅の地下街から在来線構内に入る「地下改札」がその地下道の入り口です。穴をあけるだけで、地下からの在来線アクセスが完成した! この事態を予測できるはずもないですが、ST郎は「そうじゃろう、そうじゃろう」と、泉下で頷いていることでしょう。
大正規格で造られているので、高さは少し窮屈な印象ですが、幅は朝夕のラッシュ時でも、相当数の人が行き来できる十分以上の広さが確保してあります。その光景、そこはかとなく湿った地下道独特の空気は、僕の子どものころからまったく変わっていません。改修された形跡がないのです。違っているのは、両側の壁に掲げられた広告だけ。おそらく、造られた大正時代とほぼ同じ状態だと思います。
堅牢無比。
(えぇ仕事したんじゃなぁ)
ST郎に讃辞を贈る身びいきな孫。……てなわけで、もう一つの大仕事は次章に。
*1 クラシックな:交通新聞社のWEBサイト『Train Journey トレたび』の「後世に伝え、残したい 名駅舎コレクション PART1 ─小樽駅─」に、当時の岡山駅に触れた記載がありました。──(前略)大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で多くの建物が被災したのを契機に、日本では世界に先駆けて耐震設計が法規上に採り入れられました。駅舎も例外ではありません。それまでのレンガや石に替わって、耐震に優れた「鉄筋コンクリート」が多用されるようになったのです。そんな時代に建設された小樽駅も重厚な鉄筋コンクリート造り。正面から見て凸型の外観は、上野駅や岡山駅(2代目)、中国の大連駅など、同時期に建設された駅舎とも似たデザインになっています。(以下略)──
*2 新幹線が岡山まで延伸:1972年(昭和47)3月15日、新大阪〜岡山間の山陽新幹線が開通しました。
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【其の13】妄想劇場 ST郎、洪水に見舞われる(前置き)
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岡山県は東西・南北とも100キロ弱のほぼ箱形です。狭いと思っていたのですが、都道府県でいうと17位の広さだそうです(70%は山だそうですが)。
広いといえば北海道。初めて訪れたときには、あまりの広さ、とらえどころのなさに恐怖すら覚えました。
情けない話ですが、瀬戸内で育った〈へたれ〉そのものです。鉄道でもクルマでも、30分も北へ走れば山が迫ってくる。山といっても急峻な山岳地帯ではありません。椀を伏せたような小山の連なりです。南といえば、穏やかな波が寄せ来る瀬戸内海です。チャプチャプ(*1)っていう感覚。内海を飾る美しい島々と四国の山並みがどこからでも見える。実に安心です。
なので、いい歳をして、大山脈と大海に弱い。眼前に迫り来る山塊を見ると押しつぶされそうな畏怖感を感じるし、太平洋はもちろん、日本海の大きさにも、相当ビビります。桂浜の荒波に対峙し「海の向こうはアメリカぜよ!」などと、土佐人(=竜馬)のように気宇壮大な想いを馳せるなどもってのほか。越後平野の、豊穣そのものの、果てなどないかのように広がる水田に愕然とした覚えもあります。大スケールに弱いのです。
箱庭人。そういう精神構造なのです、きっと。
僕が〈広さ〉のスケールにたじろがない光景といえば、東海道・山陽新幹線の道程です。
茫漠として家並が途切れない関東平野。丹那の長いトンネルをすぎ、畏怖の極致・富士を右に見ると、やがて古代から人・物産が集積・交錯してきた濃尾平野が広がる。関ヶ原から伊吹山を経れば、琵琶の湖に育まれた近江盆地。東に生駒山系を望み西の瀬戸内海に開かれた大阪平野は瞬く間。六甲の、またも長いトンネルをくぐり、淡路を臨む播州平野をひた走り、兵庫県と岡山県の境をなす小山たちのトンネルをくぐると、岡山平野が現れます。
何度往復したかわからないこの連続する風景は、〈へたれ〉の僕にも心地良い。どうもチマチマ・ゴチャゴチャと、人が群れ集う様子が窺えると安心するようです。
たびたびの閑話休題。明後日方向の話を、巻き戻しましょう。
岡山平野の話です。地勢図を見ると、この平野は中国地方では最大の広さです。概要を調べようとして、Wikipediaiにとんでもない記述があるのを知りました。
──岡山平野は岡山三大河川と呼ばれる高梁川(岡山県西部)、
旭川(中央部)、吉井川(東部)を中心に、笹ヶ瀬川、
砂川、足守川等の河川の運搬・堆積作用により形成された
典型的な沖積平野である。
(中略)
古代、現在の岡山県南部は「吉備の穴海」と呼ばれていたほど、
瀬戸内海が広く湾入していたが、
度重なる洪水により次第に土砂が堆積し、
さらに中世から近代にかけて
大規模な干拓事業による新田開発が行われ、
海に浮かんでいた島々は平野の中の小高い山へと姿を変えた。
また、現在の児島半島は「児島」と呼ばれる島であったが、
16世紀から17世紀頃に前述の干拓により陸繋島となり、
児島湾が形成された。
現在の岡山平野の耕地面積約2万5000haのうち、
約2万haが干拓によるものである。
(以下略)──
干拓で島を平野に呑み込んでいった。昔の人はすごいことをやったんですねぇ。でもポイントは「(3大河川の)度重なる洪水により次第に土砂が堆積し……」という記載です。わずか15〜20キロの間隔で、一級河川が3本並行している。ただ、岡山県南部は雨の少ない地域として知られています。集中豪雨をもたらす大きな要因である台風は、真南に位置する2000メートル級の四国山脈に遮られて、岡山を直撃したという話を聞いたことがない。問題は北側。小山のつながりである吉備高原とその先に横たわる中国山地にあります。
温暖化で様子は変わりつつあるのでしょうが、中国山地に抱かれた岡山県北部は豪雪地帯として知られていました。鳥取県米子市出身の知人から聴いた話が印象に残っています。(飛行機便以外で)東京に戻るのには、伯備線で岡山に出て新幹線に乗り換えるのがもっとも速い。正月休みの思い出。
「電車は延々と吹き荒れる雪の中を進むんです。でも「高梁」(たかはし/高梁市)をすぎてしばらくすると、ぱぁっと青空が広がる。その先は、雪なんか、これっぽっちもないんです。ウソみたいな変わり方なんですよ」
「トンネルを抜けると……」とは逆ですが、これも日本ですよね。狭くて急峻な国土だからこその、劇的な気候変化です。
とまれ、中国山地の膨大な雪解け水が、岡山平野の、隣接した3本の河川に集中して流れ下るわけです。雨が少ないのに洪水にみまわれる。そういえば、この3河川の渇水という話も記憶にありません。ということは、ちょっとした気候のいたずら、変動で、いつでも川は暴れる用意があるということです。
おぃおぃ、ST郎の話はどこいった! 話がまったくよれてしまいました。
*1 チャプチャプ:瀬戸内海は羊の皮をかぶった狼です。一見「のたりのたり」とした海面下では、急な海流が複雑に交錯して行き交う船を翻弄する。想像を絶する難所だそうです。
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【其の14】妄想劇場 ST郎、洪水復興に奮い立つ
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ST郎が、金川にもうひとつの足跡を残す要因となった非常事態が、1934年(昭和9)に起こりました。
以降、出典が『金川町史』(*1)、『御津町史』(*2)とあるのは、僕の不躾な問合せに対する、岡山市北区役所御津支所のO・Hさんからの丁寧な資料回答によるものです。この場を借りて御礼申し上げます。また、引用が相当なボリュームになることも、予めお断りしておきます。
同年9月、岡山は記録的な大洪水に見舞われます。16〜21日にかけて襲い来た激甚暴風雨によるものでした。高知に上陸後、進路を大阪湾に向けて猛威をふるった室戸台風。中心気圧911・6ヘクトパスカル、室戸岬で最大瞬間風速60メートル/秒を記録したという、歴史的なメガ台風が中国地方にも甚大な被害を及ぼしたのです。9月21日に直撃を受けた大阪は、2メートルを超える高潮が発生し、高台である大阪城付近まで冠水。コンクリート建造物以外の町家の多くが倒壊流失、大阪湾一帯の溺死者は推定1900名以上という大惨事(*3)となりました。
『金川町史』から引用します。追記した(……m)、[……mm]以外は原文ママです。
──過去幾多の水害史の中で
昭和九年ほど甚大な被害を受けた事は無い。
(中略)
この時関西を襲った颱風は室戸颱風と呼ばれて
史上最大の記録とされている。
暴風の秒速は最高六十米(60m)に達した。
中心地の大阪・京都並に堺等は三、四十米で
凡ゆる文化的施設を全滅した。
満潮時の高潮のため海水が市中にあふれ空前の大惨事となった。
岡山県特に北部美作の降雨は十六日から二十一日まで五日間で
南部沿海方面の半ケ年分の雨量だといわれている。
勝山は二十一日午前一時頃から約一時間
盆を覆すような豪雨となって三時からは烈風となった。
作州(美作地域)一円にわたって豪雨が襲ったので
旭川はたちまち増水してきた。
(五日間の平均降雨量は二八○・二粍[mm]、
高梁川流域一六○粍、吉井川流域一四八・六粍である)
放送局からも警報が発せられた。
二十一日午前四時頃には増水して四米となり、
同六時及七時には五米五の最高位に達した。
これより前金川方面にも五時頃警鐘が打たれた。
(以下略)──
この話は母からよく聴かされていました。
「旭川があふれてなぁ、三番町(母の実家がある岡山市中心部)も腰あたりまで水が来たんよ」
岡山訛りで言うと、のんびりした感じになりますよね。当時母は17歳。女学校を卒業し、わが家への嫁入りを控えていた頃です。学生時代、バスケットボールに熱中していたという母は、当時の女性としては大柄な身長160cm弱。その腰位置まで水が押し寄せた。大変な被害だったようです。
江戸時代初期、たびたび洪水に見舞われた岡山藩は、旭川に大規模な緊急時放水路を掘削築造しました。工事を命じたのは【其の4】でヨシユキ右兵衛景知が仕官した殿様・池田光政です。堤防を含めた幅が約180メートル(=約100間)あったことから「百間川」(*4)と呼ばれています。ちなみに、岡山市出身の作家・内田百閒の「百閒」はこの放水路から取られています。
水門を開いて百間川に放水したにもかかわらず、各所で堤防が決壊し、濁流は岡山市中心部に一気に流れ込みました。旭川を外堀とする岡山城付近、丸之内1丁目では「東京湾中等水位(平均海水面上)7・5m/路面よりの高さ2・9m」(*5)という最高水位が記録として残っています。すべてが呑み込まれました。
金川の状況はどうだったのでしょうか。『金川町史』に転載されている『昭和九年風水害史』(*筆者注:『昭和九年風水害誌』[岡山県 編纂]。以下、『……水害誌』と記載)から引用します。筆者注記以外は原文ママです。
──『昭和九年風水害誌』(岡山県出版)によれば
「『御津郡金川町』二十一日午前九時頃より
宇甘川・旭川共に増水、
同十一時に至り最高潮に達し、警察署、郵便局、銀行、
中学校、町役場は凡そ床上一米半の浸水、
燐寸工場、農業倉庫、煙草倉庫等主要の建物は流失、
津山街道の観波橋、金川大橋は墜落、
南新町、東町は全部浸水したが、
その総数三百六十四戸、流失四十七戸、
倒壊四十一戸半倒壊百四十二戸である。
尚ほ午後六時五十分中国鉄道金川駅に延着した上り列車は
線路不通のため、同駅停車し、乗客は車中にて一夜を明かした。」
(以下略)──
こちらも全滅状態です。続く、『金川町史』「災禍直後の状況」の概略を記します。
──22日午後7時30分、岡山放送局による
風水害被害状況(同日午前3時現在)放送。
交通・通信が途絶しているため詳細は不明だが、
現在判明している20日以降の暴風雨による岡山県下の被害は、
橋梁の流失127、家屋倒壊836棟、家屋流失305戸、
浸水家屋3万1833戸、死者40名、負傷者51名、
行方不明者66名。被害激甚地域は、
岡山市、津山市、(中略)御津郡金川町、赤磐郡五城村、
(中略)
光政村、金田村など。これらの地域は浸水がとくに激しく、
現在、炊き出しなどの懸命な救援活動が行われている。
新見、成羽方面は未だ消息不明。
(以下略)──
翌23日、多久安信岡山県知事は岡山放送局から「未曾有の災害に際して県民各位に告ぐ」という、緊急放送を行いました。「二次災害に備え、災禍から一日も早く立ち直ろう」と呼びかける内容だったようです。全国から救援の手が差し伸べられた。同書が刊行された1954年(昭和29)当時も「その感謝の念は、金川の人たちから失われていなかった」とも記されています。
26日には天皇が小出英経侍従を岡山に差し向け、県会議事堂で天皇の聖旨伝達。侍従は、岡山市内の被害状況を視察した後、金川まで足を伸ばしたそうです。同書に転載されている『昭和九年風水害誌』にその様子が記述されています。追記した( )内以外は原文ママです。
──中国鉄道金川駅前大橋下手の川原に自動車を停む、
町の中心地へ渡る観波橋の墜落によって、
川原から川原へ板子を架けて
僅か(わずか)に東西の連絡を保っている。
(中略)
侍従は直ちに金川小学校に避難した二十余家族を慰問の後、
東町通りから旭川河原に歩を運ばせられた。
この地一帯の家屋は悉く(ことごとく)倒壊して、
道路は二、三尺(60〜90cm)の泥沼と化し、
東方赤磐郡へ通じた大橋は流失して其の痕跡すらない。
出水の日対岸に在った倉庫の屋根に避難した八名が、
倉庫共に濁流に呑まれたという悲惨時をきかれて、
暫く声も出されなかった。──
茫然自失。すべてを呑み込んだ泥海とがれきの山、肉親を奪った理不尽を前にして、人々はただ立ち尽くすしかなかったでしょう。しかし、災厄にくじけることなく、人は自分の手の届く範囲から前に進もうとする。不思議ですね、いつの時代も。
災害復旧・復興は土建屋の出番でした。ST郎は奮い立ったと思います。ゆかり深い金川の、人々の生活の根本を支える交通インフラ、橋の架橋を請け負ったのです。
*1 『金川町史』:1957年(昭和32)/板津謙六 著/金川町史編集委員会 刊
*2 『御津町史』:1985年(昭和60)/御津町史編纂委員会 編
*3 大惨事:「室戸台風」の規模、被害状況数字などはWikipediaからの編集引用です。
*4 百間川:岡山市安全・安心ネットワーク推進室の「市民情報化サイト」の「幡多学区電子町内会」ページによれば、100間の広さになったのは1814年(文化11)の、我が国初の流量計算による改修補強工事によるものだそうです。1926年(大正15)に大改修が行われましたが、昭和9年の大水害には耐えられなかった。戦後は建設省(現・国土交通省)によって何度か改修工事が行われ、いまは緊急放水路として立派に機能しています。同サイトから引用します。──最近では、平成18年7月18日の大雨で旭川が増水し、百間川に放水したが、水量は堤防の中の段までしか達しなかった。また、百間川に12本の橋が架かっていることから、市民の生活には影響が出なかった。──
*5 「東京湾中等水位(平均海水面上)7・5m/路面よりの高さ2・9m」:就実高等学校放送文化部が調査・執筆し、第7回日本水大賞【審査部会特別賞】(2005年)を受賞したレポート『昭和9年の室戸台風による洪水時の最高水位標識の保存運動』による。
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【其の15】妄想劇場 ST郎、名実ともに「御大」となる
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【其の6】で、1881年(明治14)頃に、旭川を挟む金川と赤坂郡(現・赤磐市)間に橋が架かっていたかどうかわからないと書きました。それが、前回記した、岡山市北区役所御津支所のO・Hさんからの丁寧な資料回答で氷解しました。
ST郎が、当時の小学校上等科の学齢当時、橋は架かっていなかったのです。
草生・金川は、中国山地に源を発する旭川が、大きく蛇行しながら岡山平野に流れ下る、最後の山越えの入り口にあたります。
『御津町史』から引用します(原文ママ)。
──第4節 交通・運輸・通信(2)橋梁旭川の橋
(中略)
◎金川大橋(県道御津佐伯線)
初めて橋が架けられたのは明治四十五年四月である。
それまでは舟渡しであった。
この橋は杉の長丸太の橋桁に
杉の三寸板を横に打ちつけた木橋であった。
大正五年の洪水で流失、八年九月復旧。今度は土橋になった。
金川の旅館が衰微すると言って関係者が復旧に反対したという話が
『金川町史』にあるのがこの時のことである。
三代目は洪水で壊れ部分的に補修していたものを
大正末期か昭和初期ごろ全面的に架け換えた。
土橋であった。
(以下略)──
明治末年まで、渡し船で行き来していた。やっぱりそうだったんだ。砂州を含めた川幅約200メートル。昔の人はそこへ、木橋や土橋(*1)を架けた。そして、洪水で流失するたび毎に架け換えていたのです。
1934年(昭和9)9月21日、空前絶後の暴風雨をもたらした室戸台風は、またも、あっけなく橋を崩落させました。失礼ながら、資料を送っていただいたO・Hさんのメールの一部を転載します。
──昭和12年に架け替えられた金川大橋は、
永久橋として「ヨシユキ組」が施工したとのことです。
(草生に在住されていた方(故人)の父が
ヨシユキ組の大番頭をしていて金川大橋を作った
と言うことを以前に聞いたことがあります。)
(以下略)──
幼い頃、母から「この橋はST郎お祖父さんがつくったんよ」と聞かされていました。親子ほども歳の離れた、小説家である僕の従兄のエッセイにも「金川大橋はヨシユキ組が造った……」という記述があります。でもなぜか確信がありませんでした。ようやく、モヤモヤが晴れた気がします。
「草生に在住されていた方(故人)の父がヨシユキ組の大番頭をしていて……」の「父」というのは、本稿に何度か登場しているTK原のおじいちゃん(TK原MS治さん)です。実は、O・Hさんとのメールのやり取りから、岡山市の職員をなさっているTK原MS治さんの実のお孫さんとメールを交換することになりました。思わぬ出会いがある。ネットはすごい、と、あらためて思っています。
「金川大橋」は1982年(昭和57)、ST郎が架橋した場所から約70m上流に架け替えられています。
もう一度同書から引用します(原文ママ)。
──昭和九年九月の大洪水で流失したので十二年四月に架換。
全長二一一メートル、幅員四・五メートルの鉄製釣橋で、
当時としては第一級の長大橋であった。
工費一一万四○○○円余。四十六年六月、
歩道橋を併設したがもはや時世に合わず
(以下略)──
水害から2年7カ月かけて、ST郎は、竣工当時「永久橋」と讃えられた鉄橋を架けました。しかし、昭和末年の架け替えは時代の要請でした。交通量の急激な増大に、幅員4・5メートルは耐えられなかったのです。いまの橋は幅員8メートル。同書には「鉄製釣橋」とされていますが、記憶している形状は、鉄骨をW字形でつなぐ「ワーレントラス式」と呼ばれる橋だったと思います。
喫緊の課題は交通路を回復すること。身にしみるメガ災禍を受けて、今後の事態に立ち向かえるだけのインフラを早急に再構築すること。しかし、岡山県の多くの部分に及んだ被害の復興予算は限られていた。ST郎は、儲けはともあれ、生まれ故郷に、後世に残るものが造りたかった。【其の12】に書いた、大正初年にST郎が請負った岡山駅地下通路は、21世紀のいまも、立派に機能しています。でもそれは、上げ潮の、潤沢な予算があればこその結果だったんでしょうね。
(どうせなら、100年使えるもん、人や物資が十二分に行き来できるもんを造った方がええ!)
またも妄想です。ST郎の挑戦的で楽観的なオーバースペック構想は、おそらく認められなかった。「(分相応の)最小構成で、速やかに堅牢な橋を築造せよ」。御上のお達しは、そんなところだったと思います。「永久」であるはずの橋は、半世紀弱でその使命を終えることになりました。
金川にはもうひとつ、ST郎が残したと思われる橋があります。同書から引用します(原文ママ)。
──◎観波橋(国道五三号線)
古くから架かっていて備南と備北、
美作を連絡する重要な橋であった。
大正五年洪水のため流失、同年架換。
全長三二間(五八メートル)、幅員三間(五・五メートル)で
土橋であった。
昭和九年九月流失。昭和十年六月新観波橋着工十一年六月竣工。
全長八四メートル、幅員六・五メートル、
鉄筋コンクリート橋、工費四万四○○○円。
基礎強固で積載力強大、橋面も広く、
各種の装置が整っていて当時としては珍しく立派な橋であった。
竣工式には多久安信知事を始め招待者一三八名に及び、
つづいて行われた渡橋式には
金川小学校児童も全員参加した。後、餅まきがあった。──
金川と草生の間を流れ旭川に注ぐ、宇甘川に架かる観波橋。よい名前ですね。しかし、ここも近年架け替えられています。名前も「新観波橋」と変わり、延長133メートル・幅員12・5メートル(*2)という立派な橋に生まれ変わっています。
橋にまつわる歴史・文化・統計資料などを広く集めた『小さな橋の博物館』というサイトがあります。そのなかの連載シリーズ「岡山の橋」に「ヨシユキ組の架けた橋」という一項があり、「ヨシユキ組は、旭川や吉井川筋の橋梁建設に携わり、金川大橋や観波橋(ともに御津町)などをつくった。」と記載されていました。どれだけの橋に関わったかはわかりませんが、鉄道敷設と並んで、ST郎が橋梁を得意分野としていたことは、なんとなく想像できます。
金川大橋が完工した1937年(昭和12)、ST郎は68歳になっていました。
同年は、世界中が嫌な予感で満たされました。ナチス空軍によるバスク(スペイン)・ゲルニカへの史上初の無差別絨毯爆撃(4月)、巨大飛行船ヒンデンブルク号の謎の爆発事故(5月)、第一次近衛内閣成立と日中戦争の勃発(6〜7月)、日独伊防共協定成立(11月)、日本軍による南京城占領と歴史の闇にいまも沈む南京事件(12月〜)。後戻りできない辛い現実。歴史はひたすらにリアルで残酷です。
しかし日本は、大国米英への対抗軸としての国際同盟成立と、徹底した情報統制による、中国での戦捷報告に沸いていました。この流れがもたらした結末を知っているだけに、なんかやるせないですね。
「ジャズで踊ってリキュルで更けて……」
1929年(昭和4)の大ヒット曲『東京行進曲』(西条八十 作詞/中山晋平 作曲)の一節。軍靴の足音が次第に大きくなりつつあった一方で、この歌に代表されるトレンド、アメリカナイズを基軸とした近代化を、当時の日本人は喜んで受け入れていました。しかし、アジアに膨張、権益を確保しようとしていた日本の前に立ちはだかったのは、そのアメリカでした。憧れが大きかっただけに、その失望感は深く重かった。「好きだけど嫌い」。アンビバレントっていうやつですね。その重苦しい空気が対米開戦への大きな要因の一つだった、など言うのは、またまた妄想がすぎるでしょうか。
1930年(昭和5)頃から太平洋戦争が始まる頃までの約10年間が、ST郎の絶頂期だったと思っています。ヒントは昭和5年発行の『日本紳士録・第34版』にあります。
それまで、岡山県の多額納税者のトップに君臨してきた菱川吉衛翁の名前が消えているのです。先にも記しましたが、土建業界はおろか、岡山の政財界を影で支配していたと思われる巨魁です。亡くなったのでしょう。他界したのが同書発行前年の1929年(昭和4)としても84歳。大往生ですね。
土木業者として独立してから30年あまり。つねに眼前にそびえていた、超えがたい壁が、ついになくなりました。喪失感と高揚感(これもまたアンビバレントというやつなのでしょうが)。ST郎は複雑な思いにとらわれつつも、名実ともに、岡山の土建業界の「御大」になったのです。
*1 土橋:Wikipediaから引用します。──土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には木の橋の一種で、橋面に土をかけてならした橋である。(中略)丸太を隙間なく並べて橋面を作った場合、橋面が凹凸になる。そのままでは歩きにくいので、そこに土をかけて踏み固めると、へこんだ部分に土が詰まって平らになる。これが土橋である。江戸時代まで日本の川にかかる橋の圧倒多数は土橋で、かなり長い橋もこの方式で作られた。(以下略)──
*2 延長133メートル・幅員12・5メートル:2002年(平成14)岡山県の統計資料による(国土交通省管理)。
(「御大」壱 ヨシユキST郎 了)