第九話 本能に学ぶ
魔力の『魔』の字も分からない私が、自分の体を構成するそれを操作できるようになるなんて、どれだけの時間がかかるのだろう…
…なんて思っていたのだけれど、いざ蓋を開けてみると、ふとした『気付き』で随分とあっさり解決できる問題だった。
というか問題ですらなかった。
スライムを観察してから数日の間、私はどうにかこうにか自分の魔力とやらを感じ取ることができないかと、地中の核や触手の先に意識を集中してみたり、右に左に触手を怪しく蠢かせてみたり、とりあえず色々とアクションを起こしてみた。が、特にこれといった手応えもなく、結局その数日間は、私が変な動きをする度にセレナがだらしない笑みを浮かべながら喜んでいたこと以外は、全く無為に時間を消費する結果となってしまった。
その事に気付いたのは、それからさらに数日後、全く糸口が掴めないことにやきもきしながら、近寄ってきた小鳥を触手で捕まえた瞬間の事だった。
私はその時、いつも出しっぱなしにしている何本かの触手とは別に、瞬間的に2本の細長い触手を生やし、それを使って小鳥を捕まえようとしていた。
その、ほかの触手よりも細長い2本の触手が小鳥に迫っていくのを見ながら、私は唐突にこう思ったのだ。
―あれ?そもそも、こうして触手を生やすこと自体が、形質変化の一つだよね?
指や髪の毛を再現するための、極細の触手の生成。
人族の「シャキーン」という感じを出すための、体の硬質化。
私がスライムから形質変化を学ぼうとしたのは、主にこの二つの目的を達成するためだ。そのせいかいつの間にか、私の中で『形質変化』というのは、『今の自分には出来ない高度な体の変化』を指す言葉になってしまっていた。
しかしよくよく考えてみれば、『体の形や質を変化させること』が形質変化なのだから、触手を生やしたり長さを調整したりといった、普段私が何気なく行っていることも立派な形質変化の一つに当たるのではないか。
生やす、伸ばすを含めた触手の操作なんて、私にとってはそれこそただ体を動かしているだけで、意識するも何もない『本能』に基づく行動だ。
魔物は体が魔力で構成されているのだから、つまり魔物にとって、人族の言う『魔力の操作』とは、=『体を動かす』という事になるのではないか。
…どうも私は、自分が思っている以上に、考え方が人族のそれに近づいてしまっていたようだ。
人族にとって魔力とは、体に宿っている『力』なのだから、それを意識して操作しようとするのは当然のことだ。しかし私たち魔物(に限りなく近い魔獣)にとってそれは、自身の体そのもの。であれば、人族がそれを扱う時のように、「使おう」だとか「操作しよう」だとか、余計なことを考える必要はないだろう。
なのに私は、人族のように魔力を「意識して操作するもの」だと思い込み、あれやこれやと無駄なことをしてしまっていたわけだ。
人族が物を掴むときに、わざわざ「指を広げて、腕を伸ばして、物に触れて、指を閉じて」なんて考えながら動いたりはしないだろう。『物を掴む』という一連の動作は、最初から本能に刻み込まれているのだから。魔物にとって『魔力の操作』とは、それとおんなじだ。
…要するに何が言いたいのかというと。
私は、「魔力をー」だの「細くなれー」だのと一々考えずに、ただ体の許す限り細くすれば良かったのだ。
……ほら、こんなふうに。
「うわっ。何この触手ほっそい!はえー…」
私の目の前には、それを興味深げに見つめているセレナの髪と比べても、遜色ないほどに細い触手が1本、ゆらゆらとゆらめいていた。
「へー…器用なもんだねぇー……はー…」
感心しきりといった様子で、極細の触手をじっと眺めているセレナ。
…なんというか、それに気付けばあっさりと出来てしまって、この数日間の苦労は何だったんだろうという気がしてくる。
いや、或いは悩んだからこそ、気付けた事なのかもしれないけれど……考えなければ、『考えなくてもいい』という事に気付けないだなんて、私は存外に面倒くさい性格をしているのかもしれない。
なんだか徒労感が強いけれど、まぁ、目的は達成できたし、今回のことは良い教訓になったと考えて。これからはもっと、自分の中の『本能』にも目を向けるようにしよう、うん。
しかし、形質変化の何たるかを理解して、数週間。
先の問題をはるかに超える、或いはこれまでで最も深刻な問題に、私は直面していた。
――それは、ゆっくりと、真綿で絞めるように私を苦しめる。
いかに生命力が高いとされている触手種といえど、決して逃れることはできない、まるで猛毒のような苦しみ。
――それは着実に私を蝕み、終焉へと駆り立てる。
人族がよく使う表現を借りるならば、そう――
――おなかすいた。
たとえ本能に刻み込まれたものだとしても、やはり、普通なら必要としないレベルで体を変化させるのはかなり体力を消耗するようだ。
人族の手のように触手の先端を5つに枝分かれさせてみたり、極細の触手を大量に伸ばして髪の毛を再現してみたりしているうちに、私は蓄えていた養分をあっという間に消費し、どんどん元気を失っていった。
あ、ちなみに、体全体を直接人型に変化させるのはやっぱり無理でした。流石に『触手種』という枠から逸脱したレベルでの大幅な形質変化はできないみたい。まぁスライムだったら、もしかしたら可能だったのかもしれないけれど。
とにかく、どうやらこれまで行ってこなかった細かい形質変化は、今まで通りに小動物や野獣の体液を摂取した程度では、とても回復が追いつかないほどに体力を消耗してしまうらしい。
……これは困った事態だ。私が居ついているこの広場は、恐らくエルフたちが普段から狩りをしているためだろう、大型のオスの生き物はほとんど姿を見せない。普段よく訪れる小動物たちで足りないとなれば、私にはこれ以上養分を得る手段はなく、それはつまり、人族に成りすますのは不可能だという事を意味している。
せっかく上手くいきそうだと思った途端に、栄養不足という根本的で、自分一人では如何ともしがたい問題に躓いてしまった。
「今日はあの細い触手出さないのー?あれ、きれいな髪の毛みたいで、なんかいいなーって思ってたんだけど」
しょぼくれている私を尻目に、セレナが呑気なことを言う。
ちゃんと髪の毛に見えているようで嬉しいけど、それを作る元気がないんだよ……
あー、いっそセレナがオスだったら、体液を頂戴してすぐにでも見せてあげるんだけどなー。
……なんて、そんな不貞腐れたようなことを考えるのはやめよう。しょうがない、時間はかかるけど、少しづつ動物たちから養分を蓄えてまた――
――ちょっとまて、セレナがオスだったら?
―そうだ、まだだ。考えることをやめるな。前回の教訓を思い出せ。
―『本能』に目を向けろ。
なぜ私は、セレナがオスだったら、だなんて考えた?
簡単だ。メスの触手は、他の生き物のオスからしか養分を摂取できないからだ。
―それはどうして?
どうして?
触手種とはそういう生き物だからだ。本能にそう刻み込まれている。
―本当に?
本当だ。本能が言っている。
「自分とは異なる性別のものから体液を摂取しろ」と。
「自分と同じ性別のものからは体液を摂取できない」と。
…いや、まて。本当にそうか。考えろ。もっとよく、本能を『考えろ』。
本能が言っている。
「自分とは異なる性別のものから体液を摂取しろ」と。
だが、
「自分と同じ性別のものからは体液を摂取できない」とは言っているか?
――否、否だ。
触手種の本能は確かに、異なる性別の生き物を餌とするようにできているのだろう。
しかし、同じ性別の生き物を餌にしては『いけない』とも、『するな』とも、『できない』とも言ってはいない。
本能は同性の生き物を拒絶しているのではない。ただ同性の生き物など眼中にないだけなのだ。
――であれば、今までただ『見えなかった』だけの同性の生き物が、餌足りえないなどと、どうして言い切れよう。
いや、実際のところ、本当に餌にはならないかもしれない。養分として取り込めないばかりか、下手をすれば体に害を及ぼす可能性だってあるだろう。
だがそれと同じように、養分として摂取できる可能性だってあるのだ。
前回は、本能に従った。ならば今回は、本能に逆らってみるのも、悪くはない。
……とはいえやっぱり怖いものは怖いので、まずは軽く味見から。
という事で、隣に座っているセレナに、そろそろと触手を1本近づけていく。
「…お?……おぉ?………おおぉ?」
ばれない様にと、背後から伸ばしていたはずのそれに目ざとく気付いたセレナが、なんだなんだというように触手の動きを追う。
…どうしよう。触っても大丈夫かな…。襲い掛かってきたと勘違いされないかな…。
ここにきて、オスとかメスとか以前に『触れる』という行為そのものに不安を抱き始めた私は、思わず触手の進みを止め、セレナの右の手の近くでそれを所在なさげにゆらゆらさせる。
一応私はこれまで、スライムを見てに思わずセレナを引き寄せてしまった時以外は、彼女やほかのエルフたちに決して触れないようにしてきた。
私がこの場所でエルフたちに討伐されずにいられるのは、私が彼女たちを決して襲うことがない存在だと、彼女たち自身が思っているからである。
それがうっかり触れたりなんかしてしまうと、襲い掛かってきたと勘違いされ、あっという間に亡き者にされてしまうのではないか。私は、それがとても恐ろしい。
気にしすぎかもしれない。だが、万が一のことがあってはならないと、私は決して彼女たちと接触しないように注意を払ってきた。
だから以前、うっかりセレナを引き寄せてしまったときは、後になってかなり焦ったものだ。幸いにもあの後、特に何も起こらなかったので、恐らく彼女はあの時のことを、例えば「スライムに触れようとしてうっかり彼女に当たってしまった」とかなんとかいうふうに勘違いしているのだと思う。
だが、今回は話が別だ。
セレナは、明らかにこっちの動きに注目している。今触りに行けば、間違いなく意図的に接触したことが分かるだろう。そうなればいかに触手種大好き少女なセレナとて、襲い掛かられたと思い攻撃してくる恐れがある。彼女の様子に気付いたほかのエルフたちも、加勢してくるかもしれない。
私の短い触手生は終わりを告げ、世界を旅するという目標も泡と消える。
……やっぱやめとこうかな。まぁ、ほら、触手生長いんだし、そんなに生き急ぐこともないっていうか。冷静に考えてみたら、軽々しく本能に逆らうとかあんまり良くないんじゃないかな――
「んー………えいっ」
――セレナの方から触手を握ってきた。
にぎにぎ。にぎにぎ。
「……………………うへへ」
なにこれこわい。
…えー。そっちから接触してくるの?いや、そっちがいいなら、こっちは別に構わないのだけれど。
もうちょっと警戒とかしたほうがいいんじゃないかなぁ…
…なんて、いつも至近距離からこっちを見つめてくるセレナには今更な言葉か。
いいや。本人が構わないというのなら、もう遠慮することもないだろう。とりあえず、少しだけ。
こういう時はなんていうんだっけ……そう、「いただきます」だ。
セレナの手にうっすらと浮かんでいた『汗』と呼ばれる体液を、少しだけ吸収する。
さて、どうなるだろう。メスの触手は、メスの体液を養分として受け入れてくれるだろうか。或いは……
…まぁ、たとえ毒だったとしても、極少量だし死にはしないだろう。多分。おそらく。きっと。
…
……?
………!?
……こっ…!……これはっ…!!?
私は、『その感覚』を、一生知ることができないのだと思っていた。
今まで『その感覚』だと思えるものを感じたことはなかったし、人族が持っている多くの機能を、私は持っていなかったから。
『その感覚』を知る機能も、多分持っていないんだろうなと、そう思っていた。
少し残念だけれど「触手だし、まぁ、仕方ないか」なんて、そんなふうに思っていた。
けれど、今ならわかる。諦めたふりをして、それでもきっと、心の奥底で焦がれていた『その感覚』――
――セレナの汗おいしいです。
え、なにこれすごい。
なんていうかもう、とにかくすごい。
きっとこれが『おいしい』っていう感覚なのだろう。
動物のそれを摂取した時とは比べ物にならないほど、幸せな気分。
養分としての質も段違いだ。
動物と比べて、人族だからすごいのか、エルフだからすごいのか、或いはメスだからすごいのか、はたまたセレナだからすごいのか。
分からないけれど、とにかく、何十匹もの動物からまとめて摂取したような、養分が一気に体中を巡る感じ。
こんなものを知ってしまったら、もうちまちま動物たちから体液を貰うなんてできそうにない。
「わっ、なんか急に元気になった。って、ふふっ…もう、くすぐったいよー」
セレナの手の中で触手をうねらせて、さらに汗を吸収していく。
もっと。もっと。ああ、幸せ。セレナの汗おいしいよー。
こうして、食糧問題を解決すると同時に、セレナの汗という新たな幸せを見つけた私は、意気揚々と細かい形質変化を再開。
いよいよもって、人族に成りすます事ができる可能性が高まったことに、期待に心を躍らせていた――
――セレナの手を撫でまわしながら。
「あははっ……って、もう。くすぐったいてば」
……いや、ごめん。つい。




