8.
「あー、もうッ、腹立つッ!!」
喬生は帰ってくるなり大声で喚くと、脱いだジャケットを乱暴にソファの上に放った。
珍しいことだった。普段は温厚な喬生とて仕事で苛立つことは少なからずある。しかし、それを家庭に持ち込むことは滅多にないからだ。そらに請われて仕事の話をすることはあっても、声を荒げたことなど一度もなかった。
そらは乱暴にネクタイを緩める喬生の表情を覗き込んだ。
「どうしたの、喬生さん?」
「ん? ああ、ちょっとね。――そういえば、そら、近ごろ宮下さんと会ったかい?」
「宮下さん?」
聞き返すまでもないことだが、意外な名前にそらは戸惑った。
「ママの店で会ったよ。一週間くらい前かな」
「そうか……」
「どうかしたの?」
「いや。あの人が今日、ウチに来たんだけど、そんなことを言ってたんでね」
「あいつが?」
そらは驚いた。よく喬生の前に顔を出せたものだと心の中で憤りながら。
保険業界において契約を取るのに縁故が大きなウェイトを占めるのは今も昔も変わらないが、喬生はそれがあまり好きではない。仕事に義理を絡めないというのは喬生のポリシーと言ってもいいほどだ。だから、喬生はそらの親類縁者や友人、関係者に対して営業をかけたことはない。
しかし、相手から相談されれば話は別だ。むしろ、そらの為にも親身になって相談に乗る。
宮下収の自動車保険を喬生の会社に替えるという話も、宮下の側から持ち込まれたことだった。喬生は管理職なので本来なら部下の営業職に割り振るべき仕事だったが、義母に失礼にあたるからと自分で契約の説明から書類の作成、実際の契約締結に至るまでの一連の作業をすべて自分の手で行っている。
宮下はそのとき、喬生と同席したそらの前で「せっかく身近に保険会社の人間がいるのだから、これを機会に替えたい」と契約切り替えに至った理由を説明している。また、それまで契約していた損保の対応があまり良くないのも理由のひとつだとして付け加えた。ありがちなことなので喬生は特に気にしなかった。
ところが、それが大きな落とし穴だった。
宮下は保険金詐欺紛いの支払い請求を行ったり、契約条項を自分の都合のいいように曲解して難癖をつけたりする問題顧客だったのだ。対応が悪いとなじられた以前の保険会社からは支払いをめぐって揉めた結果、事実上の契約解除を申し渡されていた。
後になって判ったことだが、それに腹を立てた宮下はどう見ても真っ当な仕事をしていない輩を引き連れて怒鳴り込み、あわや警察を呼ばれそうになる騒ぎを起こしていた。警察沙汰にならなかったのは宮下とその損保会社の支社長が幼馴染だったからだが、その関係が更にもう一つ前の損保からの切り替えの理由で、喬生の会社への切り替えとまったく同じ構図だったのは皮肉としか言いようがない。
それでも自分のところで宮下が問題を起こさなければいいことだし、逆に言えばそうならない限りは喬生の側からできることは何もない。夕子との仲もあるのだから自重してくれるだろう――喬生はそう願っていた。
しかし、期待は敢無く裏切られた。告知事項の一つを申告せずにおけば大幅に保険料が安くなることを知った宮下が、喬生に「わざと保険料を高く取ろうとした」と難癖をつけたのだ。
喬生は辟易しながらそれが契約違反であり、保険金の不払い理由になることを懇々と説明した。しかし、自分勝手な理屈を言い立てる宮下と言い合いになり、最後は喬生の側から「契約解除の手続きを取る」と言い捨てて、会談の場所であった夕子の店を後にした。
あまりにも子供じみていて、同時に悪質極まりない恋人の態度に愛想を尽かした夕子が宮下に三行半を叩きつけたのはその二日後のことだった。喬生は自分の説明不足が原因で迷惑をかけたと夕子に詫びたが、夕子は持ち前の気風の良さでカラカラと笑い飛ばした。最初から宮下に良い印象を抱いていなかったそらは口には出さなかったが、その結末にはむしろ満足すらしていた。
「ごめんね、喬生さん……。ママがあいつとヨリなんか戻すから」
そらは大きな溜め息をついて俯いた。
「いや、それは関係ないんだけどね。今度の件はあの時に解除しなかった火災保険のことだから」
冷蔵庫のところまで歩いていって缶ビールを取りだす。これも喬生が普段はしないことだ。先日の健康診断でメタボリック予備軍と診断されて以降、家の中のビールはすべてそらの管理下にあるからだ。
しかし、喬生は半ば無意識にアルコールを欲していたし、そらもそれを咎めるような心理状態にはなかった。
「どういうこと?」
「うん……。何て言えばいいのかな。そら、あの人が山手の外れのほうに家を持ってるのは知ってるかい?」
「聞いたことはあるよ。親が住んでたんだけど両方とも亡くなっちゃったから、今は空き家なんじゃなかったっけ?」
喬生は小さく頷いた。
「先月、その家が燃えちゃってね。警察の調べじゃ不審火ってことなんだけど」
「誰も住んでないのに?」
「ホームレスが住み着くようなところじゃないから、近所の不良少年がたまり場にしてて、タバコか何かの火を始末しそこなったんじゃないかってところに落ち着いたんだけどね」
「ありがちって言えばありがちだけど。それが?」
「空き家って言っても保険は掛けてあったんで、当然のように支払い請求がくるわけだ。ところがあの人、どうも焼け太りを狙ってたらしくてね。ウチ以外にも3社の火災保険に入ってたんだ」
宮下のやりそうなことだとそらは思った。
「でもさ、それって無駄なんじゃないの?」
「おっ、よく知ってるね」
喬生が少し満足そうに微笑む。
「生命保険なら入ってた保険はそれぞれ支払われる。1千万円の保険を3つ掛けてれば、不審な点さえなければ3千万円が手に入るわけだ。ところが損害保険はそうじゃない。1千万円の損害が出ればその額が支払われるのは当然だけど、ウチを含めて4社の保険に加入しているとなると各社が按分比例で負担額を分けるから、契約内容が同等なら各社250万円。合計で1千万円しか支払われない」
「1千万円の家を燃やして4千万円貰えるんだったら、保険金目当てに家に火をつける人が続出するもんね。ひょっとしてあいつ、本当は自分で家に火をつけたんじゃないの?」
「それはどうか分からないけど」
喬生は苦笑する。しかし、その表情には明らかに同じ考えが浮かんでいた。
実際の話、損害保険における保険金詐欺の潜在的な件数は生命保険におけるものとは比べ物にならない。褒められた話ではないが、怪我や場合によっては殺人に至ることもある生保のケースに比べて、物的な被害が主である損保の場合は警察が事件性を問題にしないことが少なくないからだ。
勿論、損保会社も黙って手をこまねいているわけではない。不審なケースでは専門の調査会社に依頼して、支払いを拒否するに相当な証拠があれば断固たる態度をとる。
だが、契約条項の拡大解釈による損保各社の不当な不払いがマスコミに叩かれている昨今では、余程のことがないと支払拒否できないのが現状なのだ。按分比例の制度はその為に作られたわけではないが、損保各社にしてみれば焼け太りを画策するような輩に対して支払う額を減らせるし、僅かながらでも抑止効果があれば良いと考えられている。
そらは喬生が不機嫌な理由に思い至った。
「ひょっとしてあいつ、目論見が狂ったのに怒って、喬生さんの会社に怒鳴り込んできたんじゃないの?」
「正解。何だかヤバそうな人たちを引き連れてね」
喬生は右手の人差し指で左頬に斜めの線を描いてみせた。最近はあまり見ない暴力団員を示す仕草だった。
「大丈夫だったの?」
「うん。こう言っちゃなんだけどその手の人たちって昔からいるから、こっちも慣れてるんだよね。トラブルになったときに警察に通報するのもちゃんとマニュアルになってるし。――でも、それより僕は、宮下さんがその手の連中とつるんでることのほうが心配なんだけど」
「そうだよねぇ……」
無論、二人は宮下の身など案じていない。心配なのは夕子のことだ。
「お義母さんとあの人、どうしてヨリが戻っちゃったんだろう?」
「それが分かんないの。あれから何度か話に行ったんだけど、忙しいとか具合が悪いとか言って逃げられちゃってるし。――ホント、子供なんだから」
「でも、宮下さんがそういう連中と付き合ってて危ないってことだけは知らせといたほうがいいね。お義母さんが話を聞いてくれるかどうかは分からないけど」
「そうなのよねぇ。うーん、困ったなぁ……」
「……ほう、それはまた難儀な話ですな」
草薙は心配そうにそう言うと、コーヒーを口に運んだ。
「ホント、そうなんですよねぇ……。あら、すみません。愚痴なんかお聞かせしちゃって」
「いえいえ、まったく構いませんよ。最近、誰かと話す機会自体がめっきり少なくなっているものでね」
「そんな――」
草薙の厳しい顔立ちにほんの少しだけ茶目っ気を感じさせる笑みが浮かぶ。そらは身内の恥を晒すようなことを口にしてしまったことを恥じた。
喬生から宮下収の話を聞かされた翌日、草薙が図書館に顔を見せていた。
そらが職場で草薙の顔を見るのは自分を庇って怪我をしたあの日以来のことだったが、草薙はその間に2度ほど図書館を訪れていた。そらの本来の職場は児童図書館なので常にレファレンスカウンターにいるわけではなく、すれ違っていたのだ。
「とりあえず、ご主人が仰るように御母堂と話をしてみられたほうがいい。それもできるだけ早いうちに。脅かすつもりはありませんが、面倒なことになりそうな気がします。――宮下という男、あまり良くない目をしておりましたからな」
「えっ?」
草薙の目がスッと細くなった。
「あれは常に相手を出し抜くことを考えていて、笑って握手をしながら相手の足を蹴飛ばせるタイプの人間です。しかし、その割には浅慮なところもある。目論見どおりに事が運んでいるときは鷹揚に構えていられるが、一たび不利になれば癇癪を爆発させて周囲に迷惑をかけかねない」
そらは嘆息した。
「一度会っただけなのに、よくそこまで分かりますね?」
「これでも経営者の端くれでしたのでね。人を見る目には少しばかり自信があるのですよ。無論、あくまでも私が受けた印象でしかありませんが。――こんなことを言っては怒られるかもしれないが、母堂があの男を選ぶ理由がちょっと理解できませんな」
「草薙さんもそう思われます?」
苦笑いと言うよりも困惑がそらの表情をゆがめた。
「……何か、私にして差し上げられることがあれば良いのですが」
草薙は心苦しそうに小さく息をついた。そらは慌てて掲げた手を小さく振る。
「いえ、そんなつもりでお話ししたわけじゃないんです。ただ、誰かに相談したいなって思ったら草薙さんがいらっしゃったから、つい……」
「そんなことでも、お役に立てたのなら幸いですな」
不思議と言えば不思議なことだった。
そらにとって草薙は自分を庇ってくれた恩人だが、逆に言えばそれ以上の存在ではない。いくら母娘で言い争う現場を見られていても――いや、見られているからこそ――それ以上の恥の上塗りのような身内の愚痴など聞かせるべきではない相手なのだ。
しかし、草薙にはそういう想いを越えたところで頼りにできそうな雰囲気があった。一回り歳の離れた喬生に惹かれた理由とも共通する部分があるが、草薙の態度は父親のそれに近いものだった。幼くして父親を亡くしたそらが無意識に心地よさを感じたとしてもおかしくないのかもしれない。
「あのー、ところで……」
そらは話題を変えた。
「何です?」
「お怪我のほうはどうなんですか?」
一瞬、草薙が虚を突かれたような表情になった。そらの視線が自分の左手首に注がれているのに気づいて、それはすぐに微笑に変わった。そこにはもう包帯も巻かれていない。
「随分良くなりました。もう、箸も普通に使えますよ」
「そうですか。それは良かったです」
「昨日、恐る恐る六尺棒を振ってみましたが、痛みもありませんでした。ただ、右手でばかり剣を振っていたので少し感覚が狂っていますが」
「でも、お怪我をされて二週間くらいでしょう? 構えってそんなに狂うものなんですか?」
「一日稽古をサボると取り返すのに三日かかります。宮本武蔵のような達人ともなれば話も違うのでしょうが、私のような未熟者は生涯鍛錬を欠かすことはできんのです」
「ご自分に厳しいんですね」
「独り者のせいで、他に厳しくできる相手がおりませんのでね」
冗談めかして草薙は笑った。
しかし、それは言葉どおりの意味だった。目の前の老人が見せる押し付けがましさのない静かな包容力。その裏側にベッタリと貼りつく孤独な影を感じてそらは言葉を失った。