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熾火  作者: 須藤彦壱
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7.

 

 

 それからしばらくの間、3人はそらが買い求めた惣菜をつまみながら、それぞれに感想を述べ合っていた。

「ふむ。これはなかなかいける」

 草薙は生春巻きを口に運ぶと小さく肯いた。

「しかし、少しばかりシャンツァイの香りが強すぎますな。私は嫌いではありませんが、好みが別れるでしょう」

「そうですよねぇ……。それにちょっと辛すぎ。これ、なんだろ?」

 そらが顔をしかめる。辛いものは決して嫌いではないそらだが、ちょっと刺激が強すぎるような気がしていた。

 夕子もカウンター越しに春巻きをつまんだ。

「うん……。ドレッシングにラー油とごま油が混ぜてあるのね。真夏にビールを飲むときはいいかもしれないけど、お酒のアテにはちょっと――」

「では、これは不可ということで」

 まるで議長のようにその場を仕切っている草薙の横顔を、そらは少し可笑しく思いながら見つめた。

 その後も品評会は続いた。薄切り肉を重ねて梅しそを挟んだ豚カツは買ってきた惣菜の中で唯一、これは美味い、と3人の意見の一致を見た。しかし、それを店のメニューに取り入れられるかというと別の問題があった。

「こんなに薄く豚肉をスライスするの、けっこう大変よ」

 夕子が言った。

「最初から薄切り肉を買ってくればいいじゃない」

「あんたねぇ、そういうわけにはいかないのよ」

「どうして?」

「ブロックで買わないと高いでしょ」

 言ってから、夕子はバツの悪そうな顔をした。客の前で口にする話題ではない。

「業務用のスライサーを使わないと無理ではありませんかな。半解凍の状態でなら、ある程度までは薄切りもできるでしょうが」

「ですよねぇ。でも、あれは結構なお値段ですし」

「買っても、それ以外に使うことないし。はっきり言って邪魔だよね」

 3人は申し合わせたように溜め息をついた。あまりのタイミングのよさに思わず顔を見合わせて照れ笑いを浮かべる。

「草薙さんはお料理をされるんですか?」

 そらは訊いた。草薙が小さく笑った。

「料理と言うほど上等なものではありませんがね。時折、気が向いたときに適当なものを作るだけです。朝食は必ず自分で作りますが」

「どのようなものを?」

 夕子が興味津々という顔で問いかける。

「大したものではありません。メシを炊いて、味噌汁を作って、魚の切り身か味醂干しを焼いて。それに納豆と漬物、あるいは海苔。あとは胃の調子がよければ卵を焼くか、豆腐を切るかといったところです。男の料理と言えば聞こえはいいですが、毎日飽きもせずに代わり映えのしないものを食べているのが現実ですよ」

「男の方でそれだけできれば十分ですよ。そら、あんたも草薙さんを見習いなさい」

「はぁい」


(あたしだってそれくらいやってる)


 そう文句を言いたいそらだったが、草薙の面前で言い返すほど子供ではない。母親には後で機会を見て抗議することにして笑っておくことにした。

 それよりも、そらは自分の予感が当たっていたことに心の中で静かな溜め息をついていた。

 さすがに面と向かって「お独りですか?」とは訊けない。しかし、この歳の妻帯者が夕食をどうするかを自分の都合に合わせて決めるのは妙だし、外食はが気が乗らないから惣菜を買って帰るというのはもっとおかしな話だ。まして、自分で毎日の朝食を作ったりはしないだろう。細君が家事をできない事情がある――たとえば病気を患っている――という可能性がなくはないが、それなら、草薙はこんなところで酒を飲みながら料理談義などしていないはずだ。

 やっぱり独身なんだろう、と思いつつもその理由は分からないままだ。死別したのか、それとも離婚したのか。いずれにしても、それこそおいそれと訊くわけにはいかない。

 そらがそんなことを考えている間も草薙と夕子は楽しそうに会話を続けていた。長らく接客業をしている夕子がこういうときに如才なく振舞えるのはある意味では当然だが、草薙がこんな場末の小料理屋の常連客のように振舞っているのが、そらにとっては意外だった。

 いっそ、くっついてくれてもいいのに。ふと、そんな思いがそらの脳裏をよぎる。

 夫の死後、女手一つで二人の子供を育てた夕子だが、言い寄る男がいなかったわけではない。むしろ、恋人がいなかった時期のほうが短いくらいだ。生まれ持っての美貌というのもあるが、それ以上に水商売が肌に合ったのか、店を切り盛りする夕子は生き生きと輝いていた。周囲の男たちが放っておくはずがなかったのだ。

 ただ、問題がないではなかった。夕子の男運――というより男を見る目のなさだ。

 

 ――またぁ? もう……。ママ、いい加減にしてよ!!

 

 そらは何度、母親に向かってそう怒鳴ったことだろう。

 夕子が選ぶ男がそらの眼鏡に適ったことはほとんどない。どこがいいのだろうと思うような男しか紹介されたことがないのだ。

 死んだ父親を同列に論じることをそらは頑なに拒んでいるが、夕子が甲斐性に乏しい男性に惹かれる傾向があるのは誰もが認めるところだった。あるときはベンチャー企業とは名ばかりのよく分からない会社の経営者。あるときは大学の医局で飼い殺しにされている窓際の研究医。またあるときは老舗の呉服屋を傾かせてしまった商売下手の若旦那。

 夕子にもそれなりに男を選ぶ基準はあって、妻帯者と深い関係にならないという一線だけは守り通してきたのだが、母親が付き合った男のリストを思い返すたびに、そらは一家が連帯保証だの詐欺だので借金を背負わされなかったのは奇跡だと思わずにいられない。

「もう1杯、いかがですか?」

 話の切れ目で夕子が酒を勧めた。草薙はグラスに視線を落として、小さく首を振った。

「いえ、これでやめておきましょう。昔はそれこそ、一升瓶を一人で空けたものですが、寄る年波には勝てません」

「そうですか。お食事のほうも?」

「ええ、このあたりで。よろしければ、お茶を戴けるとありがたい」

「分かりました」

 夕子が薬缶をコンロにかけた。茶の葉を取りに奥にある小さな部屋に入る。

 まるで、そのタイミングを計っていたように店の扉が開いた。

「――おう、もう開けてたのか」

 そう言いながら男が暖簾をくぐる。聞き覚えのある傲岸な低い声に思わず振り返ったそらと男の目があった。

 押し出しの強そうながっしりとした面構えの中で、猜疑心の塊のような小さな目が落ち着きなく揺れている。広い額にパラリと一房だけ落ちるソフトなオールバック。ピンストライプのダーク・スーツにさらに暗い色のインナーと派手なネクタイを合わせるファッションセンスは、たとえば草薙がやればダンディに見えたかもしれないが、この男がやると得体の知れない出自の名刺代わりにしかならなかった。

「……ちょっと、あんた、何しに来たのよ?」

 そらは自分の声が冷えていくのを感じた。男が負けないほど冷たい声で吐き捨てる。

「なんだよ。いたのか」

 宮下收。かつて夕子が付き合っていた男だ。市内で不動産関係の仕事をしていて、夕子が選んだにしては珍しく羽振りのいいところがある男だったが、一方で本業以外の小遣い稼ぎのような仕事ばかりしているという噂もある。歴代の男の中でも飛び抜けて胡散臭いとそらは思っている。

 しかし、半年ほど前に宮下とそら――正確には夫の喬生――との間で損害保険に絡んだトラブルがあって、それを理由に夕子はこの男に三行半を叩きつけたはずだった。

 そらは草薙がいることも忘れて立ち上がった。

「ちょっとあんた、どのツラ下げてこの店に顔出してんのよッ!!」

「うっせえ、てめぇに用はねえ。母親はどうした?」

「冗談じゃないわ。会わせられるわけないでしょ!」

「そら、なに大声出してんのよ――」

 のんびりと顔を出した夕子の表情が凍りついた。それを見た宮下の目が細まり、口元が斜めに歪む。本人はニヒルと思ってやっているのだが、そらには品のないニヤけた笑みにしか見えない。

「ここには来ないでって言ったじゃない」

「しょうがねえだろ。他のところにおまえを呼び出すわけにもいかねえし」

「宮下さん……」

「つれねぇな。前みたいに収さんって呼べよ」

「ちょっと!」

 宮下の台詞にそらは頭を思いっきりぶん殴られたような衝撃を受けた。目の前が真っ暗になるほどの怒りが込み上げるのに反比例して、手足からゆっくり力が抜けていく。

「……ママ。まさか、この人と続いてるの?」

「いや、あのね、そら――」

「ああ、そうだよ」

 夕子の震える声を宮下の嘲るような声が遮る。二人は瞬間的ににらみ合ったが、目を逸らしたのは夕子のほうだった。

「ちぇっ、面白くねえや。出直してくる」

 宮下はこれみよがしの大きな舌打ちを残して店を出て行った。

 その場に手で触れられそうな濃密な沈黙が漂った。薬缶の中で湯が沸き立つ音が場違い極まりなく大きく響く。

 きっかけがあれば沈黙は一気に手のつけられない怒気に変わるに違いなかった。そらはこれ以上ないほど目を見開いて母親を見た。夕子はすべてを怖れるように硬く目を閉じた。

 沈黙を破ったのは草薙だった。

「さて、そろそろお暇するとしましょう。御母堂、勘定をお願いできますかな?」

 場違いなほどのんびりとそう言って、草薙は椅子を引いて立ち上がった。ハーフコートのポケットから財布を取り出す。

 母娘はそれぞれに草薙を見た。無視していたわけではない。だが、激昂するそらにも、唐突に秘密にしていたことを突きつけられた夕子にも、この物静かな老人を気にする余裕はなかった。

「――母堂?」

「あ、はいっ!」

 草薙の重みのある声に夕子が弾かれたように反応した。

「い、いえ、草薙さんから御代を戴くわけにはいきませんわ。そらが――娘がお世話になったお礼にもなりませんが、その……」

「そういうわけにはいきません。せっかくこれから通わせて貰おうと思っているのに、そんなことをされては気詰まりして通えなくなってしまう。どうか、ちゃんと代金を払わせてください」

「えっ、その……。そら、いいの?」

「……なんで、あたしに訊くの?」

 そらは母親を射殺さんばかりに睨んだ。怜悧な顔立ちのそらがそういう目をすると、見る人間によっては本当に憎悪を抱いていると取られかねないほどの迫力がある。普段なら少々のことは気にも留めない夕子も、後ろめたさが手伝って娘の憤怒の表情をまともに見ることができないでいた。

 夕子は金額を口にし、草薙はそれを支払った。

「ところで樋口さん。申し訳ないのですがこの辺りは少々不案内でね。駅まで案内してもらえると助かるのですが」

「えっ?」

「構いませんかな?」

 今度は草薙は優しい眼差しをそらに向けた。隣り合った左手がそらの右腕にそっと添えられる。重みすら感じないほど軽く触れただけのその仕草が、そらの心のささくれ立ったところを優しく撫でるように落ち着かせた。

「はい。……じゃあ、送ってくるから」

 母娘は短く視線を交わした。

「お願いね。後から戻ってくる?」

「あいつが出直してくるのに、そんなわけないでしょ。今度、ゆっくり話を聞かせてもらうからね」

「……分かったわよ」

 観念する夕子の声を背に、そらと草薙は店を出た。並んで歩きながらそらは口を開いた。

「あの……すみません。変なところをお見せしちゃって」

「事情はよく分かりませんが、大変なようですな。心中、お察ししますよ」

「いえ、そんな」

 気遣いをされても恐縮することしかできない。親子の醜い罵り合いを未然に防いでくれたことにすら、そらは感謝をどう言葉に表せばいいのか分からずにいた。

 

 

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