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熾火  作者: 須藤彦壱
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6.

 

 

「ホントにもう、うちのバカ娘がご迷惑をおかけして……」

 カウンターに隠れてしまうほど深々と頭を下げる夕子を見ながら、そらは「誰がバカ娘よ!?」と言いたいのを懸命にこらえていた。

 言わなかったのはもちろん、隣で逆に恐縮している草薙の存在があったからだ。

「いやいや、迷惑など蒙った覚えはありませんよ」

「でも、そのお怪我はそらを――」

「これは私が未熟な証拠です。お気に病まれることはありません」

 70歳をゆうに越えている草薙がまだ未熟なら自分はいったい何なのだろう、とそらは思った。

 左手の包帯は1週間前に比べるとずいぶん控えめなものになっている。それでも、草薙は何をするにも利き手ではない右を使っていて、その様子には幾らか不自由そうな感じがあった。

 意外な邂逅から30分後、そらは草薙を母親の店に招待していた――というより、招待させられていた。

 椅子が8脚ほどのL字型のカウンターと4人掛けの小上がりのテーブルが2つの小さな店。夕子が毎日1時間以上を掃除に費やしているおかげで、そこらのチェーンの居酒屋など足元にも及ばないほどピカピカに磨き上げられてはいるが、そらが小学生の頃から営業しているので内装にはそれなりに傷みも目立つ。

 全面改装の話が出たことも何度かある。しかし、先立つものの都合でそれが現実になることはなかった。常連客の一人に内装関係の会社を経営している男がいて、大きな補修だけはほぼ実費でやってくれるのだが、日々の小さな補修は夕子が女手一つで行わなくてはならないのが現実だ。そらは一度、物々しい防毒マスクを被った夕子がカウンター下の羽目板のペンキを塗り替えている現場に出くわして、死ぬほど驚いたことがある。

 そういう店にかつては一流企業の社長であった人物を連れて行っていいものか、迷わなかったと言えば嘘になる。

 しかし、大量の惣菜を買い込んでいる理由を訊かれて「母の店のメニューの参考にするので」と答えてしまった後の草薙の乗り気な表情を目の当たりにして、今さら「駄目です」とはそらには言えなかった。

「それにしてもあんた、隣にいたのに草薙さんに気づかなかったの?」

 そらは横目で母の横顔を睨んだ。

「……そんなこと言ったって、あたしはママのお使いで頭が一杯だったんだもの。それに――」

 そらは今度は隣の草薙を見た。草薙は小さな笑みを浮かべた。

「この前、図書館でお会いしたときとは随分違いますからな」

 実際に会ったのは一度だけだったが、そらのイメージでは草薙は和装の人だった。その後、幾つかの市の資料などで見かけた写真でも草薙はだいたい和服を着ていた。

 しかし、惣菜屋で出くわしたときの草薙は黒いタートルネックのセーターにダークグレイのトラウザーズ、タン色の革のハーフコート、ボルドーのマフラーという若々しい身なりだった。おまけに長い後ろ髪はゴムで束ねられている。明るいところでは白髪が銀髪のように見えたのも、すぐに草薙だと分からなかった理由の一つだ。

 ついでに言うなら、例の杖という名の木刀をもっていなかったことも。

「普段はそういう格好をされるんですか?」

 草薙は苦笑を浮かべた。

「いつもというわけではありませんがね。しかし、最近は新しい大島紬の反物より、ドルチェ・アンド・ガッバーナの春のコレクションのほうが心躍るのは事実ですな」

「そう、なんですか……」

 失礼になってはいけないと平然を装ってみたものの、草薙の口からイタリアのファッション・ブランドが澱みなく出てきたことに、そらは驚いていた。しかも、そらの認識ではドルガバといえばイタリアン・ブランドの中でもかなり軽薄な部類に入る。

「しかし、奇遇ですな。まさか、あんなところで樋口さんに会おうとは思ってもいませんでした」

「私もです。あの……草薙さんはどうして?」

 少しばかり遠慮がちな口調でそらは訊いた。

「ちょっと人と会う用があって街中まで出てきたのですが、待ち合わせに失敗するわ、会ったら会ったで予定より大幅に時間がかかるわですっかり遅くなってしまいましてね。何処かで食べて帰ろうかとも思ったのですが、なかなかコレだという店がありませんで。それで、何か買って帰ろうとあの辺りをウロウロしていたわけです」

「そうだったんですか。でも、だったら尚更、すいませんでした」

 そらが思わず大声を出したことで、2人は周囲の好奇な目に晒されることになった。

 もちろん、何も悪いことなどしていないのだから形ばかり申し訳なさそうな顔をしてやり過ごせばそれで済んだはずだったが、動転してしまったそらは草薙の手を引いてそそくさとその場を離れてしまっていた。当然、草薙は何も買うことができなかった。

「お気になさることはない。正直に言って、あの店でもピンとくるものは見つかっておりませんでしたのでね」

「でしたら、何か、お召し上がりになります?」

 夕子が訊いた。

「そうですな。せっかくなので戴きましょう。それと、何か適当なものを冷やで」

「あら、お飲みになるんですか?」

「外では滅多に飲まんのですがね。まぁ、車は知り合いのところに預けてありますし、帰りは運転代行でもタクシーでも構いませんからな。できれば、辛口のものを戴けるとありがたい」

「承知しました」

 夕子は幾つか置いてある地元の蔵のものから一番辛口の酒を選んで、枡の中に置いたコップに静かに注いだ。

 酒といえば酎ハイやビール、ジュースもどきのカクテルだった若かりし頃、そらは母親が客の「冷やで」という注文に冷やしていない常温の酒を出す意味が理解できなかった。同じことをそらたちが出入りしていたような居酒屋で言えばキンキンに冷やした300mlの小瓶が出てくるからだ。今ではそれは“冷酒”のことで“冷や”は常温の酒を指すことも知っている。同じ間違った認識を持っていた喬生に自慢げに指摘してみせたこともある。

 夕子は小鉢にそぼろの餡をかけたサトイモの煮つけを、木でできた椀に鍋から地鶏のつくねと椎茸、豆腐の炊き合わせを盛った。それらを小さな盆に載せてそらの前に置く。そらは中立ちになってそれを受け取り、草薙の前に置いた。


(……あれっ?)


 そらは草薙に気づかれないように怪訝な表情を母親に向けた。

 今の季節、夕子の店には定番の突き出しがある。えのきやしめじ、椎茸の細切り、時には裂いたエリンギなどの茸類を、遠方の親戚が送ってくるにんにくを漬け込んだ味噌とほんの数滴の醤油で炒めた物だ。

 冷えては何にもならないので作り置きこそできないが、茸の下ごしらえをしておけばすぐに作れるしシンプルな割に評判が良いので、よほどせっかちな客でない限りは夕子はこれを出す。そらたちが店に着いたときに夕子はまさに下ごしらえの最中だったし、にんにく味噌もつい先日、新しいものが送られてきたばかりのはずだった。そらにもおすそ分けがあったので間違いない。

「お箸は大丈夫ですか?」

 夕子はそらには取り合わず、草薙に訊いた。草薙は少し照れたように目を細めた。

「そうですな……。子供のようで恥ずかしいのですが、スプーンを戴けると助かります」

 承知しました、と言いながら、夕子はそっと大振りな茶さじのような木でできたスプーンを差し出した。

 そらは母親の意図を理解した。出されたものは全てスプーンで食べられるものばかりだったからだ。逆に得意の茸の炒め物はスプーンで食べるのは甚だ困難な代物だ。

「……お怪我の具合はいかがですか?」

 そらは訊いた。いくら気にしなくていいと言われても、目の前で不自由している様を見ては声が沈むのは仕方のないことだった。

 草薙は半分に割ったつくねを運ぼうとしていた手を止めた。

「もう、ほとんどのことは不自由しません。箸を持ったり、細かい作業をするのにはまだ不安がありますが。車の運転はもともと左はシフトレバーを動かすくらいしか使いませんから問題はありませんし。そうですな、強いて不都合があるとすれば六尺棒を振れないことくらいですか」

「六尺棒?――って、長い棒をですか」

 そらは手の中にそれくらいの棒を持っているような仕草をした。六尺が約180センチのことであることくらいはそらにも分かる。

「左様。まっすぐな太刀筋を保つ鍛錬の一つなのですが、こればかりはさすがに片手ではできませんのでね」

 草薙は少し悪戯っぽい目をして、捻挫から3日目に我慢しきれずに例の木刀を両手で振ってみたら飛び上がるほど痛かったことを付け加えた。冗談めかした口調ではあったが、そらには素直に笑うことはできない。

「でしたら、今は右手一本で木刀を振っていらっしゃるんですか?」

 夕子が口を挟んだ。

「そういうことになりますな。ですが、剣というものは本来、左で持つものですから、右で振ってもせいぜい、筋力を落とさないという程度の鍛錬にしかなりません」

「確かにそうですね」

 また利いた風なことを、とそらは内心で毒づいた。

 決して悪気はないのだが、客商売を長く続けているせいで夕子には適当に相手の話に合わせて、ときに知ったかぶりをしてしまう癖がある。もちろん、そうと感づかれないように上手に相手の話を引き出す話術があってのことではあるが。

 しかし、この話は少し方向が違っていた。

「ほう、御母堂は剣道のことをお分かりですか?」

「高校生まではやっておりましたから」


(……なぬ?)


 そらは思わず夕子の顔を見た。そんな話を聞いたことは一度もない。ずっと以前、懸想してくる常連客の一人が店で暴れたとき、店の外に追い出した男の額に箒の柄が折れんばかりの見事な面打ちを決めた現場を見たことはあるが、そらはそれは何でも器用にこなす母親ならではのことだと思っていた。

「これでも、けっこう強かったんですよ。個人で全国大会に出たこともありますし。ああ、ちょうどわたしたちのときに玉竜旗に他の地方の学校が出られるようになったんで、福岡まで行ったこともあります」

「私の頃は九州の学校しか出られませんでした。それで、戦績は?」

「1回戦は2本勝ちでしたけど、2回戦で九州でナンバーワンって言われてた選手と当たってしまいまして。そこで散りました」

「それは残念でしたな」

 2人はしばらく剣道に関する話題で盛り上がった。話から完全に取り残されたそらは、思わぬことで弾む会話を続けている2人の横顔を見守るしかなかった。


 ――歳だけいえば、ちょうどあたしと喬生さんくらいかな。


 そらはそんなことをボンヤリ考えた。三十路の娘がいるのだから夕子もそれなりの歳だが、草薙となら少し年齢が離れた夫婦で通じるだろう――しかし。

 父親の面影と重ねるには、草薙と河合雄一郎は違いすぎていた。

 仮に雄一郎が生きていたとしても、草薙のように研ぎ澄まされた鋼のような印象を与える男にはならなかっただろう。物静かな学者肌だったこともあるが、顔立ちもどちらかと言えば柔和な丸顔だったからだ。おまけに若いのに髪の毛の量をずいぶん気にしていたから、おそらく禿げ上がっていただろうことも想像に難くない。

 しかし、そらの想像がその方向に進まなかったのは、草薙伊織という男に家庭の匂いがまったくしなかったからだ。その証拠に包帯をした草薙の左手の薬指には、指輪をしていたような痕は見当たらなかった。

 

 

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