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熾火  作者: 須藤彦壱
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5.

 

 

 仕事を終えたそらは岡崎城の近くにある図書館前からバスに乗った。見慣れた通勤路の風景をぼんやりと眺めながら考えを巡らせる。

 目下の懸案事項はやはり草薙のことだ。

 住所は分かっている。岡崎から隣の豊田市に向かう愛知環状鉄道の駅のうち、一番近いのはおそらく北野桝塚駅だろう。車でないと不便な場所だがタクシーを拾えば済む話だ。さすがにこの時間からは無理でも、明日は休みなので朝から出かけられる。幸いと言っては語弊があるが、喬生は昨日から東京への定期出張で留守だ。

 付き合いだした当初、そらは喬生に「どうして保険屋さんにそんなにしょっちゅう出張があるの?」と疑問と不満をぶつけたことがある。

 そらの言い分に理がないわけではない。喬生の会社の顧客の多くは県内、その大半は三河地方の法人と個人だからだ。一部に県外在住の顧客もいるが、それでも日帰りで充分対応できる距離にある。泊りがけの出張が必要な業務などないはずだ。

 可愛らしく頬を膨らませる恋人に向かって苦笑いを浮かべながら、喬生は「仕事の相手は顧客だけじゃないんだよ」と言った。

 喬生の会社は独立経営の代理店だが、だからと言って保険会社とまったく歩調を合わせなくて良いわけではない。本社――と喬生たちは便宜的に呼ぶ――の会議に出なくてはならないことも多々あるし、新しい保険商品のセミナーにも出なくてはならない。以前はすべて社長とナンバーツーである部長が交代で出向いていたが、不摂生が祟って入退院を繰り返すようになった社長のせいで部長が身動きが取りづらくなり、そうした業務は喬生に任されることが多くなっている。

 それが夫に対する会社の信頼であるのが分からないほど、そらも子どもではない。しかし、せっかく買ったダブルベッドでの独り寝の切なさはどうしようもなかった。


(晩ご飯、どうしよっかな……)


 そらは心の中で一人ごちた。

 そんなことを考えているうちにバスは東岡崎駅前のバスセンターに到着した。

 三河地方の中核都市といっても岡崎はそれほど大きな街ではない。高いビルが建っているのも駅の周辺だけで少し歩けば昔ながらの街並みも残っている。幹線道路はむやみに広いが、それも近年の再開発で開けたところだけだ。

 喬生とそらのマンションは、そんな駅の南口から歩いて10分ほどのところにある。官公庁や銀行、信用金庫などが立ち並ぶ北口側と違って、駅前再開発で開けてきた南口側には賃貸マンションが多く、そのうちの1つだ。田舎名物の暴走族がロータリー近辺をうろうろすることもあって、そらにしてみれば騒音と治安が気にならないことはなかったが、便利のよさはそれを埋め合わせて余りあると喬生は主張した。

 とは言いつつ、そらにとっても喬生とは違う意味で今のマンションは便利がいいのは事実だった。そらの母、河合夕子が経営する小料理屋が北口側にある小さな飲み屋街の中にあるからだ。

 喬生の不在のときにそらが顔を出すと、夕子は喜び半分煩わしさ半分の顔をする。嫁いだ娘が訪ねてくるのは母親として勿論嬉しいが、その動機が夕食をたかりにきているという事実を快く思っていないからだ。


 ――そういうときこそ、家で料理の勉強でもしなさい。


 夕子はそう言ってそらを睨む。

 言わんとすることが理解できないわけではない。しかし、誰も食べてくれない料理などそらは作りたいとも思わなかった。そもそも、1人ぼっちの食卓が好きな人間はそう多くない。

 そして、そらはそれが何より嫌いな人間の1人だった。

 そらの父親、河合雄一郎はそらが小学生のときに交通事故でこの世を去った。私立大学の文学部で講師をしながら小説家を目指していた雄一郎はそらの自慢の父親だったが、甲斐性という点ではごく平凡――率直に言えばやや劣っていた。雄一郎の死後は勿論、生前も河合家の家計を支えていたのは母親の店の売上げだった。

 しかし、それはそらと弟の真治に子供だけでの留守番を余儀なくさせた。歳の離れた幼い弟をあやして寝かしつけた後、1人で食べる作り置きの夕食は子供心にも味気ない代物だった。

 勿論、それは子供時代の話だ。母親と仲違いしていた20代の初めの頃、そらは名古屋市内のアパートで1人暮らしをしていた。時折、付き合っていた男が転がり込んでくることもあったが、数年間の大半をそらは1人で食事をとって過ごした。

 ただ、それを本当に美味しいと思ったことは一度もない。パーティ・コンパニオンのアルバイトでせしめた老舗の鮨屋の特上の折り詰めでさえ。

 そらはバッグから携帯電話を引っ張り出して、母親の店の電話を鳴らした。

「はい、ゆうこです」

 名前を名乗っているのではない。屋号がひらがなで“ゆうこ”なのだ。

「あ、ママ? あたし」

「あら、どうしたの?」

「うん……。今日、お店ヒマ?」

「トゲのある訊き方ねぇ。そりゃ、ウチはそんなに繁盛してませんけど?」

「そういう意味じゃなくて、その……お店に行っていい?」

「喬生さんと?」

「ううん、1人で。喬生さんは出張」

「あら、そう。相変わらず忙しいのねぇ。――いいわよ、いらっしゃい」

 そらは思わず携帯電話を耳から離して液晶画面を見た。テレビ電話ではないので夕子の顔など写っていないが、そこにいつもと違う母親の様子を見出せそうな気がしたからだ。

「どーしたの?」

「なにが?」

「だって、あたしが1人で晩ごはん食べに行っていいかって言ったら、いつも怒るじゃない」

「失礼ねぇ。たまにでしょ」

 同じことだとそらは思ったが口にはしなかった。

「そら、あんた、今どこにいるの?」

「駅前のバスセンター」

「だったら、頼みたいことがあるんだけど。みずほ銀行の近くに新しいお惣菜屋さんがオープンしたの、知ってる?」

 そらが引き受けるとも言っていないのに夕子はさっさと用事を切り出していた。こういうところは昔からずっと同じで、そらは店からの電話で用事を言いつけられて、自宅から真夜中の路地をとぼとぼと歩かされたものだ。

「知ってる。昨日のチラシに出てた」

「食べた?」

「ううん、まだ。それがどうかした?」

「実は昨日のお客さんがスーパー関係のバイヤーさんだったんだけど、ちょうどそこの話をしててね。ちょっと気になってるのよ。ねぇ、何か買ってきてくれない?」

「いいけど……ママ、ひょっとして良いのがあったらパクるつもり?」

「人聞きが悪いわね。参考にするだけよ」

 またしても同じことだが言っても無駄だとそらは思った。適当に見繕って買ってくると告げて電話を切り、駅方向に逆戻りした。

 東が付くという駅名と、愛知環状鉄道に岡崎駅という駅があるせいで分かり難いが、東岡崎駅はこの街の中心駅だ。その駅前はこの時間、家路を急ぐ人々でごった返している。それなのに駅前に唯一あったスーパーが閉店してしまっていて、市民の買い物は広々とした店舗と駐車場を備えた郊外型の大型ショッピングセンターに依存してしまっている。いわゆるドーナツ化現象だ。

 それでもオフィス街にはOLやサラリーマンを見込んだ弁当屋や、仕事帰りの共働きの主婦を当て込んだ総菜店があちらこちらに見て取れる。

 夕子が言った惣菜屋もそういった店舗の一つで、昨今のプチ贅沢ブームを指向するように何となく高級感を演出するような店構えをしていた。

 そらはそこでひよこ豆やキドニービーンズなどの数種類の豆類と春野菜をフレンチドレッシングで和えたサラダ、ジュレ状のドレッシングがかかったサーモンとスライスオニオンのマリネ、サーモンやエビといっしょに酢漬けのパプリカやホワイトアスパラガスを巻き込んだ生春巻、薄切りの豚肉を何層にも重ねた間に梅肉としその葉を挟み込んだトンカツ、それとキャベツや根菜類をパテに混ぜ込んだメンチカツを買った。他にもやわらかく煮込んだ洋風の豚の角煮や具沢山のロールキャベツなどが目を引いたが、それらは似たようなメニューを夕子が作ってみたことがあるのを知っていた。


(誰がこんなに食べるんだろ?)


 そらは支払いを終えて1人ごちてみた。買い過ぎはそらの不治の病であり、喬生の体重増加の大きな要因の一つでもある。

 領収書を貰ってこいとは言われなかったが、自分が持つのは筋違いな気がしたので、そらはしっかり領収書を手にしていた。親子といえどもそういうところのケジメはつける。それはそらががめついのではなく夕子の教育の賜物だった。

 ついでと言ってはなんだが、そらは少し歩いた先にあるイートインスペースもある弁当屋も覗いてみた。そっちはどちらかと言えば質より量、ブランドよりも安さを重視するタイプの店で、メニューも良く言えばポピュラー、悪く言えばありきたりのもので占められていた。おまけに夕方の割引が始まる時間帯なので、当然のことながら、それ目当ての客が割引シールが貼られるのを虎視眈々と見守っている。

 もともと、それほど料理上手ではないそらにとって、本来ならこういう店は大いに活用するべきところだった。事実、結婚する前は頻繁に近くのスーパーの惣菜売り場に足を運んでいたし、今でも喬生がいないときは買ってきたコロッケとポテトサラダ、インスタントの味噌汁で済ませてしまうこともある。毎日はやりすぎだとしても、共稼ぎであることを考えればたまに買ってきた惣菜を食卓に並べてるくらいは許される範囲だろう。

 そらがそうしないのは、初めて手料理を振る舞ったときの喬生の嬉しそうな顔が忘れられないからだった。


 ――でもなぁ……。これ、おいしそうだなぁ――。


 そうは言っても、実際に陳列されているものを見れば食べたくなるのが人情というものだ。

 頼まれた店のものではなかったが、そらはついフラフラと弁当屋の店先に並んでいた薄炊きの牛肉と椎茸のしぐれ煮の試食に手を伸ばした。

 そして、隣に立っていた年配の男性に肩が軽く触れたことを目顔で謝ろうとしたそのとき、そらはその場の誰もが振り返るような大声をあげた。

「草薙さんッ!?」

 そこに立っていたのは服装こそこの前の和服ではなかったが、厳めしい風貌の小柄な老人――草薙伊織だった。

 

 

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