4.
「そら、そんなアンニュイな顔してどーしたの?」
図書館交流プラザの2階にあるカフェで食後のコーヒーをすすっていると、尾崎さつきが声をかけてきた。
2人は職場の同僚である以前に中学校の同窓生でもあった。尤も同じクラスになったことはなかったし、当時は友人ですらなく記憶もほとんどなかった。後になってさつきが同じ司書課に配属されてきたときも、そらはすぐに思い出せなかったほどだ。
打ち解けるきっかけになったのは「互いに名前がひらがな」という他愛もないものだったが、今ではまるで旧年来の友人のように付き合っている。ただし、職場では互いに苗字で呼び合い、名前で呼ぶのは周囲に誰もいないときだけだ。
「ちょっとねぇ」
「元気ないよ。心配事でもあるの?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけどさぁ」
「あ、分かった。あのサニー・チバみたいなお爺さんのことでしょ?」
「変なあだ名つけないでよ」
そらはため息混じりにさつきを睨んだ。さつきが木刀に引っ掛けて言っていることは分かっていたが、草薙伊織は千葉真一が演じる柳生十兵衛のように偉丈夫でもワイルドでもない。
あれから1週間が過ぎていた。
草薙はあの日以来、姿を見せていなかった。具合が悪いというわけではない。3日目にそらは様子伺いの電話を入れていたが、そのときには何も問題はなく、ようやく箸を持てるようになったと受話器の向こうで笑っていたからだ。夫がお礼を兼ねてお見舞いに伺いたいと言っていると告げても、そんなに大げさな話ではないと丁重に断わられていたくらいだった。
「忙しいんじゃないの?」
「そうなんだろうけどさぁ。でも、気になるじゃない?」
「何が?」
「いや、利き腕を怪我してて不自由じゃないのかとか、実はそのことで後から腹が立ってきて、あたしのこと、もう顔も見たくないって思ってるとか」
「考えすぎだってば」
さつきはそらの心配を一笑に付した。
「そんな心の狭い感じの人じゃなかったし、こう言っちゃなんだけど、怪我したこと自体は本人の行動の結果でしょ?」
「そうだけど……」
「だーいじょうぶだって。そのうち、また来てくれるよ。それに、あの人って新聞の縮刷版を見に来てたんでしょ? あれはどこにであるってモンじゃないから」
「そっかなぁ」
縮刷版は確かに安いものではないが、草薙の財力であれば新聞社から直接購入することもできる。そらも草薙がそんな男だとは思っていなかったが、人の心というのは分からないものだとも思っていた。
「そんなに心配だったら、直接家まで行けばいいじゃん」
さつきは事もなさげに言う。そらは驚いたように目を見開いた。
「えーっ、そんなことできないよ」
「どうして?」
「だって、奥さんが出てきたらどうすんのよ。申し訳ありません、おたくのご主人の怪我の原因を作った者ですがって言うの?」
「ちょっと待ってよ、そら。旦那さんといっしょにお礼に行ったら、同じこと言わなきゃなんないんだよ?」
「そーなんだけど、やっぱ1人じゃムリだよ。さつきが着いてってくれるんだったらいいけど」
「おいこら。その歳でナニ甘えてんのよ」
さつきはそらの額をコツンと小突いた。
「それよりもさ、気になってることがあるんだよね」
「なに?」
「ねえ、さつき。昭和57年の2月って何があった月か、覚えてる?」
「……57年ってぇと1982年か。あたしもあんたも幼稚園児だよ。それがどうかした?」
そらは1週間前の出来事をもう一度最初から説明した。
「じゃあ、その草薙ってお爺さんは、57年の2月のことで何か知りたかったってわけ?」
「そうとは限らないけどね。何か思い出して、当時の新聞記事が読みたくなったのかもしれないし」
「草薙さんってクサナギ精工の社長なんでしょ。当時の株価とか会社に関することじゃないの?」
「それだったら自分で図書館に来なくても、会社の人に調べさせればいいじゃない。それはないと思う」
「うーん……」
さつきはしばらく首を捻っていたが、やがて、思い立ったように顔を上げた。
「調べに行こうか」
「えっ?」
「だって、草薙さんが知りたかったことって新聞に載ってるんでしょ。だったら、新聞社のデータベースを検索してみればいいじゃない」
「ちょっと待ってよ。それ、幾らかかると思ってんの?」
「だーいじょうぶ。ウチの旦那、何の仕事してるか知ってる?」
「……あ、そうだね」
さつきの夫は工業系の新聞社で記者をしている。元々は神奈川で知り合った2人なのだが、夫が名古屋支局に転勤になったため、3年前に帰ってきているのだ。新聞社は互いのデータベースにアクセスし合うことにいい顔をしないため、データベースのアカウントは個人名義でとってあることが多く、さつきの夫もそれを持っていた。
2人は受付の裏手にあるスタッフルームのパソコンの前に陣取った。図書館内にもインターネット席があるのだが、予約制である上にアクセス制限が掛かっていて、調査関連の無料サイトしか閲覧することができないのだ。
「さてと、まずはその前に――」
さつきはウィキペディアのメインページを開いた。ネット上の百科事典であるこのサイトは情報の信憑性に若干の不安はあるものの、調べものをするときには非常に有用で、そらも何度か使ったことがあった。
「何するの?」
「まずは、その年の概要くらい掴んどかないとね」
さつきがキーボードを叩くと、画面に〈1982年 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』〉と表示された。その下には〈西暦(グレゴリオ暦)1982年は、金曜日から始まる平年〉とも記されている。
「そうなんだ」
「そうなのよ。まぁ、そんなのどうでもいいけど。何月って言ったっけ?」
「2月」
さつきは〈できごと〉というリンクをクリックした。画面がジャンプしてずらりとこの年の出来事とその日付が羅列される。一番上は〈1月15日-広島市の電話市外局番が3桁化され「082」となる。〉だった。
昭和57年2月に起きた事件は〈ホテルニュージャパン火災発生で33人死亡〉と〈日本航空350便墜落事故、24人死亡〉という痛ましい事故が2つ、それと〈岡本綾子がゴルフのアメリカLPGAツアーで初優勝〉というおめでたいものが1つだった。そらやさつきにとってはいずれも記憶にあるような、ないような微妙な位置づけの事件だった。それ以前にそらには岡本綾子が誰なのかがよく分からなかった。
さつきは航空機事故のページをクリックした。
羽田沖で日航機の機長がエンジンを逆噴射させて墜落した人為的な事故だった。当時はまだ心神喪失というものに理解が乏しく、新聞記事でも機長は実名報道されていたと記述は伝えている。現在ではこのような実際の事件をパロディにするのは不謹慎とされ忌避されるが、当時はそれほどではなかったらしく「逆噴射」や制止しようとした副操縦士が叫んだ「機長、やめてください!」が流行語になったとも記されている。
「……あー、これ、知ってる。ウチの旦那の両親が乗るとこだったらしいんだよね」
「そうなの?」
「うん。九州に旅行に行った帰りだったんだけど、たまたま、お義母さんの忘れ物を取りに帰ったせいで乗り遅れて、それで助かったんだって」
「惜しかったね」
「そうだね」
2人はニコリともせずに言い放った。お互いに嫁・姑問題では苦労させられている同志だった。
当時、草薙の会社の本社は東京にあった。しかも、国内よりむしろ海外で評価が高かったという喬生の話からすると、アジア方面から福岡経由で該当の飛行機に乗るはずだった可能性はある。しかし、それが30年近く経って新聞で読み返したくなる記事であるとはそらには思えなかった。
「それを言うなら、こっちの火事だってそうだよね」
「そうだけど……」
ホテル・ニュージャパンの火災は日航機の墜落の前日に起こっている。こちらも東京都内の出来事であり、当時、東京在住だった草薙に何かの関係があってもおかしくはないが、こちらもわざわざ思い返したくなる出来事だとは思えない。
岡本綾子についてはそらもさつきも大したことは知らないので何とも言えないが、草薙にはゴルフのイメージがあまりないという点で意見は一致した。少なくとも、プロゴルファーの動向に興味があるようには見えなかった。
「ってことは、やっぱり個人的な出来事なのかな」
そらは大きく息を吐いた。
「そうじゃなきゃ、ここでは取り上げられてない事件だろうね。この年の2月に起きた事件が3つってことはないだろうから。――さてと、それじゃあ、データベースにアクセスするか」
さつきは検索エンジンから新聞社のサイトに移り、会員制の記事閲覧のページを開いた。アカウントを入力するところまで操作にはまったくよどみがない。
「……ずいぶん慣れてるね」
「まぁね、よく使ってるから」
「それ、旦那さんの会社がお金払ってるんでしょ?」
「課金制じゃないからバレないよ。えーっと、なんて言葉で検索しようか」
「事件のことじゃないなら、自分か家族のことだろうからね。名前でいいんじゃないの」
さつきは検索窓に〈草薙〉と入力した。
「ヒットはゼロ。どーする?」
「どーしよ。カタカナとか。会社の関連記事かもしれないし」
今度は〈クサナギ〉と入力したが、同じく反応はなかった。
それからしばらく、そらは思いついたキーワードを並べて、さつきがそれで記事検索を繰り返した。しかし、ヒットする記事はほとんどなく、あっても何の関連があるのか分からないような代物ばかりだった。
「……やっぱダメかぁ」
さつきは最後にはエンターキーを乱暴に叩いていた。他の職員の視線を感じて、そらは慌ててそれをやめさせた。
それ以上、粘ったところで成果があるとは2人には思えなかった。そろそろ昼休みも終わる時間になる。サイトを閉じて、2人はスタッフルームを後にした。
「まぁ、気にすることないと思うよ。何だったら、あたし、着いてってあげてもいいし」
何も見つからなかったことに責任を感じて、さつきはそう言った。そらは軽く首を振った。さっきは着いてきてくれと頼んだそらだったが、本心ではそんなことは思っていなかった。
売店で買い物を済ませてくるというさつきと別れて、そらは児童図書館に向かって歩いた。
――草薙さんは何を知りたかったんだろう?
この1週間というもの、その疑問はそらの頭から離れようとしなかった。自分の名前に興味を示した老人が遠い昔の何を知ろうとしたのか。それはそらにとって重大な関心事になっていた。
でも、それってプライバシーだよね。
そうも思う。なのに、さつきに唆されたとはいえ、そらは草薙の私的な領域に勝手に踏み込もうとしていた。
足取りは重かった。何も分からなかったからではない。自分が興味本位で覗き魔のような行為に手を染めたことに気づいたからだった。