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熾火  作者: 須藤彦壱
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3.

 

 

「――お手数をおかけしました。……いえ、こちらこそ。どうもありがとうございました」

 そらは受話器を下ろした。

 母親が手配してくれた自動車屋から、草薙のアストンマーチンを無事に彼の自宅に運び終えたとの連絡だった。草薙の杖――というか、木刀――もその助手席に載せられていっていた。

 本当はきちんと最後まで付き添いたかった。

 しかし、草薙のマンションは岡崎市と豊田市の境に近い郊外にあって、そこまで着いて行っては帰りが遅くなりすぎてしまう。住所を確認するためにかけた電話でも「心配には及ばない」と念を押されたこともあって、そらは自宅に帰っていた。

 そらは携帯電話を手に取った。メモリには草薙の番号が登録してある。利き手を怪我していては何をするにも不便に違いないと思って半ば強引に交換した番号だったが、掛かってくる気配はなかった。


(やっぱり着いて行けばよかったかな)


 そう心の中で呟いて、そらは自分が過剰に気を揉んでいることに気づいた。草薙にだって家族がいるはずだ。それなのに自分が押しかけていっては却って話をおかしくしてしまうだろう。

 小さな溜め息と共に携帯電話を充電器に載せた。同時にバスルームの扉が開いて夫の喬生が出てきた。

「どうだった?」

 そらとはちょうど一回り違いの40代半ば。歳相応に渋さのある中年顔なのだが、愛嬌のあるまん丸な垂れ目のせいで悪戯っ子のような印象を与えている。誰に似ているかと問われれば10人中10人がジャン・レノと答えるに違いないが、当の本人は後退する一方の前髪を揶揄されていると思っていてあまりいい顔をしない。

「ちゃんと届いたって」

「そりゃ良かった。今度、菓子折りでも持ってお礼とお見舞いに行かないとね。ウチのそらがお世話になりましたって」

「子どもじゃあるまいし」

 そうは言いながらも、そらの表情は少し綻ぶ。

「ご飯にする?」

 喬生は「そうだね」と言いながら頷いた。タオルで頭を拭いながらリビングに出てきて、テーブルにおいてあった眼鏡をかける。丸みのある眼鏡をかけると更にジャン・レノに似てしまうのでしばらく角ばったボックスフレームにしてみたが、似合わなかったので先日作ったものから以前の丸眼鏡に戻している。そらはそちらのほうが断然好みだったので秘かにほくそ笑んでいる。

「今夜のメニューは?」

「ハタハタのお煮つけとれんこんのキンピラ、玉ねぎとジャガイモの味噌汁」

「おっ、和食だねぇ」

 喬生がメタボリック症候群気味なこともあって、樋口家の食卓における魚の割合は急速に上昇している。独身時代は肉と魚では間違いなく肉を選んでいた喬生は、正直に言えば当初は不満だった。しかし、近ごろははそらの煮魚の味付けがいい塩梅になってきたこともあって、魚も悪くないと思い始めている。

 夫婦生活とはすべからく慣れること。そらの母親がいつぞや、それができずに最初の結婚に失敗した娘婿に語った一言だ。

「食べよっか」

「あ、できたらその前にビールを一杯――」

「ちょっとぉ。それじゃ、ウォーキングしてきた意味ないじゃない!」

「そこを何とか」

 喬生は顔の前で小さく手を合わせて微笑みながら、お願いしますのポーズをとる。

「もう、しょうがないなぁ。それじゃなくても、今の季節は汗が出ないって言ってなかった?」

「汗は後でベッドでかくよ」

「ホント? 最近、週末しかしてくれないから、ちょっと欲求不満なんですけど?」

 そらは切れ長の目で喬生を睨んだ。喬生には子どもっぽく見えることも多いそらも、こういう表情をするとやけに艶がある。

「新婚のときみたいにとは言わないけど、せめて週2はペースとして守って欲しいな」

「その件につきましては前向きに検討させて戴きます」

「なによ、それ。政治家みたい」

「まー、そのー」

 喬生は伏目がちのしかめっ面に下唇を突き出す、本人だけが似ていると思っている田中角栄の顔真似をした。数え切れないほど見せられているのに我慢できず、そらは盛大に吹き出した。



 その夜、約束どおりにベッドでたっぷり汗をかいてから、そらはもう一度、閉鎖書庫での出来事を喬生に話していた。

「……そうかぁ。僕としてはそらに怪我がなくて何よりだけど、素直に喜んでもいられないね」

 喬生は腕枕の上にちょこんと載せられたそらの顔を見やった。

 最近買いなおしたばかりのダブルベッド。前のセミダブルは以前に住んでいたマンションの部屋に合わせて買ったものだったが、学生時代からスポーツマンでガッチリした体格の喬生とお世辞にも小柄とは言い難いそらにはやや窮屈だった。引っ越すときにそらが挙げた部屋の条件の一つは大きなベッドが置けることで、今のマンションはそれを充分に満たしていた。それから半年、ようやく夢がかなったというわけだ。

「そうなんだよねぇ……。でも、何かできるってわけでもないし」

「そのお爺さん、何て言ったっけ?」

「草薙さん。下の名前は伊織っていうんだって。時代劇の人みたいだよね」

「伊織って確か、宮本武蔵の息子の名前じゃなかったかな」

「そうなんだ?」

 そらは仰向けだったのを小さく身を捩って、喬生のほうに向き直った。

「イメージにはぴったりかも」

「木刀持ち歩いてるんだろ。本当に武士の末裔なのかもね」

「でも、車はイギリスのなんだよ。すっごく大きくて――なんていうのかな、エレガントな感じの銀色でね。課長がすんごい高級車だって言ってたけど」

「何て車だい?」

「えっとね、アストンマーチン――そう、アストンマーチンのDB5っていうの。007に出てくるボンド・カーと同じクラシック・カーなんだって――って、あれ?」

 そらは喬生の顔を覗き込んだ。喬生は訝しげに眉根を寄せていた。

「どうかした?」

「いや、ウチのお客さんでアストンマーチンに乗ってる人がいるんだけど――」

 喬生が勤めている損保代理店では自動車の保険も扱っている。西三河では指折りの大手代理店であり、管理職の喬生とて扱っている契約のすべてに通じているわけではないが、それでも特異な契約に関することは耳に入ってくる。

 数年前、喬生の部署に契約している特約店からクラシック・カー保険について問い合わせがきたことがある。そういう保険の存在は知っていたが実際に取り扱ったことはなく、また市場価格などあってないような英国製高級車の車両保険の基準額を幾らにするか、喬生の上司である部長と保険会社の担当者が電話口で答えの出ない議論を続けていた様子をよく覚えている。それに元よりアストンマーチンは誰でも乗っているという類の車ではない。

「ということは、そらを助けてくれた草薙さんってのは、あの草薙さんなのか」

「喬生さん、知ってるの?」

「知ってるも何もお得意さんだよ。しかも社長の担当顧客」

 喬生の会社では財界の大物や政治家、大企業の社長一族に限って、社員ではなく社長自らが直接担当する慣習になっている。

「そんなに偉い人なの?」

「そら、クサナギ精工って知ってるかい?」

「聞いたことあるような……ああ、豊田にそんな会社があったっけ。高校の同級生が勤めてるはずだけど――って!?」

 そらの目が驚きに見開かれた。

「まさか、草薙さんってあそこの社長さんなの?」

「そうじゃない。いや、10年くらい前まではそうだったんだけどね。本社が関東に移転したのと一緒に東京に行ってたそうだけど、5年くらい前にリタイヤしてこっちに戻ってきたって聞いてる。経営からは身を引いたそうだけど、今も筆頭株主なんじゃなかったかな」

「そうなんだぁ……」

 それからしばらく、喬生は草薙の会社について自分が知っていることをそらに話した。

「要するに草薙さんの会社って電器屋さんなの?」

「ちょっと違う。家電メーカーじゃないから、直接には僕らの目に触れることはないね。でも、そういったものの中に使われてる部品にはクサナギ精工のものもある。特許を持ってたり、国内では作れるメーカーが他にないからってほぼ寡占状態のものもあるんだって」

「へぇ、すごいんだぁ」

「そうだね。でも、本当にすごいのはそこじゃない。元々、クサナギ精工は精密工作機械を作る会社なんだ」

「精密……工作機械?」

「精密な部品を作るための機械――っていうと分かりにくいけど、ほら、精密な部品を作るためには作る側の機械が精密に動いてくれないと困るだろ?」

 そらはコクリと頷いた。

「そりゃそうだね」

「草薙さんとこで作ってるのは、そういう物凄い精度で動く工作機械なんだ。ヨーロッパの機械メーカーが直接買い付けに来たり、アメリカに輸出してたりで、どっちかというと国内よりも海外で評価が高いらしいんだけどね」

「へぇ……」

 もはや感嘆するしかない。そらは機械モノが好きな喬生が興奮気味に話すのを聞きながら、脳裏に草薙伊織の横顔を思い浮かべていた。そういう経歴の持ち主だと言われれば、確かにお大尽の貫禄を漂わせていたような気もする。着ていた和服も安物っぽくはなかった。木刀が銘のある逸品なのかどうかはそらには分からなかったが。

「でもさ、そら?」

「なぁに?」

「そんな会社の元社長が図書館に何の用事があったんだろうね」

「こら、図書館をバカにするなぁ」

「バカにはしてないよ。でも、わざわざ図書館で本を借りなくたって、イオンモールにいけばバカでかい本屋があるだろ」

「新聞の縮刷版を見に来てたんだよ」

「縮刷版? 何でまた?」

「……それは知らないけど」

「でも、それだって今ならインターネットで新聞社のデータベースにアクセスしたほうが早いんじゃないのかな」

「そういうの、苦手なのかもよ?」

「コンピュータ制御の機械の設計をやってた人が?」

「知らないよ、そんなの」

 しかし、喬生の言いたいことは理解できた。そら自身も不思議に思っていたことだからだ。仮に草薙がインターネットをうまく扱えなかったとしても、周囲に代わりにやってくれる人など幾らでもいるだろうに。

 それと昭和57年の2月という、すぐには何があった月か分からないほど昔の新聞から草薙が何を知ろうとしていたのか。病院の待合室で訊きそびれた事柄は、そらの胸の中で静かにわだかまっていた。

 

 

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