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熾火  作者: 須藤彦壱
26/27

26.

 

 

 草薙が戻ってきたのはおよそ三〇分後のことだった。本堂に入る前に頭や肩口に積もった雪を落としてきてはいるが、濡れた白髪は無造作に手でひっつめ気味に整えただけで、うっすらと湿った着物と相まって死地から舞い戻った亡霊のような様相だった。

「草薙さん!」

 そらは火鉢の傍から立ち上がり、手にしていたバッグからハンドタオルを引っ張り出して草薙の顔にあてがった。小柄な老人の身体を覆う湿気を拭きとるにはあまりにも非力だったが、草薙は礼を言いながらタオルを受け取り、額や首筋をぐいと拭った。

「墓参りは済んだか?」

 住職は火鉢に手をかざしたまま、厳しい表情を草薙に向けた。田舎の年寄りらしいラフなスウェットの上下から僧侶らしい墨染め衣に着替えている。

 草薙はそらにタオルを返し、住職の前に立った。歩を進める度に濡れた着物が重い衣擦れの音を立てた。

「済んだ」

「友矩は何と言っていた?」

「……何も。死人は喋らんよ。生きている者が言って欲しいと望んでいることを、勝手に死人の言葉ということにしているだけだ。違うか?」

「違わんよ。先祖や先に逝った者たちと向かい合うことは、結局、己と向かい合うことに他ならん。御仏に手を合わせることもまた然り」

「生臭坊主のくせに殊勝なことを言う」

「血生臭さではおまえに遠く及ばんよ、伊織。少し火に当たって暖をとれ。茶でも淹れよう」

 住職は手元の盆を引き寄せ、火鉢の上に置いてあった小さな薬缶を手に取った。すでに急須に茶葉が入れてあったらしく、そうした仕種をすることなく住職は薬缶から熱い湯を注いだ。

 そらは自分が座っていた座布団を少し動かして草薙が座る場所を作った。彼の分の座布団も持ってこようとしたが、その前に草薙がどっかりと板の間に胡坐をかいたので、そらは仕方なくその隣に腰を下ろした。

「ふう……暖まる」

 草薙は火鉢に手をかざした。古い本堂の心もとない灯りの下では血の気の引き具合など分かるものではなかったが、古木――いや、朽木を思わせる脂っ気のない手指の形は見て取れた。触ってもいないのに、そこに人の温かみを思わせる熱がないことをそらは感じていた。

「火鉢を見るのは初めてでしょう?」

「えっ? ええ、まぁ……」

 不意の問いにそらは声が裏返りそうになるのを懸命にこらえた。

「我々が子供の頃は暖をとると言えば火鉢くらいしかなかった。まぁ、未だにこんなものを使っているのはこのボロ寺くらいのものでしょうが」

「余計な御世話だ」

 住職が毒づく。そらはそれに合わせて曖昧な笑みを浮かべた。

 そらも古民具を扱う店や祖父母の家で火鉢くらい見たことがある。ただ、使ったことはなかった。かざした掌に受ける力強い暖かさと裏腹に、ほんの少し離れただけで温もりを感じられなくなる儚さは、そらの知る暖房器具とはまったく違っていた。

「入ったぞ」

 青い染め絵が擦り切れた湯呑が火鉢越しに突き出された。冷えた空気に向かって湯気が猛烈な勢いで立ち上っている。

 草薙は礼を言わずに湯呑を受け取り、顔をしかめながら口に運んだ。案の定、人が飲める温度ではなかったようで、草薙は小さく舌打ちして湯呑を口から離し、住職を剣呑な眼差しで睨みつけた。住職は素知らぬ顔をしていた。

「相変わらず猫舌か。情けないな、伊織」

「莫迦なことを言うな。こんなもの、猫舌でなくても飲めんぞ」

「どれ?」

 同じ急須から注がれた茶を住職は無造作に口に運び、ズズズッと行儀の悪い音を立てて啜ってみせた。しかし、住職の横顔を見られる位置のそらには彼が湯呑に口を付けておらず、口真似で器用に啜った音を出しているのが見えた。

「飲めるぞ?」

「……やかましい。そんなことより、さっさとこちらのご婦人に茶を出せ」

「言われなくとも」

 そらにも茶が出されたが草薙の分を淹れてから少し薬缶を火から外してあり、そらの分は少し熱めという程度の温度だった。そらが苦もなく茶を飲んで見せると草薙のしかめっ面がより深いものになった。

 憮然とする草薙ととぼけてみせる住職を交互に見ながら、そらは彼らが幼馴染だった遠い昔の残滓を見いだそうとしてみた。あるいは、そこにはここにいない二人の姿もあったのかもしれない。草薙兄弟の弟、草薙友矩。そして、後に草薙伊織の妻となった女性――草薙史恵。

 しばらくの間、誰も口を利かなかった。時折、三人の誰かが茶を啜る控え目な音がするだけだった。やがて茶はなくなったが誰もお替りを求めず、その場に沈黙が満ちた。

 口を開いたのは住職だった。

「――伊織」

「何だ?」

 住職は問いに応えなかった。代わりに傍らの床に置かれた細長い布袋を手に取り、草薙の目の前に突き出した。


 久しぶりにおまえの剣が見たい。


 住職は墓参りに向かう草薙の背中に向かってそう言った。そうであれば、これは草薙に振るわせる木刀なのだろう――そらはそう思った。

 草薙は表情を変えることなく漆黒の布袋を受け取った。そして口紐を解くと、無造作な手つきで中身を引っ張り出した。

 それは長さ一メートルほどの打刀だった。錆びた金具のついたツヤのない鞘、飾り気のない一枚板の鍔、褪めた色合いの青い紐を巻いた質素な柄。素人であるそらにもそれが銘のある名刀などではないことは分かった。

「これ、本物ですか?」

「左様。草薙家に伝わる五本刀の一振りだそうな」

 問いに応えたのは草薙ではなく住職だった。草薙は住職を一瞥しただけで、ゆっくりと鞘から刀身を抜き放った。

 銀色に光る細長い鉄の塊はゆるやかに弧を描き、鋭く尖った切っ先へと優美な線を形作っている。薄暗い本堂の灯りを照り返す刀身には一つの曇りもなかった。美術館に飾られている刀剣のような華美な装いこそなかったが、日本刀が武器であると同時に美術品であるというのも納得だとそらはぼんやりと思った。

「この刀を見るのは久しぶりだろう、伊織」

 住職はいつの間にか注いだお替りの茶をズズッと啜った。

「……友矩の通夜以来だ。まさか、取ってあったとは思わなかった。てっきり警察に押収されたものとばかり思っていたよ」

「草薙の本家の先代が上層部に掛け合ったんだ。一族の結束の証として拵えられた五本のうちの一本だから、だそうだ」

「残りの四本も散逸して、今や何処にあるかも知れんのだがな。おかしなものだ。五本のうちの一本だけ、血を吸ったこの刀だけがこうして残っているなんてな」

「……血を吸った、ですって?」

 そらには意味の通らないやり取りを二人の老人は淡々と続けていた。口を挟む気はなかった。だが、その言葉はやりすごせるものではなかった。

「どういうことなんですか?」

 二人の老人は目の色を探り合うように互いを見やった。だが、ここまで話しておいて秘密にするつもりはどちらにもなかった。単に説明役を押し付け合っていただけだった。

 今度は口を開いたのは草薙だった。

「草薙友矩――私の弟が自殺したというお話はしたと思います。確か、ホテルに向かうタクシーの中で」

「……ええ。納屋で首を吊られたと」

「それは世間体を気にした本家がでっちあげた話でしてね。本当は友矩はこの刀で己の命を断ったのです。遺書をしたため、白装束に身を包み、まるで切腹でもするかのように。長い太刀では腹はかっさばけませんから、代わりに頸動脈を断って」

 

 

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