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熾火  作者: 須藤彦壱
24/27

24.

 

 

 鈍い鉛色だった空はすっかり暗くなり、金沢の中心街には色とりどりの灯りが点り始めていた。

 二人を乗せたタクシーはそれらに背を向けるように郊外へと走り続けた。車中では草薙は押し黙ったままで、そらに何も説明しようとはしなかった。そらも何となく訊きづらい雰囲気に黙っていることしかできなかった。

 やがて、タクシーはすっかり雪に覆われてしまった寺の門の前に停まった。

「ここですか?」

 そらの問いに草薙は薄い笑みで応えた。

「そうです。先程申し上げた、我々兄弟と史恵にとっての想い出の地、といったところでしょうか」

 そうであれば、この寺の並びは草薙の父親の生家や草薙史恵の実家――加賀藩前田家の剣術指南役にルーツを持つ草薙一族の本家があった場所でもある。

 だが、寺の前を通る道沿いにそれらしき趣きの家屋は見当たらなかった。寺をぐるりと囲う背の高い築地塀の向こうには保育園らしきカラフルな建物があり、それは寺の経営によるものかもしれなかったが、その向こうは一階にセブンイレブンが入居する賃貸マンションや雑居ビルの並ぶ、ごくありふれた街並みだった。車の往来はほとんどなく、アスファルトに薄く積もった雪を踏みしだく音が聞こえるほどだ。

 そらは草薙が「紆余曲折あって他人の手に渡ってしまった」と言っていたのを思い出した。草薙は遠い昔を思い出すように深い溜め息を洩らした。

「長らく足を運ばないうちに、この辺りもすっかり変わってしまいました。私が最後に来たときには、あのコンビニは個人経営の酒屋だったのですよ。今はもう、店そのものが人手に渡ったと聞いていますが」

「そうなんですか?」

「コンビニエンスストアのフランチャイズが全国に広まり始めた頃、彼らが最初に目を付けたのは街の個人経営の酒屋でした。まだ、今のように自分たちで直営店を出せるようなノウハウはなかったし、そんな金銭的な体力もなかったから、そうした店を転業させる方法を採ったのです。酒屋の側も少し前から増え始めた量販店に押される一方で、ジリ貧になる前に勝負に打って出た訳ですな。ですが、まぁ、最初の話と違って経営が軌道に乗らず、ロイヤリティや仕入れの支払いが出来ずに店を取られるケースも多かったのですよ――いやいや、これは余計な話でしたな」

 生まれて物心がついた頃にはコンビニエンスストアが当たり前のように存在していた世代のそらには今ひとつピンとこない話だったが、同じようなケースで店を失った人が母親の飲み屋の常連客にいたことをそらは思い出していた。

「さて、凍え死ぬ前に入りましょう」

「はい」

 草薙は勝手知ったるという足どりで、そらを〈浄福寺〉という寺号がかろうじて読める薄汚れた表札が掲げられた山門に誘った。

 うらぶれた外観に反して、境内は小さいながらも浄土式庭園の様をなしていた。風格のある木造の本堂の前には広い庭があり、その向かいに園池が広がっている。僅かばかりの月明かりと差し込んでくる街灯が雪に覆われた真っ白な空間を仄かに浮かび上がらせていたが、静けさも手伝って、それはひどく現実感を欠いていた。

 幼き日の草薙兄弟が幼馴染の少女のままごとに付き合わされたのは、この庭だったのだろうか。そらは我知らぬうちに、その場所に平和だったであろう日々の残滓を見いだそうとしていた。

「――河合さん?」

「はいっ?」

 老人の静かな呼びかけは、何故か、ひどく唐突なものに聞こえた。一方、思わぬ大声に草薙も面食らったように目を瞬かせた。

「どうか、されましたかな?」

「いえ……」

 怪訝そうな表情に無理矢理作った笑みを返し、そらは老人の後に続いた。

 二人は雪の中に飛び石のように浮かぶ敷石を踏みながら本堂の裏手へ歩いた。寺の建物や鐘突堂は総じて良く言えば歴史を感じさせる、悪く言えばかなり古びているが、本堂の奥に現れた家屋は小ぶりだが真新しい数寄屋造りの邸宅で、宗教的な様相を帯びてもいなかった。寺の景観からはすっかり浮いてしまっていて、そらがそのことを言うと草薙は苦笑した。

「坊主のくせに昔から派手好きな男でしてな。浄土真宗で無戒なのをいいことに世俗にまみれきっておるのです」

「そうなんですか?」

「会えば分かりますよ」

 草薙は〈井伏〉と書かれた表札の下の呼び鈴を押そうとした。しかし、先に来客に気付いていたのか、ドタドタという足音と共にガラリと引き戸が開けられた。

「おう、よく来たな」

 顔を出したのは羽根をむしり取られた鶏を連想させる、丸眼鏡を掛けた貧相な顔立ちの老人だった。寺の来客が訪れる時刻でも天候でもないせいか、グレーのスウェットの上下に青い半纏というラフな格好だった。

 住職はぶっきらぼうに「さっさと中に入れ」と言うなり、自らも下駄を放り出すように脱いで玄関の小上がりを駈け上がった。

 二人は玄関脇の居間に招き入れられた。外観は数寄屋造りだが部屋の中は茶室めいた華美な造りではなく、むしろ質素だと言えた。和室には不似合いな向かい合わせのソファセットがあって、スイッチを入れたばかりのエアコンが懸命に温風を吹き出している。正座するのは厳しいなと思っていたそらは内心でホッとしていた。

 住職は「茶で構わんな?」と言い残して部屋を出ていった。

「驚かれましたかな?」

「ええ、まあ」

 そらとて妙齢の夫人であり、本来であれば「そんなことはないですよ」とでも言うべきところだったが、仕種といい、格好といい、ここ以外の場所で見かけたら絶対に僧侶には見えないに違いない住職に思わず本音が出た。

 住職がドタドタと足音を響かせながら戻ってきたのはすぐのことで、片手には湯呑と急須を載せた盆、反対の手には年季のいった古い魔法瓶を提げていた。立ち上がろうとしたそらを目顔で制して、住職は上座側のソファに腰を降ろして茶を淹れ始めた。

「ところで伊織、悪口は当人に聞こえんように言わんか、この莫迦者が」

 住職は眼鏡の奥から草薙をギロリと睨んだ。しかし、草薙は意にも介した風ではなかった。

「聞こえていたのか? 年寄りのくせに相変わらずの地獄耳だな」

「地獄耳という言葉をその意味で使うのは間違いだ、と前に教えた筈だがな」

「仏教用語の誤用は他にもあるだろう。他力本願とか」

「確かにそうだが、だから誤用が許されるという話でもなかろうよ。分別の付いた年寄りなら特にな」

 他力本願という言葉を〈人任せ・無責任〉の意味で使うのが本来の意味からして誤用であることくらいはそらでも知っている。だが「では、本来の意味は?」と問われても答えられない。

 ごく大雑把に言えば「他力」とは仏や菩薩が自らが持つ優れた能力をもって他の菩薩や衆生に加え施す力を指し、そこから転じて、自ら以外の他者の本願力はたらきのことを指すのだが、これが浄土真宗では解釈が異なるなどして、仏教に詳しくない者にとって余計に理解を困難なものにしている。

 住職は湯呑を二人の前に置き、自分も湯呑を口に運んだ。

「僧堂の建て替えの話はずっと前からあって、形を大きく変えないように図面まで引いてあったんだ」

「だったらどうして?」

「檀家の一人が建設会社に勤めとるんだが、そこの会社がさるご大尽の注文住宅を請け負っとったんだ。ところが肝心の施工主が脱税でとっ捕まってな。当然、注文はパァ。返品やキャンセルの利かない材料が結構あって、このままじゃ責任を取らされてクビにされる――なんて話を聞いて、知らん顔は出来まい」

「人が良いんだな」

「おまえと違ってな、伊織。それにしても、予想外と言えばこれ以上の予想外の来客はない」

「坊主のくせに嘘をつくなよ。姉さんから連絡が来てたんじゃないのか?」

「おまえが金沢に来ているという連絡は来てたさ。しかし、ここを訪ねてくるとは思っちゃいなかったよ。ましてや、こんな若い女を連れてくるなんてな」

 住職はニタリと笑いながら右手の小指を立ててみせた。

「黙れ、生臭坊主。こちらは河合夕子さんだ。河合さん、こいつは私たち兄弟の幼馴染で、こちらの寺の住職の澄道ちょうどう和尚」

院住いんじゅう。ウチは在家仏教だからその呼び方は使わんことも、前に教えた筈だ」

「ということだそうです、河合さん」

 草薙はそらを振り返った。声に僅かに含み笑いのニュアンスがあった。

「この男、本名は「和尚」と書いてカズヒサと読むのですが、そのままだと「和尚・和尚」になるからと言って名前を変えたのですよ」

「変えてない。僧名は普通は名前の読みを変えるか、名前から一文字とってつけるものだが、ウチの寺は歴代の住職の名前を戴くしきたりになっとるだけだ。おまえたちが勝手に笑い話にしようと囃したてているだけじゃないか」

「言い出しっぺは俺じゃないよ」

「じゃあ、誰なんだ?」

「友矩だよ」

 いかにも幼馴染らしい丁々発止のやりとりをしていても、その名が出れば場の空気が凍りつくのではないか――そらはそう思っていた。しかし、目の前の二人の老人に変化はなかった。少なくとも外見上は。

 住職はわざとのようにズズッと音を立てて茶を啜った。

「ようやく墓参りをする気になったのか、伊織」

 草薙はしばらく沈黙していたが、やがて、目の前の湯呑を掴んで茶を飲み干した。

「――ああ。ようやくな」

 

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