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熾火  作者: 須藤彦壱
23/27

23.

 

 

「上手くいったようですな」

 草薙の声には明らかな安堵の響きが含まれていた。だが、その静かな声音がそらの中で何かに障った。

「上手くいった、ですって? これのどこがですか!?」

 抑えようとしても声のヴォリュームが上がっていく。歳はさほど離れていなくても、修羅場の経験値は弥生とそらでは大きく差が開いているようだった。

 だが、その反応も想定の範囲内と言わんばかりに、草薙は落ち着いた様子ですっかり冷めてしまった紅茶を口に運んだ。

「おっしゃることは分かります。ですが、予想していたより揉めませんでした。まぁ、向こうにしてみれば、私がぐずぐず言わずに離婚届に判を押せば目的は果たされる訳ですしね。むしろ、余計なことを言って、私がへそを曲げるのだけは避けたかったのでしょう」

「……どういう意味ですか?」

「私が知る弥生はあんなに大人しい娘ではありません。何の制約もないのなら、あの10倍以上の罵詈雑言を浴びせられたことでしょう。何せ、あの子は苛烈な輩が多い草薙家の血を色濃く引いていますのでね」

「色濃く?」

 どういう意味だろう。そらは目を丸くする。草薙の口許がわずかに緩んだ。

「私と妻の史恵ははとこで、幼馴染に当たるのです」

「幼馴染って……草薙さんって金沢のご出身だったんですか?」

 そらは意外そうに言った。というのも、例のマイクロフィルムを捜す過程で何度か目にした草薙本人に関する記事の大半では、彼のことを郷土の実業家と取り扱っていたからだ。だが、草薙は小さく首を振った。

「いやいや、生まれは愛知ですよ。父の代に金沢の織機メーカーから分家して今の土地に引っ越しましたのでね。ですが、ちょうど戦後の高度成長期だったこともあって両親ともに仕事三昧でしてね。姉の瑞穂と私、弟の友矩の三人は休みになると金沢の父の生家に預けられていたのです」

「奥様とはその頃に?」

「ええ。父の生家は史恵の実家のわずか三軒隣なのです。今では紆余曲折あって他人の手に渡ってしまいましたがね。同じ並びに小さな寺がありまして、その境内が我々の遊び場でした。午前の剣の稽古が終わって夕方の稽古が始まるまでの間、よく彼女のままごとの相手をさせられたものです」

「弟さんと二人で?」

「……ええ、まぁ」

 草薙は口ごもった。居心地の悪そうな表情を、そらは口に運んだカップ越しに伏し目で覗いた。

 弟――草薙友矩の名を出せば草薙の口が重くなるのは分かっていた。だが、そらはそれを敢えて口にしていた。

「奥様は許嫁だったんですか?」

「……は?」

 よほど意外な質問だったのか、草薙は少し呆けたような顔をした。

「違うんですか? そうでもなければ、遠く離れた土地に住んでる幼馴染の女性と結婚するなんてないかなぁって思ったんですけど」

「なるほど。そういう考え方もあるわけですな」

 そらは的外れなことを言ってしまったのかと顔を赤らめた。それを見た草薙の頬が緩む。

「きっかけは史恵が名古屋の女学校に進学することになり、私の父がその身元保証人を引き受けたことでした。当時、私はすでに父の会社で働いておりまして、学校への送り迎えやら、彼女が出掛けるときにはボディガード兼荷物持ちのようなことをさせられていたのですが、そのうちにどちらからともなく惹かれあっていったのです」

「ロマンティックなお話ですね」

 草薙は小さく咳払いした。

「――年寄りをからかわないで戴きたい。ですが、事はそう簡単に運びませんでね」

「どういうことですか?」

「同じ草薙家の人間でもこちらは分家の次男の小倅、あちらは本家の当主の箱入り娘でしてね。一族内での格は彼女の方が数段上なのです。ですから、史恵が私に嫁ぐとなったときはずいぶんと揉めました。元を辿れば加賀藩前田家の剣術指南役にルーツを持つ家系で流派の継承を最大の目的としてきた本家と、明治維新以降に本家を支える為に様々な業種に進出して財力を持った分家では、力関係はすっかり逆転しているのですよ」

 草薙の厳しい顔立ちにはあまり似合わない、皮肉めいた笑みが浮かんだ。

「口さがない親戚筋には商売が上手いだけの分家の小倅が本家の娘を娶って、一族内での発言力を増そうしているのではないか、などと勘ぐられたりしましてね。当主――史恵の父親は私がそういうつもりがないことを分かってくれていたようですが、叔父貴どもが名実共に一族の稼ぎ頭であった私の父をやっかんでいたのもあって、冗談抜きで命を狙われるのではないかと思ったほどでした」

「そんなことがあるんですねぇ……」

 現代日本にもそういう一族内の序列とか、本家と分家といった封建時代のような関係が実在していることにそらは驚いていた。おかげで呆けたような返事しか出来ない。

 だが、そらが北陸に来ることを承諾して以降、ずっと抱き続けている疑問が弛緩した雰囲気を押しやった。

「そこまでして迎えた奥さんなのに、どうしてこんなことになっちゃったんですか?」

「どうして……どうしてでしょうな。私もずっと考えているのですよ。どこでボタンを掛け違えてしまったのか、どこで糸を絡ませてしまったのだろうか、とね」

「本当にそう思ってるんですか?」

「……これはまた、手厳しい」

 度を越した干渉であることは分かっていた。しかし、ここまで関わらせておきながら「それはプライバシーに関わるから」などと間の抜けた言い訳を許すつもりはそらにはなかった。

「草薙さん、良ければ教えて欲しいことがあるんです」

「何でしょう?」

「弟さんのことについて、です。草薙さんはどうして弟さんのお墓参りをされないんですか?」

 唐突な質問に草薙は目を丸くした。

「……それと、この件に何の関係がおありですかな?」

「分かりません。分からないから訊いてるんです」

 草薙弥生が生まれて一年後に自ら命を絶った弟、草薙友矩。その墓参りに断固として行こうとしない草薙に対して、彼の姉は「まだ弟のことが許せないのか?」と問うた。

 相手が死して40年が過ぎても許せぬ罪。そらの想像を遥かに超える、文字通りの怨讐と言ってもいい感情。だが、目の前の老人がそんなものに囚われているとはそらには思えなかった。そんな心の狭い人間が、何の義理もない自分たち夫婦を助ける為にあそこまで力を尽くしてくれるだろうか。

「わたし、思うんです。草薙さんが許せないのは本当は弟さんじゃなくて、ご自分なんじゃないかって」

「……ほう?」

 意外そうな表情を貼り付けた老人が否定の言葉を捜しているのはそらにも分かった。だが、決してそれがこの場で見つかる筈はないことも分かっていた。

 そらの確信に草薙は短い溜め息で応えた。

「どうやら、あなたを誤魔化すのは不可能らしい。――姉の話では窮屈な着付けだそうですが、もう少し大丈夫ですかな?」

「――ええ、まぁ」

 草薙の姉が言うほど着付けに無理はなく、苦しくもなかった。

 勿論、普段は着慣れていないことからくるストレスの類や、最初に見せて貰った振袖には及ばなくてもそこそこの高級品を借り受けていることからくる緊張はある。だが、ギブアップして着替えに戻らなくてはならないというほどではない。

「何処に連れて行ってくれるんですか?」

 ロビーを通り抜けてホテルのエントランスでタクシーに乗り込む。問い掛けるそらに草薙は静かに微笑みかけた。

「友矩が眠る寺へ行ってみようと思いまして。お付き合い戴けますかな?」

「ええ、喜んで」

 

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