22.
「――紹介しましょう。河合さん、こちらが娘の弥生です。弥生、こちらがこの前、電話で話した河合さんだ」
「河合夕子です」
そらは静かに頭を下げた。
偽名はそら自身も心の中で驚くほどすんなりと口をついて出た。二人が電話でどんなことを話したのか。ひどく興味が湧いたが、もちろん問い掛けるわけにはいかない。
弥生は乱暴な手つきでティーカップを口に運んだ。草薙は手をつけず、そらも何となく手を出しそびれた。
「河合さん、あなたお幾つ?」
「37――もうすぐ38になりますが」
逆にサバを読んだ年齢を告げると、弥生の眉間に険悪な縦皺が寄った。
「……あっきれた、自分の娘より年下なんて。こんな年寄りと結婚するなんて、貴女のご両親は何も言われなかったの?」
「えーっと、その……両親は早く他界しましたので」
そらは少し声のトーンを落とした。弥生は気まずそうに口篭る。話がそちらに及ぶのは分かっていたので、あらかじめ考えてあった筋書きだった。
「それにしても無責任じゃない、父さん?」
「何がだ?」
草薙がジロリと娘をねめつける。
「だってそうでしょ。父さんが何歳まで生きるつもりか知らないけど、こんな若い奥さん貰って、自分が死んだ後はどうするつもりなのよ?」
「私が生きている間は、彼女が私の面倒を見てくれる。私が死んだ後は、私の遺産が彼女の面倒を見る。それだけのことだ」
「父さんらしいわね」
「余計なことは言わんでいい。それより――」
「分かってるわ。本題でしょ」
弥生は傍らのバッグに手を突っ込んだ。実用一点張りという感じの黒革のボストンバッグだ。
着ているダークグレイのスーツもそうだが、弥生の身なりは、この年齢の女性にしてはあまり金がかかっているように見えなかった。同じく薬剤師の夫と共稼ぎではあるが、母親の医療費が家計に与える負担は決して軽いものではないからだ。草薙はこれまで何度となく支援を申し出ているが、その度ににべもなく撥ね付けられるのを繰り返している。
「はい。母さんのサインはしてあるから」
テーブルに広げられたのは離婚届だった。
当然のことだが、氏名の欄にはまだ〈草薙史江〉とある。住所は保証人の欄にある弥生と同じだ。尤も、長い入院生活にある史江は何年もその敷居を跨いでいない。
草薙が何か口にするのか、とそらはその横顔に視線を向けた。草薙は自分の名前が書けなくなったかのように署名の欄の上でペンを留めていたが、やがて、諦めたように小さなため息を洩らしてペンを走らせた。
(呆気ないもんだな)
声には出さないが、そらは一組の夫婦の終焉の素っ気なさに半ば茫然としていた。テレビドラマで見るような修羅場を期待していた訳ではもちろんないが、それにしても、草薙父娘のやりとりはさして重要でもない書類を交わしているようにしか見えなかった。
「具合はどうなんだ?」
「えっ?」
草薙の呟きに弥生が驚いたように顔を上げた。問い掛けた本人は書類に視線を落としたままだ。
「母さんの?」
「それもあるが、おまえのだ。ヘルニアを患っているそうだな」
「どうして父さんがそれを?」
草薙は答えなかった。弥生の顔に皮肉めいた微笑が浮かぶ。
「知らなかったわ。父さんが和彦さんをスパイに仕立ててたなんて」
「自分の夫にそんな言い方をするんじゃない。和彦くんとは一度、彼が京都での学会に出てきたときに会ったことがあるだけだ」
「……別にいいけど」
弥生は離婚届を丁寧に折り畳んで、勤め先の大学病院の名前が入った封筒に収めた。
「これでいいんだな?」
「ええ。――有難う、父さん」
「礼を言われる覚えはない。私にとっても離婚に応じた方が都合が良かった。それだけのことだ」
「そうだったわね。母さんにもそう伝えておくわ」
「見舞いをさせる気はない、ということか」
「したいの?」
「……いや」
草薙は間を取るように紅茶を口に運んだが、ほとんど飲まずに元に戻した。
「私の顔を見て病状が悪化した、などとつまらん言い掛かりをつけられるのは御免蒙る」
「別れるって言いながら、やっぱり夫婦なのね。たぶん、父さんはそういうだろうって母さんが言ってたわ」
「史恵がそんなに私のことを理解していたとは知らなんだ」
「よくそんなこと言えるわね。母さんが父さんのこと、どれだけ気に掛けてたと思ってるの? それなのに、自分は仕事にかまけてるか、そうじゃなきゃ若くて見栄えがいいだけの女を侍らせて遊び歩いてたくせに。樋口さん、だったっけ。この人はそういう人よ!」
存じ上げています、とでも答えればいいのだろうか。
そらは激昂する――しかし、周囲に迷惑を掛けるほど声のヴォリュームを上げない草薙の娘の顔をジッと見返していた。暴君である父親と、召使いのような母親。それを目の当たりにして心を痛める一人娘。草薙家の3人の人間関係を垣間見て、そらは不快さよりも悲しみが湧き上がってくるのを感じていた。
だが、その場で自分に出来ることは何一つないこともそらは理解していた。曖昧な表情で敵意をやり過ごすように小さく頭を下げると、弥生のやり場のない怒りは急速に萎んでいった。
弥生は立ち上がり、バッグを抱えると一礼してその場を去った。他人行儀な別れの挨拶こそ交わしたものの、父と娘の視線は一度も交わることはなかった。