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熾火  作者: 須藤彦壱
21/27

21.

 

 

 タクシーは市街の中心部へ戻り、やがて、駅前の大通りに建つ高層のホテルの車寄せに吸い込まれて行った。

「病院じゃないんですか?」

 そらは少し躊躇いがちに訊いた。草薙の妻は入院中の筈だ。

「私もそのつもりでいたのですがね。あちらは個室ではないから家庭の話をするのには向かない、と娘が言うので、ここで会うことになったのです」

「だったら――」

「ええ、家内は来ません。本人は行くと言い張ったそうですが、外出許可が下りませんでした。この寒さですから当然でしょう」

 そらは窓の外を見やった。到着したのがちょうど昼頃、それから俵屋に移動して着物を着せられ終えたのが午後3時を少し回った頃。今はもう夕刻に差し掛かろうとしている。

 しかし、外にそんな色合いはない。あるのはいよいよ重苦しい鉛色になった空と街並みをうっすらと覆う白い雪。あとは僅かに覗く街路樹の暗い緑と、早々と点り始めた街灯や看板の明かりが色彩の全てだ。そらが着いた頃に吹いていた雪混じりの木枯らしは収まっているが、病人が出歩くのに適当ではないのは誰の目にも明らかだった。

 タクシーを降りると、草薙は思い出したように口を開いた。

「そうだ、ひ――河合さん」

 言い損ないを咎めるように、口元に笑みを浮かべたそらが横目で睨む。

「言いにくいですか?」

「いえ、大丈夫です。河合さん――うん、間違いない」

「何だったら、夕子でも構いませんよ?」

「それは止めておきましょう」

 バツの悪そうな苦笑いはすぐに真顔に変わった。

「ところで河合さん。娘と会うにあたって覚悟――というほどのことはないかもしれませんが、かなり厳しい当て擦りを言われることを心に留めて欲しいのです」

 あらためて言われるまでもなく、自分は草薙伊織の後妻になる予定の女を演じている。いくら絶縁状態と言っても――いや、そうであるからこそ、父親が母親以外の女を連れているのが娘にとって許しがたいのは当然のことだ。

 しかし、そらは草薙の言葉に言外の意味があるのを感じた。

「どういう意味ですか?」

「まあ、その――その格好のせいなのです」

「これの?」

 そらは道行の袖を小さく摘んでみせる。

「ひょっとして着物がお嫌いとか?」

「いえ、そういう訳ではないのですが――」

 さすがに恥ずかしそうに草薙が俯く。

「正直に申し上げましょう。私が妻以外の女性を伴って弥生の前に現れるのは、これが初めてではないのです。そして、その女性たちはいつも和服姿でした。もちろん、私がそうさせたのですが……」

 そらは先程の女将と草薙の会話を思い出した。草薙は姉に向かって「見立ての良さは相変わらず」と言っていた。

 それは呉服屋の女将であれば当然持っているべきセンスであり、だから、そらも特におかしいとは思わなかった。しかし、考えてみれば遠く離れた地に住む草薙が、姉の職業上のことを相変わらずと言えるほど知っている筈はない。

 だが、それも草薙が他の女性をそらと同じように俵屋に連れて行き、同じように姉に見立てを頼んだのであれば筋が通る。

「ふうん、ちょっと意外だなぁ?」

 根拠のない清廉潔白なイメージを抱いていたそらは、敬語を使うのを忘れて草薙をなじった。

「面目ない」

「……まぁ、別にいいですけど。なるほど、それでわたしにこんな格好をさせたんですね」


     *     *     *


 そもそも、何故に妻と離婚する席に後妻役の女が必要なのか。半ば勢いで引き受けたものの、そらが疑問を抱くのは当然のことだった。

「おそらく、信じては貰えないからです」

 草薙は肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をついた。

「何をですか?」

「私が離婚に応じる理由ですよ。これまで頑なに拒み続けてきたのに、一転して判をつくと言えば何か裏があると勘繰られる。その点、こちらにも離婚するメリットがあれば納得するでしょう」

「そんな……。こんなことを言ってはいけないんでしょうけど、奥様はもう長くなくて、その最後のお願いに草薙さんも応じる気になったんだから、それでいいじゃないですか。奥さんもお嬢さんも分かってくれるんじゃないんですか?」

「……だと良いのですがね。やはり、こんな役は不快ですか?」

「そういう訳じゃありません。でも――」

 何故、家族同士でそんなつまらない嘘をつかなくてはならないのか。決して平穏で幸せではなかったにしても1つの家庭が終焉を迎えるのなら、最後のときくらいは優しさや思いやりがあっても良いのではないか。

 そらは草薙の横顔を見やった。研ぎ澄まされた刃物を連想させる厳しい面立ちには家庭のことを語っていたときの沈痛な影と同時に、何かを吹っ切ったような安堵の色が浮かんでいた。

 遅いのだ。草薙とその家族を取り巻いてきた日々の中で、そういう気遣いをする時間はとうに過ぎ去っていることをそらは悟った。


   *     *     *


 ホテルのロビーは豪奢なだけではなく、思わず息をついてしまうほど暖かかった。

 声を掛ける前に近寄ってきたコンシェルジュが草薙と小声で言葉を交わす。その中身はそらには聞こえなかったが、2人の表情からあまり楽しくない内容なのは分かった。おそらく、待っている草薙の娘のことだろう。

 そらは何となくロビーの奥にあるコーヒーラウンジに視線を向けた。

 3階まで吹き抜けになったアトリウムの広い一角を観葉植物や水盆で仕切ったスペースで、大理石の白い床に映えるダークブラウンのソファやテーブルが十分な間隔をおいて配されている。ホテルの中庭に面した窓際にはグランドピアノがあったが今は誰も弾いておらず、代わりに控えめなボリュームでラフマニノフの〈ピアノ協奏曲第2番第1楽章〉が流れている。中途半端な時刻のせいか、客は観光客と思しき家族連れと商談中のスーツ姿の男たちがそれぞれ一組、後は一番奥まったテーブルにいる中年の女性だけだ。

「どうやら、弥生はもう来ているようです。――河合さん?」

 背後から声を掛けられてもそらは振り向かなかった。偽名に反応しなかった訳ではない。そらの目は隅のテーブルに釘付けになっていた。

 マイクロフィルムで見た草薙弥生は涼やかな目鼻立ちの大人びた少女だったが、父親には似ていなかった。背後の女性に似ているような気すらした。後で草薙が語ったところによればその女性は大会関係者の赤の他人だったが、それでも、少女の外見には草薙と血縁を感じさせるようなところはまったくなかった。

 ところが、そこにいる40歳前後の女性には草薙伊織の面影が色濃く現れていた。厳しさすら感じさせる高く通った鼻筋。やわらかく描かれた柳眉の下の斬り付けるような鋭い眼差し。申し訳程度に紅を注した薄い口唇は何かに耐えるようにきつく結ばれている。2人が並んだときに血の繋がりを疑う者はいないだろう。

 向けられる視線を感じ取ったのか、女性がそらの方を向いた。一瞬の戸惑いの後、その表情が一気に曇った。そらの傍らに立つ父親の姿を認めたからだ。

 草薙弥生は端正な顔を侮蔑と怒りに歪めながら、それでも席を立って礼儀正しく頭を下げた。その余所余所しさが父と娘の間に横たわる確執の深さを図らずも示していた。

 

 

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