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熾火  作者: 須藤彦壱
2/27

2.

 

 

 大きな物音は受付の奥にある司書課の部屋にまで轟いていた。

「――えっ、なになにッ!?」

 そらが閉架書庫に行ったことを知っていた同僚の尾崎さつきは、閲覧室の扉を蹴破らんばかりの勢いで書庫に駆け込んできた。普段は淑やかなタイプだが、動転したときや体調が悪いときなどは被っている特大の猫の効果が薄れるのか、こうやって地が出てしまうことがある。そらはその落差を見るたびに「コイツはぜったい二重人格だ」と確信してしまう。

「大騒ぎしないでよ。棚の上の荷物が落ちてきただけなんだから」

「だけって……あんた、怪我は?」

「してないよ。このひとが助けてくださったから――」

 そらはまたしても言いよどんだ。老人の名前をまだ訊いていなかったからだ。

 老人の方を振り返ったそらは目を丸くした。

「ちょっと、大丈夫ですか!?」

 起き上がって服の埃を払っている間は何でもないような顔をしていたのに、老人は左の手首を押さえて顔をしかめていた。身体に似合わない大きな手が押さえている辺りがサツマイモのような紫に変色している。

「どうしたんですか?」

「どうやら、身体を支えようとしたときに床に手をついてしまったらしい。捻挫だと思うんですが……」

「骨が折れてるんじゃないんですか!?」

「いや、それはなさそうです。これでも怪我には慣れていてね」

「なに呑気なこと言ってるんですか、そんなに内出血してるじゃないですか!!」

 呻き声に似た苦しげな響きはあったが、老人は事もなさそうな口調を崩さなかった。左手の指を曲げ伸ばししているのは骨や靭帯に異常がないことを確かめる仕草だった。

 すっかり動転してしまったそらに代わって、さつきが内線電話で上司に事情を説明した。すぐに救急車を呼ぶというので、そらと老人の2人はエントランスへ急いだ。

「すみませんな、却ってご迷惑をおかけして」

「そんな、迷惑だなんて。わたしのほうこそ助けていただいたのに、こんなことに……」

 このひとが助けてくれなければ、病院に運ばれたのは自分だったかもしれない。

 そらはゾッとする思いを抑えられないでいた。落ちてきた段ボールには頑丈なプラスチックケースに収められた古い8ミリフィルムがぎっしり詰まっていて、重さは軽く10キロを越えていた。脳天を直撃していたらタンコブ程度では済まなかっただろう。良くて脳震盪、最悪の場合は命に関わった可能性すらある。

 整形外科への車中は互いに自分の非を認めあう不毛なやりとりか、そうでなければ気まずい沈黙に支配されていた。

 診察の結果は全治2週間の捻挫だった。幸いにも骨や靭帯に損傷はなく、内出血もすぐに収まるだろうとのことだった。それを聞いて、そらはようやくホッと胸を撫で下ろした。

 それでもしばらくは動かさないほうがいいということで、老人はギプスで固定された左前腕を三角巾で吊った格好で診察室から出てきた。和服の上からなので窮屈に見えたが、袖の無いインヴァネス・コートはこういうとき、そのまま肩から羽織れて便利だと老人は笑った。

 診察代の精算が終わるまでの間、老人とそらは待合室の長椅子に並んで座っていた。館内での事故なので治療費は図書館側で負担すると課長から言われていたが、そらは自分で払うつもりだったので、愛用のフェンディの財布を握り締めたままだった。

 何か話しかけなきゃ、とそらは思った。しかし、話題は思い浮かばなかった。本当は興味を覚えていることが一つある。ただ、それを訊いていいのかどうか、そらには判断がつかなかった。

 なので、他のことを訊いてみることにした。

「段ボールが落っこちてきたとき、草薙さん、わたしの近くにはいらっしゃいませんでしたよね?」

 草薙というのは老人の苗字だった。下の名前は伊織。左利きだというので病院の受付はそらがしていた。「なぎ」の字は危うくタレントと同じ字を書きそうになったのだが、草薙がさりげなく保険証を目の前に滑らせたおかげでそらは恥をかかずに済んでいた。

 草薙は少し怪訝そうな顔をした。

「そうでしたかな?」

「はい。そうだから、棚の上でモノが揺れてるのにも気づかれたんでしょう?」

 はっきり見ていたわけではなかったが、自分が草薙を入口辺りに残してさっさと書庫内を見回っていたことをそらは覚えている。貼りついたケースと悪戦苦闘していたときにかけられた声もそんなに近くからではなかったはずだ。傍から声をかけられたのなら逆に驚いただろうから、それは間違いない。

「そういうことになりますな。それが?」

「いえ、それなのによく落ちてくるのに間に合ったなって思って」

 奥歯に加速装置のスイッチがあれば話は別だけど、とバカバカしい考えがそらの脳裏をよぎった。

「あれですか。あのとき、私はちょうど棚の曲がり角辺りにいた。あなたとの距離はそう……2間半ほどでしたか」

「……?」

 そらは首を傾げた。けんという単位が分からなかったからだ。

「お若い方には通じませんかな」

「そんなに若くないですけど……。すみません、不勉強で」

 草薙は苦笑いを浮かべただけでそらの卑下をやり過ごした。

「一間はおよそ1.8メートル。畳の長辺とほぼ同じ長さです。ですから、あのときは5メートルほど先だったことになりますか」

 そらは待合室の床を見た。

 プラスチックタイルの1辺はおよそ30センチ。部屋の面積を手っ取り早く計算するときの基準になる、と損保関係の仕事をする夫から教えてもらったことがある。それによれば2間半先は単純計算でタイル15、6枚も向こうだった。そらにはそれが途轍もなく遠くに見えた。

「剣道の試合だとそれくらいの距離を詰めるのは……私はあまりやりませんが、遠間からの飛び込み面だと1呼吸半といったところです。一方、落ちてきた荷物ですが、あのときのタイミングだと落ちてくるのに2呼吸かかる。ですから、ギリギリで間に合うと判断したわけです。まあ、実際にはそこまで冷静な計算をする余裕はなくて、ただ、危ないと思った瞬間に身体が動いていたというだけなのですが」

「はぁ……」

 そらは嘆息した。

 理屈は分かる。しかし、それは結局のところ、わずか半呼吸分のタイムラグに賭けたギャンブルだったわけだ。それを目の前の小柄で痩身の老人が成し遂げ、あまつさえ、体格だけならほぼ同等の自分を押し倒し、しかもその身体が床に叩きつけられないように腕を挺して庇ったのだという事実にはただ驚くしかなかった。

 支払いを終えて、2人は病院のエントランスを出た。

 外はすでに日が暮れ始めていた。内陸部で山が多いこの街の2月はとんでもなく寒い。寒風というより冷気の塊が押し寄せてきているような気すらする。ひときわ身がすくむような突風を首をすくめてやりすごして、そらはタクシー乗り場まで草薙を送った。

「そういえば草薙さん、お杖は?」

「杖?」

「ええ。ほら、ずっと左手にお持ちだったじゃないですか」 

 草薙はそれに今気づいたというようにキョトンとした顔をしていた。

「これは失敬。あの部屋に忘れてきたようですな」

「でしたら、それも後でお届けしますね。草薙さんのお車も御宅まで運ばなくちゃいけませんし――」

 そらは草薙の治療中に上司とかわした電話の内容を思い出した。



「――そらさぁん、あれはマズいよぉ」

 課長の声は誰かに聞かれるのを怖れるようなヒソヒソしたものだった。この男は正規職員の女性はちゃんと苗字で呼ぶが、そらのように嘱託契約の職員は馴れ馴れしく名前で呼ぶ。広義ではそれもセクハラになり得るのだが、実害と言えるほどのことはないので放置しているのが実際だ。

「何がですか?」

「草薙氏の車だよ。ほら、君が家まで運んでいってくれと言っただろ?」

 実は救急車を待っている間、草薙は病院が近くなら自分の車で行こうとそらに提案していた。自分で運転できる状態ではないのでそらに運転を頼めれば、とのことだったのだが、そらはペーパードライバーなので無理だと断わっていた。

「お願いしましたけど。それが何か?」

「アストンマーチンなんか、怖くて誰も運転できないよ」

「アストン……なんですって?」

 そらの声が怪訝そうにひそまった。

「アストンマーチンDB5。007の〈サンダーボール作戦〉に出てたボンド・カーだってさ。知ってる?」

 昔の007など見ていないが〈サンダーボール作戦〉がショーン・コネリー時代の作品であることはそらでも知っていた。だとすれば、かなり昔の車ということになる。

「それ、高いんですか?」

「詳しいことは分かんないけど、フェラーリを買ってもお釣りがくるって話だね。とにかく、そんなの運転していってぶつけでもしたら大変だよ」

「なるほど」


(それは誰も乗りたがらないだろうなぁ)


 しかし、責任を取って自分が運ぶわけにもいかない。そんなことをしたが最後、目的地に着いたときにアストンマーチンとやらが車の形をしているかどうか、まったく保証できないからだ。

 そらは知り合いの自動車屋に相談することにした。母親が経営しておる小料理屋の常連に外車の輸入販売を手がけている男がいるのだ。そこならば外車の運転に慣れたスタッフがいるだろうし、うまくいけば荷台に乗せて運ぶトラックを貸してくれるかもしれない。

 こっちで何とかします、とそらが宣言すると、課長は小心者らしいあからさまな安堵の溜め息を洩らした。全ての元凶はそら自身なので文句は言えないが、こんな上司の下で働いていることに幾らかの落胆を覚えずにいられなかった。

 そらは母親の携帯電話を鳴らした。用件を伝えると母親は「あんた、なにやってんの?」とブツブツ文句を言いながらも件の自動車屋に連絡をとってくれることになった。

「後でちゃんと事情を説明しなさいよ」

「はいはい」

「返事は一回」

 母親はいつものようにそらを子供扱いしながら電話を切った。言い返したいことは山ほどあるが、残念ながら今回の件については何も言える材料はなかった。そらは携帯電話のマイクに向かって盛大な溜め息を送り込んだ。



 自分の知らないところでそんな会話がなされていたなど知る由もなく、草薙は遠慮がちな笑みを浮かべた。

「そんなにお気遣い戴くほどのこともないのですがね。この腕ではしばらくは車も運転できませんし、例の棒を振ることもできません。――いや、そういうつもりで言ったのではありませんが」

 そらの表情が一気に曇ったのを見て、草薙は右手を小さく掲げてパタパタと振った。

 その子供じみた仕草はほんの少しではあったがそらの心を和ませた。罪悪感は一向に薄れる気配はなかったが、それを表に出すのは却って老人の負担になる。それに気づかないほどそらは子供ではなかった。

「あれって杖じゃないんですか?」

 杖らしくないとは思っていたが、草薙の言葉の端々に剣道の用語が出てくることにそらはある種の確信を持ち始めていた。

「――杖ですよ。表向きはね。しかし、実際は護身用の木刀です。小判型になってますので、何度か警察に注意されたことがありますが」

 小判型の意味が分からないそらに、草薙は木刀の断面のことだと説明した。

 普通の杖の断面は正円形をしている。しかし木刀は日本刀を模したもののため、その断面も楕円形に近い形をしている。黒檀の木の棒を持ち歩く老人を見つけた警察にしてみれば、それが杖であるか木刀であるかは大きな違いというわけだ。

 ちなみに本物の刀のように反った形をしていないことはあまり言い訳の材料にならない、と草薙は付け加えた。流派によっては直刀を使うところがあるし、それでなくても鍛錬用に振る棒は真っ直ぐなものがほとんどだからだ。第一、剣道で使う竹刀は真っ直ぐで刀のように反ってはいない。

「年甲斐もないと言われることもありますが、何と申しますか、あれを持っているだけで安心するのですよ。まあ、それでなくても最近は物騒ですからな。アレは何と言いましたかな。オヤジ――」

「オヤジ狩りのことですか?」

「そうそう。私に言わせれば、あっけなく狩られるほうにも問題があるような気がしますが、しかし、この平和な時代にあんな愚連隊のような連中を相手にする術を、世の中の誰もに身につけておけというのは無理な話なのでしょうな」

「そうですねぇ」

 そらにしてみても、今の若者が自堕落で世の中を舐めきっているのは大人がだらしなくなったのが原因だと思わないではない。しかし、草薙が言うような、あるいは実践しているような誰もが自分の身は自分で守れる世の中というのもあまり現実的ではないだろうし、それはそれで暴力のエスカレートを招くだけのような気もした。

 乗り場に空車のタクシーが入ってきて、草薙はその後部座席に乗り込んだ。

「それじゃ、お車と杖は後でご自宅にお届けしますね。と言っても、運転するのはわたしじゃありませんけど」

「樋口さんは運転はまったくですか?」 

「さっきも言いましたけど、完全なペーパードライバーなんです。夫が運転させてくれないんで。少し前に九州までドライブしたんですけど、最初のパーキングエリアで交替させられました」

「ほう?」

 草薙は可笑しそうに目を細めた。そのからかうような視線にそらは軽く頬を膨らませたが、やがてそれは照れ笑いに変わった。

「それではまた後日。今度は縮刷版が見られると良いのですがね」

「来られる日をご連絡ください。お取り置きしておきますから」

「そんなサービスがあるんですか?」

「草薙さんだけの特別サービスです。――それじゃあ、お大事に」

「ありがとうございます。では、また」

 草薙はそう言って、行先を告げるために運転手に向き直った。

 手にしていた木刀と同じように真っ直ぐで厳めしく、それでいて物静かな印象も与える不思議な横顔にそらはしばらく見入っていた。

 

 

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