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熾火  作者: 須藤彦壱
19/27

19.

 

 

「……来ちゃったよ」

 そらは盛大にため息をついた。

 草薙の後妻を演じることを頼まれてから1週間後、そらは加賀百万石の城下町、金沢にいた。

 名古屋から金沢へは空路の直行便がなく、東京を経由してのフライトだった。国内線で乗り継ぎなどしたことがないので羽田で迷子になりかけたり、ようやく搭乗口に辿り着いたら悪天候で出発が遅れたりとトラブル続きの幕開けだったが、もともと旅行好きのそらにそれらはあまり苦にならなかった。

 むしろ、そらの心をなかなか治まらない微熱のように苛んでいるのは、この旅に纏わり付く根本的な後ろめたさだった。

 草薙と同じ飛行機にしなかったのは、疚しいことはなくても夫以外の男性と歩いているところを誰かに見られるわけにはいかないからだ。

 この旅も職場では「東京出張の夫に着いていく」ことになっているし、ようやく自宅療養になった母親にも同じ説明をしている。万が一、事故があった場合を考えると喬夫にまるっきりの嘘をつく訳にはいかないので、そらは「一連の事件で疲れた自分を気遣って草薙が北陸の知り合いの旅館に招待してくれた。さつきと一緒なので行ってもいいか?」と許可を求めていた。草薙の好意に甘えることに喬夫は難色を示したが、無下に断るのも失礼だし、自分はその時期は出張で九州に行っているので已む無しとの結論になった。

 そういう経緯でそらの北陸行きの真実を知るのは口裏合わせを頼んださつきだけだが、これについては過去にそらの方がさつきのアリバイ工作をやったことがあるので、その貸しを返してもらうということで決着がついている。

 草薙からは着いたら一度連絡をくれと言われていた。そらは草薙の携帯電話を鳴らした。

「もしもし、樋口ですけど」

「おお、着かれましたか。遠いところをお呼び立てして申し訳ありませんな」

 もともと居丈高な態度とは無縁の草薙だが、そらに対する口調にはこれまでと違うニュアンスがあった。成功した実業家であり遠く及ばない高みにいた筈の老人が、家庭のことになれば半分程度の年齢の自分よりもおどおどしているのが、そらには何となく可笑しかった。

 草薙はタクシーを拾って市内へ来るようにそらに言った。

 言われた住所を運転手に告げて窓から景色を眺める。同じ中部地方に属していても太平洋側の愛知と違って、日本海側の北陸の空はどんよりと鉛色の蓋を被せたように息苦しい。無論、そらの故郷とて冬は我慢ならないほど寒いのだが、しかし、雪混じりの身を切るような風の冷たさは比較にならなかった。古都の名に恥じない情緒溢れる町並みを覆う雪化粧も、実際以上に寒さを感じさせている要因だろう。

 タクシーはビルが立ち並ぶ中心市街地を通り過ぎて、観光地でもある城跡の庭園や寺社仏閣が集まる一画へ差し掛かった。

 この辺りはアスファルトではなく石畳が敷かれた道も通されていて、周辺には武家屋敷や城門の跡といった古い町並みを再現した建物が立ち並んでいる。独身時代に何度か旅行を計画したことはあるが実現せず、いつか喬夫と一緒に来ようと思っていた街だ。それがまさか独りで――しかも喬夫に嘘をついて――来ることになろうとは夢にも思わなかった。

「着きましたよ」

 タクシーは寺社仏閣の集まる一画の外れ、呉服店の看板が掲げられた古い商家の前に停まった。

「……ここですか?」

「はぁ。城跡近くで俵屋さんという呉服屋さんはここだけですよ」

 いや、それ以前に俵屋が呉服屋だと聞いていない。

 そらは大いに訝ったが運転手と問答しても始まらない。料金を払ってタクシーを降りた。

 走り去るタクシーを見送ってから、そらは格子戸で囲われた質素だが重厚な店構えを眺めた。この地が加賀友禅の郷ということはそらも知っているが、だったらもう少しそれを謳えばいいのにと思うほどの素っ気無さだ。

 それにしても、呉服屋に何の用なのだろう。

「――ごめんください」

 店内は無人で、しかも薄暗かった。だだっ広い土間と腰掛けるのにちょうど良さそうな幅の磨き上げられた木の小上がり。その向こうには土間以上に広い畳の間がある。正面には番台があって上には使い込んだ感じの算盤まで置かれていた。衝立のような衣桁に数点の留袖が掛けられていたり、壁一面を埋める棚に反物が陳列されているのが呉服屋らしいと言えなくもないが、それらも天井や壁の高いところにある明かり取りから差し込む弱い光の中では、時間の流れからぽつんと置いていかれたように見える。

「あのー……」

 もう一度声をあげると奥からパタパタと忙しない足音がした。

「はいはい、お待たせしてすみませんねぇ」

 これもまた、年季のいった照明に灯が点り、藤色の加賀小紋を着た老婆が奥の間の暖簾の間から出てきた。腰が曲がっておらず足取りも軽いのでそれほどの年齢ではないようにも見えたが、ひっつめ髪の下の顔は誤って乾燥させてしまった梅干しのように皺だらけだった。

「あんたが樋口さんだね?」

 ニッコリと笑うと老婆の目は皺に間に埋もれてしまう。

「そうですけど……」

「そうかいそうかい。伊織から話は聞いてるよ。遠いところ、大変だったろう。さ、お上がんなさい」

 老婆はそう言うとさっさと踵を返した。そらも慌てて後に続く。

 家紋らしき柄が染め抜かれた濃紺の暖簾を潜った奥の間で目に飛び込んできたのは、漆塗りの衣桁屏風に掛けられた加賀友禅の豪奢な振袖だった。

「うわぁ……」

 そらは思わず感嘆の声を漏らした。

 ほとんど黒に見える深い藍色の地に意匠化された扇が舞い、その上に写実的に描かれた花々や草木が溢れんばかりの絢爛さで散りばめられている。そらは母親が持っている和服を見慣れているが、夕子のそれは地理的に近い京友禅の影響を受けた幾何学的で図案調の文様の物が多い。それに対して加賀友禅の図柄は絵画的で、反物をキャンバスに見立てて思うがままに筆を振るったような大胆さがある。色合いも同じ系統色の濃淡を多用する京友禅とは対照的に、加賀五彩(紅、黄土、緑、藍、紫)と呼ばれるやや重い紅を基調にした多彩な色使いがなされている。

「綺麗だろう?」

 老婆が自慢げに言う。そらはただ頷くだけだ。

「これはね、談議所っていう有名な作家が描いたもんだ。加賀友禅には木村雨山っていう人間国宝がいるけど、あたしは絵師としては談議所の方が腕は上だと思ってる。雨山に比べると草花の描き方が繊細なんだ」

「そうなんですか?」

「ほら、よく見てごらん。この先ぼかしなんか見事なもんだろう」

 老婆は袖に描かれた大きな花弁を指差した。全体的に強くて主張のある色が使われているが、花びらの枠の部分はうっすらとぼかされて柔らかさを表現している。

「ホント、素敵」

「だろう?」

 それからしばらくの間、老婆は加賀友禅の技法や有名な友禅流し――友禅染めの工程の一つで、生地全体の地色を染める際に文様を保護する為に塗る糊を清流で洗い流す工程のこと――の話を聞かせた。久しく誰とも話していなかったような忙しなさはそらを圧倒したが、自慢げな口ぶりから伺える微笑ましさと友禅の話そのものの興味深さが長話を苦には感じさせなかった。

「ところであんた、着物は持ってるのかい?」

 話が一区切りついたところで老婆が言った。そらは「嫁入りのときに作ってもらった黒留袖が一着だけ」と少しバツが悪そうに答えた。老婆はため息半分、笑い半分の微妙な表情を浮かべた。

「ま、そうだよねぇ。今の若い人は着物なんか着ないし」

「でも、たまに母のを借りて着ることがありますよ。母は小料理屋の女将なんですけど、わたしもたまにですが店を手伝うことがあって。そういうときに」

「へぇ。じゃあ、少しは慣れてるってわけか。だったら大丈夫だね」

「何がです?」

「伊織の奴、あんたに似合いそうな訪問着を見繕ってくれって頼んできたんだけど。聞いてないのかい?」

「……いえ、まったく」

 

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