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熾火  作者: 須藤彦壱
18/27

18.

 

 

 アストンマーチンの乗り心地はそらの想像とはずいぶん違っていた。電子デバイスで武装し静粛性も抜群の現代の車しか知らないそらからすると、アストンマーチンのようなクラシック・カーはそもそも乗り物としての位置づけが根底から違っている。喩えて言うなら最新の技術を投入したデジタル時計と伝統の技術の粋を尽くしたアンティーク時計の優劣を問うようなものだ。

 平日の午後ということもあり、東名高速道路の流れはスムーズだった。ゆったりとした安全運転で草薙はアストンマーチンを走らせた。

「草薙さんとあの警部さんって、まるでお父さんと息子さんみたいですね」

 そらは笑い混じりに言った。草薙は驚きに目を白黒させる。

「息子?」

「昨日の道場での教え方もそんな感じじゃなかったですか?」

「まぁ、私に息子がいればそうなのかもしれません。実の息子だったらあんなに甘やかしたりしませんが」

「……あれでですか?」

「勿論です」

 渋い顔の草薙にそらは何となく話を続けた。

「確か、お嬢さんも剣道をやられてたんですよね?」

 しばらくの沈黙の後、草薙は口を開いた。

「――そうです。高校2年の時にはインターハイで準優勝の成績を収めたほどです。準決勝で右手首を故障しなかったら、間違いなく優勝していたでしょう」

「そんなに強かったんですか」

「自惚れか親馬鹿にしか聞こえんでしょうが、あれは血筋でしょうな。我が家はそもそも北陸、加賀藩の武家の家系でして、これまでも多くの剣道家を輩出しています。その中には数人の女流もいますが、弥生は歴代でも3本の指に入ると言われた逸材でした。普通、高校生になると男子と女子の剣道のレベルはまるっきり違ってきますが、弥生は逆に女子剣道部では誰も相手が務まらなかったので、わざわざ男子部に出稽古に出ていたほどです」

「そうなんですか」

「しかし、前年の雪辱を晴らすはずの3年の大会には弥生は出場しませんでした。周囲の誰もが期待していたので、かなりガッカリしたものです」

「受験で、ですか?」

「いえ、私への反発から剣を置いてしまったのですよ。私が知る限り、あれから弥生が竹刀を握ったことは一度もないはずです」

「そうなんですか……」

「あの子が高3の春、私と家内がとうとう別居することになりましてね。あの子は母親に着いていったのです。幼い頃からろくに家庭を顧みなかった父親と、ずっと一緒に暮らしてきた母親ではその選択は当然のものでしょう。まぁ、元々半ば――いや、ほとんどすべて私のエゴで続けさせていたようなものでしたからね。剣道そのものが嫌になったとしても何の不思議もありません」

 悪いことを訊いてしまったとそらは後悔した。しかし、一度口にした言葉を引き戻す術はない。

「お嬢さんは今、どうされているんですか?」

「母親と一緒に金沢で暮らしています。家内もあちらの出身でしてね。私は父親の代にこちらへ引っ越してきていますが、元々は遠縁に当たるのです。別居後、しばらくは弥生の学校の関係でこちらにおりましたが、大学をあちらの薬科大に進んだのを機に家内の実家に戻って、今は向こうの国立病院で薬剤師をやっているはずです」

「はず?」

「もう、長いこと便りがありませんのでね。最後に届いた3年前の知らせではそうだったという話ですよ」

「ご結婚は?」

「していますよ。何だかんだ言ったところでいい歳ですので。相手がバツイチだったとかで派手な披露宴はやらなかったのですが、身内だけで小さなパーティは開いたそうです」

 そうです、という伝聞なのが草薙がそのパーティにすら呼ばれていないことを示していた。そらは口の中に苦いものが広がるのを感じた。

「お気遣いは要りませんよ」

 そらの沈黙を感じたのか、草薙は殊更穏やかな口調で言った。

「すべて自業自得です。家内とのすれ違いもそうですが、何よりもあの子に一度も両親の仲睦まじい姿を見せてやることができなかった。憎まれて当然でしょう」

「そんな……」

「この話はここまでにしましょう。ところで先日、図書館から村上春樹の本を何冊か借りたのですがね――」

 草薙は強引に話題を変えた。

 それまで小説といえば同時代の大江健三郎や遠藤周作、あるいは海外文学ばかりだった老人にとって、村上春樹の著作はかなり新鮮だったらしく、物語の展開に着いていくのが大変だと自嘲気味に笑った。そらとて古典を読まないわけではないが、メインとなるのはやはり村上龍や村上春樹以降の現代作家なので、草薙が受ける違和感は実感として伝わってこない。それでも大好きな本の話題に付き合うのには何の苦労もいらなかった。

 岡崎インターチェンジで高速道路を降り、少し買い物をしたいのだが、という草薙に付き合って2人は街中にあるイオンモールに向かった。買い物の間も取り留めもない話題が尽きることはなく、楽しそうに話しながら様々な売り場を覗く2人は傍目には仲の良い父と娘にしか見えなかった。

「はぁ、すっかり遅くなっちゃいましたね」

 結構な量の買い物袋をアストンマーチンの後部座席に乗せながら、そらは申し訳なさそうに言った。買うにしても日用雑貨程度で服を買うつもりはなかったのだが、家電以外の買い物にはまったく付き合ってくれない喬夫と違って、草薙は着道楽のそらの買い物にも嫌な顔一つしなかった。逆に見立てに意見を述べるほどで、そらは夕子の店を訪ねたときの草薙の料理への口出しっぷりを思い出して吹き出しそうになったほどだ。

「いや、こんなに楽しい買い物は久しぶりですよ。一人で百貨店なんぞに出向いても店員のおべんちゃらを聞かされるだけですからな」

「良かった、そう言って貰えて」

 アストンマーチンは東岡崎駅方面への幹線道路を走った。夕刻のラッシュアワーに差し掛かろうとしていて、流れは今ひとつ良くない。

 さすがに話し疲れたのか、帰りの車中では草薙は黙ったままだった。気詰まりな感じの沈黙ではないのでそらも積極的には話さなかった。代わりに草薙は少し大きめの音量で音楽を流した。アンティークな造りのアストンマーチンの内装の中でカーコンポだけが真新しいのは少し変だったが、DB5が製造された時代のものではCDを再生できないのでやむを得ない。

 スピーカーから流れているのは80年代AORのような曲だった。男性にしては透明感のある歌声がボサ・ノヴァ調のメロディに乗っている。聞いた覚えがあるような気がしたが、この声ではなかったような気もするとそらは思った。

「これ、なんて曲ですか?」

「安部恭弘の〈ロング・バージョン〉という曲です。ご存知ですか?」

「いえ……聞いたことはあるような気がしますが」

「あったとしても当時ではないでしょう。おそらく後年の懐メロ番組とか、誰かのコレクションにあったとか」

「ひょっとして、稲垣潤一がカバーした曲じゃないですか?」

「……ああ、そんなことを聞いた覚えもありますな。いや、そもそもこれはその稲垣某という歌手に提供したものを、あとで自分でもレコードを出したんじゃなかったかな?」

 レコードという単語の古臭さにそらは吹き出しそうになった。草薙もそれに気づいて少し照れたように鼻先に皺を寄せた。

「草薙さんってこういうのがお好きなんですか?」

「私ではなくて、家内がファンだったんです」

 そらは思わず草薙を見た。意外なことに口元には笑みが浮かんでいた。

「あれがどんな音楽が好きかなんてまったく知らんのですが、これだけはちょうど私が帰ってくるのと広島だか岡山だかで開かれるコンサートの日程が重なっていて、珍しく行ってもいいかなんて伺いを立ててきましてね。まぁ、帰ったときに家内がいないと我慢ならんなんてことはありませんでしたから、行きたければ好きにしろと答えました。いい歳をしてポップスでもあるまい、とは思いましたがね」

「また、そんなことを……」

「ははは、今はそんなことは思いませんが」

 そう言いながら草薙はCDのイジェクトボタンを押した。スリットから滑り出てくるCDを手にとってケースを捜す。

「申し訳ない、グローブボックスにこれのケースがありませんか?」

 そらはボックスを開けた。数枚のCDケースの中に安部恭弘の名前のものを見つけた。草薙の手からCDを受け取ると中に収める。


(あれっ?)


 そらは声に出さずにケースを眺めた。〈PASSEGE〉と銘打たれたその一枚だけが傷一つなく、やけに真新しい。つい最近買ったばかりのようだ。

 何かがそらの中で像を結びつつあった。唐突に読みたくなった一人娘のピアノ発表会の記事。何かを思い出すように聞きたくなった妻のフェイバリット。

「……どうやらバレてしまったようですな」

 信号停車したときに草薙が口を開いた。重苦しくはないが静謐な声。

「先日、娘から手紙が来たのです。家内が――史江の容態が思わしくなく、そんなに長くは持たないだろうと」

「ご病気なんですか?」

「ええ。ずいぶん長く心臓を患っているのです。これまでは投薬と内視鏡手術で何とか持ち堪えてきたのですが、歳も歳ですし、そろそろ限界らしくてね」

「会いに行かれないんですか?」

「行かなくてはならないという思いが半分、行きたくないという思いが半分、というところですか」

「どうしてですか!?」

 自分に他所の家庭のことに口を出す資格などない。そらもそれは分かっている。しかし、声を荒げずにはいられなかった。

「長くないって知らせてきたってことは来てくれってことでしょう? それから逃げていいはずないじゃないですか!」

「分かっていますよ、そんなことは。しかしね、樋口さん。家内が私に来て欲しいと思う理由は、おそらく貴女が想像している理由とは違うのです。――史江は私に離婚届に判を押しに来いと言っているのですよ」

「……えっ?」

 あまりのことにそらの思考が停まる。

「これもまた私のエゴなのですが、私たち夫婦は法律的には離婚していないのです。しかし、自分の命があと僅かと悟ったのでしょう。この世に憂いを残して逝きたくないので、どうか離婚に応じてくれないか――そう言ってきたのです」

「そんな……」

「本当に嫌われたものです。まぁ、さっきも言ったように正真正銘の自業自得なのですが」

 車内に手で触れそうなほどの重い沈黙が満ちた。草薙は押し黙ったままでアストンマーチンを走らせた。そらはそんな草薙の姿を見ないように頑なに外の景色を見続けた。

 マンションの前に車を停めて、そらは荷物を下ろした。草薙も両手に袋を抱えて何度かマンションのエントランスとアストンマーチンを往復する。その間も2人に会話はなかった。

 しかし、そらは草薙が何かを言おうとしているのを感じていた。

 最初は何も言わせないでおこうかと思った。しかし、もし自分がそれを拒めば、草薙が自分の想いを口にすることはないだろうとも思った。

「――樋口さん」

「何ですか?」

 そらは草薙の顔を真正面から見据えた。表情にはまだ逡巡の陰がチラついていたが、草薙は大きく深呼吸して続きを口にした。

「絆されたからというわけでもないのですが、家内の求めに応じようと思っているのです。それで……家庭のある貴女にお願いするのは非常に心苦しいのですが、良ければその一日だけ、私の後妻を演じてくださらないでしょうか?」

 予想外の言葉ではあった。しかし、そらは自分でも驚くほどあっさり返事をしていた。

「わたしで勤まるんでしたら、喜んで」

 

 

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