17.
「……まさか、さつきが草薙さんに知らせてくれてたなんてね。それで、あのタイミングで来てくれたんだ」
「そーゆーこと」
そらは大きな溜め息をついた。それに対してさつきが得意げに胸を反らす。
「何にしても間に合ってよかったわ」
「そだね……ありがと」
「どういたしまして。でも、あのときはビックリしたよ。旦那さんと2人して血相変えてぶっ飛ばしていくんだもん」
「血相変えてって……」
「ホントだって。そうじゃなかったら、すれ違っただけで変だなんて思わなかったわ」
「そりゃそうだろうけど」
そう言われては子供っぽく頬を膨らませてみせるしかない。むくれるそらにさつきが少しだけ意地悪そうな微笑を向ける。
穏やかな日差しが降り注ぐ午後。2人は夕子の病室からエントランスへ歩いている。
昨夜、呼び出された樋口夫妻と呼び出した宮下収、そして伊刈輝之――神原興業の社長にして県下最大の指定暴力団の幹部――とその部下を除けば知る者のいないはずの事件現場に草薙が現れることができたのは、尾崎さつきの機転によるところが大きかった。所用で通りかかったそらのマンション前でアルファードとすれ違ったさつきは、2人の様子のおかしさを不審に思い――直前の夕子の失踪を知っていたのもあって――草薙に連絡をとっていたのだ。
「でも、よく草薙さんの連絡先なんか知ってたね?」
「知るわけないじゃん。剣道場に来られてるはずですがって県警本部に電話したのよ。あの後、会合があるみたいなこと言ってたから間に合うかどうか不安だったけど、ギリギリでね」
「なるほど」
さつきの連絡を受けた草薙は直ちに納富警部を通じて幹線道路のNシステムを照会し、喬夫のアルファードが向かっているのが衣浦港であるのを割り出した。そして、これはそらたちは与り知らぬことだったが、草薙はそらから相談を受けてすぐに知己の興信所を使って宮下収の身辺調査を行っていた。そのデータからその地区で宮下が扱っている物件を捜し出し、同時に夕子が監禁されていそうな場所をローラー作戦で警察に当たらせたのだ。
「ホント、敵わないなぁ」
「そうだね。お父さんみたいだな、とか思ってない?」
「うーん……」
どうなのだろう。そらは自分の心を訝しむ。
無論、感謝はしている。草薙が来てくれなかったら喬夫と自分は破滅への坂道を転がり落ちていったことだろう。仮に夕子の身柄を取り返した後に然るべきところに申し出たとしても、伊刈のような人種が素直に引き下がったとは到底思えない。
自分や母親のことはまだいい。夕子についてはある意味では自業自得と言われても仕方ないし、娘の自分に塁が及ぶのも同じことだ。但し、喬夫を巻き添えになどしようものなら、そらは決して自分を許さなかっただろう。
そんな事態を回避できたのは紛れもなく草薙のおかげだ。もし、草薙が昨夜の代償として身体を差し出せと言うのなら、そらは何の躊躇いもなく応じるに違いなかった。現実に草薙がそんなことを言い出すはずがないのは分かっているから、あくまでもそれくらいの覚悟と恩義を感じているという話なのだが。
そらがそれほどの感謝を覚えながら、草薙に対して父親のような親しみを今ひとつ感じられないでいるのは、むしろ、ただの知り合いに過ぎないはずの自分に草薙が親切にしてくれる理由が分からないからだった。
「じゃあね、あたしはこれで」
辞去を告げるさつきの声でそらは我に返った。
「う、うん。いろいろありがとね。あと、しばらく休む分で迷惑かけるけど、みんなによろしく」
「伝えとくわ。――おっと、噂をすれば」
さつきの少し驚いた視線をそらも追った。病院のエントランスに痩身の老人と厳つい体つきの大男が並んで入ってくる。
草薙はグレーのフラノのスリーピースにベージュのステンカラーコート、ライトグレーのボルサリーノ、ボルドーのロングマフラーという出で立ちだった。いつか、草薙が雑談の中で自分は痩せているのでスーツが似合わないと自嘲気味に語っていたのをそらは思い出したが、中年男性向けのくだらないキャッチフレーズばかり並べ立てる雑誌のモデルに比べれば草薙のほうが遥かに品があるように思えた。隣を歩く納富警部が実用一点張りのブルーサージにアーミーグリーンのピーコートなのが余計にそれを引き立たせている。
「――ですから師匠、そういうことをされると困るんですよ」
「何がだ?」
「河合さん一家から手を引かせる引き換えに、神原興業の伊刈と取引されたでしょう?」
「何のことだか分からんな」
「しらばっくれないで下さい。宮下収が関わってる事件の背後に奴がいるのは分かってるんです。去年の末に市内で飲み屋ばかり入った雑居ビルが燃えた事件も、あれは表向きは権利関係で揉めてた連中のうちの誰かが保険金目当てに火をつけたことになってますが、本当のところは不法占拠してる店を追い出すためにやったって話です。あと、建物がオシャカになった後の更地を転売する目的で。どっちも取り扱ってる不動産屋は宮下ですし、実質的にカネを出してたのは神原興業です」
「それが今回の件とどう関係が?」
「それだけあの2人は蜜月関係だったってことです。それが”河合夕子さんを誘拐したのは自分の一存で伊刈さんはまったく関係ありません”だなんて、どうすれば鵜呑みにできるんです?」
「私の知ったことではないよ。どうでもいいが警部、そういう捜査情報をこんなところで大声でしゃべってもいいのかね?」
「……あっ」
「それと、私を道場の外で師匠と呼ぶなと何度言えば分かるんだ」
それで話は終わりとばかりに草薙は歩き出す。闇社会の人間と渡り合える剛胆な一面を持つ老人の前では県警捜査一課の警部も形無しといった風情だ。納富も噴飯やるかたないという表情のままで草薙の後に続く。
「――草薙さん」
気づかずに前を通り過ぎようとした草薙にそらは声をかけた。
「おや、樋口さん。御母堂のお見舞いですか」
「はい。草薙さんもいらしてくださったんですか?」
「半分はそんなところです」
「半分?」
「いえ、実は警部が母堂に事情聴取をしたいというので立ち合うことにしたのですよ。何せ、この男はおよそデリカシーがありませんのでな」
「ほう?」
納富警部が素っ頓狂な声をあげた。
「女性の病室に一人で見舞いに行くのは気まずいから付き合え、と仰ったのは何処のどなたです?」
「余計なことを言うな、馬鹿者」
草薙が頭一つ以上高いところにある納富の顔を睨む。納富はそ知らぬ顔でそれをやり過ごす。草薙の仏頂面に微妙な照れが混じっているのに気づいて、そらは可笑しさを噛み殺すのに必死だった。
「……あー、ところで。母堂の容態はいかがですか?」
「肺炎を起こしかけていたみたいですが、処置が早かったので大事には至っていないそうです。今は抗生物質の点滴をしながら酸素テントに入ってます」
「だ、そうだぞ、警部。事情聴取は無理なんじゃないか?」
「最初からそんなつもりはありませんよ。とは言え、面会謝絶でないのなら挨拶と事情説明くらいしておきたいところですね」
「ついさっきまで起きていましたし、午後の回診にはまだ時間がありますから、よろしかったらどうぞ。ご案内します」
「いえいえ、ナースステーションで訊けば分かりますから、それには及びません。樋口さんは用事があるのでしょう?」
納富はそらの格好に目をやっている。ハンドバッグを手にコートを羽織っているのを出掛けるのだと判断したのだ。夕子が担ぎこまれた名古屋市内の救急病院はかなり古く、病室はともかく廊下はまともに暖房が効いていない。寒がりのそらに至っては病室でもコートを脱がないままだった。
用事というほどのことはないが、本音を言えば病室に戻るのに幾分のわだかまりがないわけではなかった。最悪の結果を免れたとは言え、その原因となった一連の夕子の所業についてきちんとした説明を受けていないし、謝罪の言葉も聞かされていない。夕子もそれが気まずいのか、叱られた子供のように膨れっ面をするだけで必要最小限のことしか口にしないままだ。
――やれやれ、どっちが親だか分かりゃしない。
家庭内の諍いを他人に見せる趣味は少なくともそらにはない。この場は納富の勘違いに乗っておくほうが良さそうだと思った。
「じゃあ、済みませんけど、母をよろしくお願いします」
「分かりました。師匠はどうされます?」
「……ん、そうだな。面会謝絶でないとは言え、そんなに大勢で押しかけるのも良くないな。私は今度にするよ」
そらは内心の驚きを何とか押し隠した。
先ほどの迷いが甦る。何ゆえに草薙はそらに手を差し伸べたのか。そらは草薙が夕子に気があるのではないかと漠然と思っていた。最初に夕子の店を訪れたときの会話の弾み具合もそうだったし、昨夜は半ば冗談めかしつつも夕子の店がなくなるのを危惧したようなことを言っている。ついさっきも納富が草薙が夕子の病室に行きたがったような当て擦りを口にした。
それならそれでもいい、とそらは思っていた。亡くなった実父のことを忘れたことはないが、もう20年近く前のことだ。宮下のような男に引っかかるくらいなら、多少苛烈なところがあったとしても草薙のほうが数段マシだと言える。しかし、それにしては、草薙の諦めようはあまりにもあっさりしすぎているようにそらには思えた。
病棟に歩いていく納富を見送ると、そらと草薙はどちらからともなく苦笑いを浮かべた。
「やれやれ、あの男は……」
「どうかされたんですか?」
「いえ、昨日の伊刈に生活安全課の課長補佐のクビが涼しくなっているのを教えた件です。まさか、昨日の今日で手を打ってくるとは思っていませんでしたが、今朝、監察官室に課長補佐の悪行を暴露する文書が匿名で送られてきましてね。監察は証拠固めが一気に進むと喜んでいるようですが、四課にしろ組織犯罪対策課にしろ、伊刈とその背後を狙っていた連中にとっては一網打尽にするチャンスが潰えたわけでしてね」
「はぁ……」
それがどれほど重大なことなのか、そらにも想像することはできる。しかし、実感はまったく湧かない。
「それってやっぱり、草薙さんにも迷惑がかかるようなことなんですか?」
そらの声が沈む。草薙は慌てたように目を瞬かせた。
「いいえ、昨日も言ったように私は公僕ではありませんのでね。そもそも私だって部外者なわけで、それに内部事情を知られる県警の情報管理に問題があるのです。しばらく、あの男に嫌味を言われる程度のものですよ」
すでに見えなくなった大きな背中を射抜くように草薙が廊下の奥を睨む。忌々しそうに細められているが、同時に親密なものを見る優しさが滲んでいる。
2人はエントランスを出た。そらが岡崎に帰ると言うと、草薙も自分も帰るのでどうせなら乗せていくと言った。断るのも失礼と思い、そらは好意に甘えることにした。