15.
「――着いたよ、そら」
喬生はアルファードのサイドブレーキを力いっぱい引いた。
碧南市から半田市、高浜市、武豊町にまたがる衣浦港の東岸、碧南火力発電所がある半島の先端に程近い一画。貨物取扱量で名古屋港や三河港に遅れを取ってはいるものの、碧南市は衣浦臨海工業地域の中核都市であり、港の周囲には工業製品を海上輸送するためのコンテナターミナルや保税上屋などの港湾施設が建ち並ぶ。
宮下からの電話の後、そらはすぐに喬生と連絡をとった。喬生は言われたとおりに宮下の携帯電話を鳴らした。そして、夫婦揃ってこの港へ来るように言われたのだ。
「こんなところに呼び出して、どうするつもりなんだ?」
喬生が誰に言うでもなく呟く。
満潮の海は2人の心象風景を代弁するように荒れていて、きまぐれに吹き付ける海風は皮膚を切りつけるような冷たさを持っていた。時折、突風と言ってもいいほどの勢いがあるので、そのたびにそらも喬生も襟を立てたコートの中で首をすくめざるを得なくなる。
「あいつ、何処にいるって?」
「上沼海運の第7保税倉庫って言ってたから、この辺のはずなんだけどな」
「……ねぇ、あれ、あいつの車じゃないかな?」
そらが指差した先、比較的小さな船が接岸する岸壁の手前に武骨なデザインの大型セダンがハザードを灯して停まっていた。
「デボネアだね。うん、間違いない」
そらは近寄って窓ガラスを叩こうとした。しかし、その前に運転席のドアが開いて宮下収が降りてきた。
「遅かったじゃねぇか」
「無茶言わないで。ここ、何処だと思ってんのよ。岡崎の街中からだと一時間以上かかるんだから」
「いいところに住んでると不便だな」
宮下が皮肉っぽく口許を歪める。本人はニヒルなつもりなのだが、そらに言わせれば性根の悪さを感じさせる以外、何の効用のない笑みだった。車に乗っていたので外套を着ておらず、寒そうに肩をすくめながらスラックスのポケットに両手を突っ込んでいる。
「ママは何処?」
そらが宮下を睨む。ノーメイクを隠すためのセルフレームの眼鏡越しなので分かりにくいが、視線というものに切れ味があるのなら、宮下をなます切りのバラバラ死体にしているほどの剣呑さだった。
「そう慌てなさんな。心配しなくてもちゃんとした部屋にいてもらってるよ。こんなクソ寒い外じゃなくてな。但し、夜中になると暖房が切れるんで、そしたら凍えるかもしれないが」
「……っ!」
言葉の後に続くせせら笑い。怒鳴りつけたくなるのを抑えたのはそら自身の自制心ではなく、代わって前に出ようと肩に添えられた喬生の大きな手の感触だった。
「宮下さん、僕らをこんなところに呼び出した理由を聞かせてくれないか」
「だから、慌てなさんな。こんなところで立ち話もアレだ。着いてきな」
くるりと背を向けて岸壁沿いを宮下が歩き出す。そのまま、後ろから体当たりして海に突き落としたくなる衝動をそらは懸命にこらえた。
訝る2人を連れて宮下が向かったのは倉庫街に建ち並ぶ貸し倉庫の1つだった。錆の浮いた巨大な鋼鉄製の扉があって、宮下はその横にある小さな通用口の鍵を自分の持ち物のような慣れた手つきで外した。気味の悪い笑みを浮かべながら2人に手招きをして、さっさと中に入っていく。
「あいつの仕事って不動産屋じゃなかった?」
宮下に聴こえないようにそらが囁く。喬生は小さく肯いた。
「そのはずだけどな」
「保税倉庫は関係ないよね?」
「貸し倉庫を取り扱ってれば別だけど……。でも、そんな感じでもないな」
不安と不審が2人の表情に影を落とす。
小さなドアの奥は倉庫に付属する小さな事務所だったが、宮下の姿はそこにはなかった。小部屋の奥のドアが半開きになっていて、更に奥からの明かりが洩れてきている。
2人は奥の倉庫に足を踏み入れた。
湿気と潮の匂いが入り混じった空気が篭もり、うず高く積まれた段ボールの黴臭さが鼻をつく。それほど大きな倉庫ではない。明かりは高い天井から吊られた蛍光灯のものだったが、点けられているのは宮下たちが立っている一角だけだ。
宮下の隣には数人の男たちが立っていた。全員がスーツの上にコートという身なりだが、全員が一見して真っ当な世界の住人でないことが分かる。そらはゴクリと唾を飲み込んだ。喬夫が半ば無意識に妻の身体を自分の後ろに下がらせた。
「……宮下さん、その人は?」
「そうか、あの時は会ってないんだったな。――イカリさん、こいつらです」
怒りと呼ばれた男が2人をねめつけた。
こめかみのところから数本の刈り込みが入った坊主頭。夜だというのに薄い色のサングラス。唇の端や眉尻、耳にはピアスが輝いている。均整の取れた長身を包んでいるのはグレイのダブルのスーツで、黒いトレンチコートを袖を通さずに肩から羽織っている。年齢のよく分からない男だったが、どんなに歳をとっていても喬生と同世代以上には見えない。
「おーい、宮下ぁ?」
間延びした口調。しかし、それは夕子の店から電話をかけてきた男の錆を含んだ声だった。
「は、はい。何ですか?」
「何ですか、じゃねーだろ。俺はおまえがここに来れば借金を払えるっていうから来たんだぜ。このクソ寒い中をよ。それなのに、さんざん待たせときながら俺の前には1円も出てこない。こりゃどういうこった?」
「あ、いえ、それは――」
「それは、じゃねーよ」
男はごく無造作に宮下の脚を蹴った。当たりどころが良く――宮下にとっては悪く――少し離れたところにいるそらたちにすらゴツッという音が聞こえたが、宮下は小さく顔をしかめただけでよろけた身体を立て直した。顔には卑屈な追従の笑みが貼り付いたままだ。
「すみません、イカリさん。嘘をついたわけじゃないんです」
「……どういうこった?」
「私の借金ですが、実はこの2人が肩代わりしてくれることになりまして」
「はぁ!?」
思わずそらが大声を出す。
「ちょっとあんた、何言ってんのよ? 寝言は寝てから言いなさいよ!!」
「えーっと、そういうわけで、今からその書類を作らせて戴こうと思うんですが」
宮下はそらに疎ましげな視線を投げつけただけで、抗議には取り合おうとしなかった。
「……話が見えねぇな。説明しろ」
イカリと呼ばれた男は小さな溜め息をついた。それを話を聞いて貰えるチャンスと捉えたのか、宮下の笑みはいよいよ深いものになった。
「ええ、この2人は先日お話しした河合夕子の娘とその夫です。まぁ、私からすれば息子と娘みたいなもんです。で、私の保証人と言いますか、私の借金と同じだけをイカリさんから借りて、その分をこっちに回してくれることになったんです」
「だからッ!!」
そらが怒鳴った。誰がおまえの息子と娘だ。
「何、勝手なこと言ってんのよ。誰がそんなこと引き受けるもんですか!」
「……口の悪い娘ですいません、イカリさん。気にせんでください。ちゃんと話し合った上で了解済みの話なんで」
「いつ、あんたとそんな話を――」
喬生の手がそらの腕に触れた。
そらは思わず喬生の横顔を見上げた。そこに浮かんでいるのは、どんなに機嫌が悪いときでも見せたことのない憤怒の表情だった。
その瞬間、そらは我に返った。この為に宮下は夕子の身柄を押さえているのだ。
「――おい、あんた。少し黙っててくれないか」
イカリが初めてそらの方を向いた。静かな口調だったが有無を言わせない響きを含んでいて、そらは思わず生唾を飲み込みそうになった。
「つまり、宮下。おまえはこの2人に自分の借金を押し付けようってハラか?」
「いや、そう言うと人聞きが悪いんですが――うあッ!!」
再びイカリが宮下の脚を蹴った。今度は耐え切れずに宮下の体が地面に転がる。
「大体、あの小料理屋の女将とヨリを戻したのも、あの女が溜め込んでるカネを巻き上げるのが目的だったんだろ?」
「あ、いえ……はい」
何のことだか、そらには飲み込めなかった。夕子が金を溜め込んでいるとは初耳だったからだ。
「おい、そこの奥さん」
イカリはそらに言った。
「……何よ?」
「知ってるかい。あんたのお袋さんはずいぶんと貯金しているらしいぞ。聞いた話じゃ2千万近くあるらしい」
「2千万!?」
「ああ。ツメに火を灯すようなって言うと古臭いが、店の売上げからずっと少しずつ積み立てたものだそうだ。子供たちに迷惑かけないように老後の蓄えってことらしい。泣かせる話じゃねーか」
そらは茫然とした。見栄っ張りの夕子が「金がない」と口にすることは滅多になかったが、こじんまりした小料理屋の売上げだけで2人の子供を育てたのだ。河合家の経済状態が楽だったことなど1度もないはずだった。
「なぁ、ひどいと思わないか? コイツはお袋さんをたらしこんで、その金を取り上げようようと考えてたんだ。人間のクズってのはコイツの為にある言葉だ。そうだろう?」
まったく同感だとそらは思った。ただ、そんな男に金を貸して、その取立ての為に母親の店を壊したこの男に言われたくなかった。
「――とは言え、俺も慈善事業でこの仕事をやってるわけじゃない。どういう事情かは知らないが、あんたたちがこの男の借金を肩代わりするって言うなら、そうせざるを得ない」
「知らないだと!?」
これまで黙っていた喬生が初めて声を荒げた。
「本当に知らないのか? この男は俺たちに借金を背負わすためにお義母さんを――」
「そこまでだッ!!」
イカリが喬生以上の怒声で言葉を遮った。
「そんなことは知らん。知りたくもない。――宮下、俺たちがおまえに貸してるのと同じだけの借用書を用意して、こいつにサインさせればいいんだな?」
「馬鹿なことを言うな。そんなカネ、払わないぞ!」
首振り人形のように肯き続ける宮下を見下ろしていたイカリが、何か可笑しなものを見つけたように満面の笑みを浮かべて喬生の前まで歩いてきた。胸同士がぶつかるほど近づき、喬生の目を覗き込む。
「おまえのことは知ってる。樋口喬生――保険の代理店で管理職をやってるんだってな」
何故、そんなことをこのヤクザが知っているのか。喬生は訝った。
簡単なことだ。宮下は火災保険での焼け太りを画策していたが失敗して、チンピラを引き連れて自分の会社に乗り込んできている。せしめるはずだった保険金の行先も、脅しの為に貸し出された男たちの所属先もイカリの会社か、それに類するところなのだ。
「それがどうした?」
「聞いた話じゃ、ずいぶん信頼されてるそうじゃないか。それが、俺たちみたいな連中から借金しているなんて知れたら、おまえの上司や会社の顧客はどう思うんだろうな?」
「……こんな契約は無効だ。お義母さんの身柄を盾にした脅迫だし、こんなところに呼び出しての強要はそれ自体が違法だ。会社やお客さんには事情を説明すれば分かって貰える。それくらいの信用は積み上げてきた自信がある。俺を馬鹿にするなよ」
「この状況でそれだけの啖呵が切れるとは大したもんだ。おまえの叔父さんとやらに爪の垢を煎じて飲ませてやったほうがいいんじゃないのか」
イカリが喬生に向けているのは、まるで親しい友人を見るような朗らかな笑みだった。その邪気のなさが逆にそらの背筋を凍らせた。
「だがな、おまえは1つだけ忘れてる。ヤクザに理屈は通じない。政治家に倫理が通じないのと同じだよ。諦めて書類にサインしろ。なぁに、このクズと違っておまえは真っ当な勤め人だ。生活が破綻するような取立てはしないし、何なら、俺たちに協力すればそのたびに幾らか棒引きにしてやってもいい」
「……くそッ!!」
喬生は歯軋りしそうなほど奥歯を噛み締めた。隣でそらは泣き出しそうになりながら夫の表情を見つめていた。
心の中では母親のことなんかどうなってもいいからこの場を立ち去れと叫んでいた。そんなことで喬生の人生を汚すことなど、自分には耐えられない。
しかし、今、自分たちがこの場を去ればイカリは宮下を吊るし上げるだろうし、それは間違いなく夕子の身にも及ぶ。その恐怖に喉を締め付けられて言葉を発することが出来ない。
喬生は魂を吐き出すような大きな溜め息をついた。
「――分かった。サインする。書類を用意してくれ」
「喬生さんッ!!」
「仕方ないだろ、そら。お義母さんの命には代えられない」
「でも――」
「確かに母堂の命には代えられないな」
唐突にその場に違う声が割り込んできた。静謐で重々しい声。
その場の全員の注目の集まった先には、漆黒のインヴァネス・コートに身を包んだ痩身の老人の姿があった。
「そのカネ、私が払おう。幾らだ、若造?」