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熾火  作者: 須藤彦壱
14/27

14.

 

 

 ミハエル・シューマッハばりの猛スピードと運転マナーの悪さを発揮するさつきの運転で岡崎に戻った2人は、そのまま夕子のアパートへ直行した。

 あの夜、夕子はいつものように和服に割烹着姿だったが、それらは家に持ち帰られている。売店に行ったりするのに入院患者のお仕着せは嫌だと言うのでスエットの上下とワンピースくらいは用意してあったが、この寒さの中を出歩けるような衣服は夕子の傍にはないはずだった。

 だとすれば行った先は限られてくる。それなりの格好に着替えられて、尚且つ、手持ちの現金を補充できる場所は自宅しかない。

 しかし、部屋の様子はそらが夕子の服を取りに行ったときと何ら違わなかった。

 築年数の進んだアパートは父親が世を去った直後から家族3人が過ごした2DKだ。広くない上に勝手知ったるという意味では喬生と住むマンション以上で、少しでも変化があればそらに分からないはずはなかった。

 その後、夕子が立ち寄りそうなところ――知人が経営する数軒の店や「年甲斐もない」との声に耳を貸さずに1人で通っていたカラオケボックスを回っても、夕子の姿を見たものはいなかった。片付けの終わらない店を気にしたのではと思い飲み屋街にまで足を伸ばしたが、結果は同じだった。

 縁石に乗り上げんばかりの勢いで停まったレガシィから、そらは自宅マンション前の舗道に降り立った。助手席の窓から運転席を覗き込む。

「ごめんね、さつき。あちこち引っ張り回して」

「そんなの気にしなくていいけど。それより、何かあったら電話すんのよ」

「――うん」

 そらは僅かに口ごもった。

「どうかした?」

「ん……ううん、何でもない。ありがと」

 走り去るテールランプを眺めながらそんなことを考えていると携帯電話が鳴った。喬生からだった。

「もしもし?」

「僕だけど。お義母さんは見つかった?」

「まだ。さっき、家に行ってみたけどもぬけの空。帰ってきたら電話くれるようにメモは残してきたんだけど――」

「携帯電話は?」

「出ない。電源も入ってないみたい」

「どうしたんだろうな、一体」

「うん……」

 お互いに言葉が続かない。喬生は申し訳なさそうに重い溜め息をついた。

「ごめん、そら。飛んで帰りたいところなんだけど、今日は社長も部長もいないから、営業が全員が帰ってくるまでいなきゃならないんだ」

「ううん、いいの。こっちこそ、ママが迷惑かけてゴメンなさい」

「何言ってるんだよ。そらのお母さんなんだから当然だろ」

 喬生の優しい声音にそらは救われる思いがした。

「出来るだけ早く帰るよ」

「うん、待ってる」

 電話を切ってから、そらは喬生に負けないほど深い溜め息をついた。

 脳裏を占めるのは嫌な予感ばかりだった。いくら夕子が病院で大人しくしているような気性でないと言っても、自分に黙ってばかりか、誰にも気づかれないように姿を消す必要はない。あるとすれば、すべての原因である宮下収との揉め事が関わってる場合くらいだ。

 もちろん、そうだと決まったわけでもない。もし、夕子が単なる気まぐれで外出しただけならとんだ笑い話になる。

 むしろ、そうであってくれ――そう願えば願うほど膨らむ暗い想いを、そらは懸命に頭から追い払おうとした。

 自宅に入り、コートを脱いでソファに放った。バッグも乱暴に投げだし、冷蔵庫から取り出したウーロン茶を呷る。ビールに手を出さなかったのはそらの最後の理性だ。

 喬生が帰ってきたら、まずは宮下の関与を確かめに行かなくてはならない。毛嫌いしていたこともあって、そらは宮下の自宅と会社の両方の正確な場所を知らない。しかし、喬生ならかつての契約者のことを把握しているはずだ。

 しかし、逆に言えばそれまでそらにできることは何もない。

 波立つ気持ちを宥めるために何かしたかった。しかし、何をすればいいのか思いつかない。目についたのはほんの思いつきで揃えた中国茶器のセットだったが、悠長に茶器を並べる気になどなろうはずもない。

「……お風呂入ろ」

 このマンションの風呂は二十四時間タイプでいつでも入れるので、そらはエアコンの設定を高めにして服を脱ぎ捨てた。夕子から連絡があるといけないので携帯電話は脱衣場まで持ち込む。

 ざっとシャワーを浴びてからオイルでメイクを落とした。

 ナチュラルメイクの方が喬生の反応が良いのであまりキッチリとしたメイクはしないそらだが、人前に出る仕事なので手抜かりのないようにはしている。少し熱めの湯で洗い流して素顔になると、窮屈な服を脱いだような開放感に肩の力が抜けるような心地よさを覚えた。

 お気に入りのボディソープを手に取り、手足から身体に向けてマッサージするようにゆっくりと手を滑らせる。

 喬生が使うので体を洗うスポンジやタオルもあるが、肌が荒れるような気がするので、そらはもっぱら自分の手で洗うことにしている。手が届かない背中を洗うのは喬生と一緒であればスキンシップを求める絶好の口実だし、色白の肌に手のひらを這わせる仕草も少しオーバーにやれば淡白になりつつある夫への充分な誘いだが、一人のときは仕方ないのでスポンジで洗う。

 身体にまとわりつく泡を洗い流して、そらは鏡にシャワーを浴びせて曇りをとった。浴室用にしては大きな鏡に均整の取れた裸身を映してチェックするのもそらの入浴時の習慣だが、今は見たからといって何ら感慨を抱くような気分ではない。にも関わらずそうしたのは、考えが千路に乱れてまとまらない――有体に言えば呆然としていたからだった。

「それにしても、今夜は寒いなぁ……」

 湯船に浸かったそらはポツリと呟いた。

 日が落ちて気温は下がる一方だった。新しいマンションなので気密性が高く、少しくらい冷え込んでも影響は少ないのだが、それでも寒いのだから外は相当な寒さのはずだ。

 それなのに夕子は何処へ行ってしまったのか。

 しばらく、湯船で体を温めているとリビングの固定電話が鳴り始めた。

「もう、一体誰よ?」

 共働きの夫婦が揃って携帯電話を持っているとまま起こることだが、連絡先を訊かれるとつい便利の良い携帯電話の番号を教えてしまう為、この固定電話が鳴らされることはあまりない。喬生の両親がどういうわけかこちらにしかかけてこないので頓挫したが、そらは一時期、本気で解約を考えたほどだ。

 そらは慌ててタオルを巻いてリビングに出た。

「もしもし、樋口ですけど?」

 やや刺々しい声で応対しながら、そらはナンバー・ディスプレイに目をやった。表示は〈コウシュウデンワ〉だった。

 受話器の向こうは無言だった。

「もしもし?」


(――何よ、悪戯電話?)


 このややこしい状況のときにつまんないことするな――普段のそらなら心の中で舌打ちするか、虫の居所の悪いときなら思いっきり怒鳴りつけてから受話器を叩きつけるところだ。しかし、沈黙の中に微かに聞こえる音がそらの意識を捉えていた。

 波の音だ。そして、寒々しい風の音。それは風呂に入って幾分和らいでいた不吉な予感を一気に呼び起こした。

「もしもし、ママなの!?」

 またしても無言。

「ねえ、ちょっと! 誰なの、一体!?」

「……くそっ、煩ぇな。電話口でギャアギャア喚くんじゃねえよ」

 切れ切れの小さな声に聞き苦しい雑音が混じる。しかし、それが宮下収なのは間違いなかった。

「おい、旦那はいるか?」

 押しが強いいつもの口調。何の権利があってこれを自分の母親に向けるのかとそらは憤ったものだ。冷静に聞けばその口調に焦りや疲れが滲んでいることが分かったはずだが、しかし、今のそらにそれを求めるのは酷としか言いようがない。

「まだ帰ってきてないけど……。それがどうしたのよ?」

「くそッ、いねえのか」

「ちょっと、人の話を聞きなさいよ。喬生さんがどうしたのよ!?」

「喚くなって言ってるだろうがッ!」

 宮下が凄む。ドスの利いた声に気の強いそらもさすがに怯んでしまう。

「――フン、いないんならしょうがねぇ。すぐに電話して、俺の携帯にかけろと伝えろ。いいな?」

「ちょっと、藪から棒に何言ってんのよ。そんなの、ハイそうですかって言えるわけないじゃない。あんた、バッカじゃないの?」

「オイ、下手な口を利くなよ。おまえのお袋さんの命は、俺の一存にかかってるんだからな」

「……何ですって?」

 あまりに陳腐な脅し文句。こんな状況でなければそらは鼻で笑い飛ばしたはずだ。

「じゃあ、やっぱりママがいなくなったのって……」

「オイオイ、人聞きの悪いことを言うなよ。俺が病院から連れ出したわけじゃないぜ。俺はただ、別れたいんなら最後に話をしようって言っただけだ。そしたら、おまえのお袋さんがのこのこ出てきたんで、とある場所に閉じこもってもらってるだけさ」

 それを誘拐と言うのだ、と怒鳴りたかった。しかし、今になって宮下が吐いた”おまえのお袋さんの命”という言葉がそらの胸に圧し掛かった。

「あんた……自分が何を言ってるか分かってんの?」

「分かってるさ。充分すぎるくらいにな。じゃあな、旦那に伝えろよ」

「ちょっと、待ちなさいよ! ママを何処にやったの!?」

 返事はなく電話は切れた。慌ててコールバックしようとたが公衆電話に繋がるはずもない。

 両脚から力が抜けていくような感覚がそらを襲った。あまりのショックに立っていることができない。

 警察に通報するべきなのだろうか。

 そらは電話のボタンをじっと見つめた。1、1、0――たった3つのボタンを押す。ただそれだけのことなのに、もし通報したことで夕子の身に何かあったらと思うと決心がつかない。

 

(どうしてこんなことに――)

 

 座り込んだ拍子にタオルが肌蹴てしまったのにも気づかず、そらはしばらく茫然自失の状態だった。しかし、やがて夢遊病者のような不確かな手つきで喬生の携帯電話の番号を押し始めた。

 

 

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