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熾火  作者: 須藤彦壱
13/27

13.

 

 

「――始めッ!!」

 審判の声が響くと当時に、2人の剣士が共に裂帛の気合いを吐き出す。

 1人は深い藍色の道着に黒い胴。もう1人は薄い灰色の道着に藤色の胴。藍色の剣士は長身の上に竹刀を左諸手上段に構えていて、その威圧感は灰色の剣士を押し潰さんばかりだ。

 しかし、相対する灰色の剣士はその圧力を青眼に構えた剣先で受け流していて、その小柄な身体には欠片ほどの気負いも力みも感じられない。相手の剣先が自分の方を向いておらず、間合いを測るのは至難の業の組み合わせにもかかわらず、藍色の剣士が小さく前に出れば同じだけ下がり、間合いを切るために距離をとろうとすれば同じだけ踏み込む。藍色の剣士が小刻みに身体を揺らしているのに対して、灰色の剣士はほとんど上下動をしない。曲線的で滑らかな足捌きは剣道家のものというより、日本舞踊などの動きを思い起こさせた。

 先に打って出たのは藍色の剣士だった。

「ンメェェーンッッ!!」

 2メートル以上あったはずの間合いが一瞬で消える。竹刀同士が激しくぶつかり合い、何かが爆ぜたような大きな音を立てた。

「ひっ!!」

 道場の隅で見学していたそらは喉の奥で悲鳴をあげた。

 捜していた記事を見つけて草薙の家を訪ねることになったのは良かったが、さすがにアポイントもとらずに行くわけにはいかなかった。本当はサプライズを仕掛けたかったがやむを得ない。

 そういう理由で何の用件かだけ伏せて、草薙に「お宅にお邪魔してもいいか?」と電話をかけたのだ。

 ところが返ってきたのは「生憎、今日は夕方まで県警本部の警察道場にいて、その後も関係者の会合に顔を出すことになっている」との答えだった。

 別の日にしようと考えなかったわけではない。

 しかし、記事を見つけた興奮がそらに「だったら、道場を見学させてもらってもいいですか?」と言わせていた。剣道にはまったく興味もなければ知識もないが、草薙が実際に剣を振るっているところを見たいと思ったからでもある。

 それにしても、とそらは内心で呟いた。

 武道に馴染みがあるわけではない上に、さすがは警察の剣道場だけあって居並ぶ男たちは揃いも揃って屈強な偉丈夫だ。間違っても襲われたりしないことは分かっていても、彼らが放つ独特の鬼気はそらを脅えさせるには充分だった。

 しかし、そらの後悔はそれだけではなかった。その中では異彩と言っていいほど小柄な草薙に、稽古の間でもずば抜けて他を寄せ付けなかった大柄な剣士が容赦なく襲い掛かっているのだ。さっきの飛び込み面は竹刀をすらすようにして受け流したが、その勢いで草薙は場外に押し出されそうになった。追い打ちの斬撃をしのげたのは素人目に見ても奇跡の領域の出来事だった。


 ――やっぱり、来るんじゃなかった。


 そらは固く目を閉じたままで思った。理由はどうあれ、そして誰が相手であれ、そらは草薙が敗けるところなど見たくなかった。

「うっわ、すっごい迫力」

 何だかんだ言いつつ着いてきたさつきが耳を押さえて顔をしかめる。

「お年寄り相手だから手抜くかと思ってたけど、アレ、マジだね」

「そうだけど……草薙さんは?」

「だいじょうぶ、今のは何とか避けた。つーか、あんた、何しに来たの?」

「だってぇ……」

 そらは恐る恐る薄目を開ける。視線の先には先程と微塵も違わぬ姿勢で相手の剣先を待つ灰色の剣士――草薙伊織の姿があった。

 草薙が相手の嵐のような打ち込みを捌き切ると、今度は互いの手の内を読み合うような静かな展開になった。藍色の剣士が構えを中段に変えたことで剣先同士が小刻みに当たるバチバチという音が響き、文字通り火花が飛び交っているような感じになる。

 藍色の剣士は小刻みに身体を揺らし、草薙に向かって切り込んでいくタイミングを計っている。その姿には一切の手加減が見当たらない。

 しかし、そらとさつきを除いたこの場にいる誰もが、追い詰められているのは藍色の剣士だということを悟っていた――当然、本人も。

「シャラァッ!!」

 しびれを切らしたように藍色の剣士が打って出ようとする。

 その胸元を指差すようにスッと草薙の剣先が動く。どこかを突いたわけでもなければ、次の攻撃を想像させる動きでもない。しかし、その小さな動きだけで前に出ようとした巨躯が押し戻される。

 隙がないのだ。打ち込もうと思えば打ち込める場所はある。だが、それは罠で、誘い込まれれば次の瞬間には自分が打ち据えられる。それが分かっているから引かざるを得ない。

 審判が壁の時計に視線を飛ばす。それが合図だったかのように藍色の剣士に焦りの色が見え始める。

「――クッ」

 もう一度、力技の斬撃で流れを引き戻す。

 藍色の剣士がそう考えるのは無理からぬことだった。そして、彼はその作戦を実行に移そうとした――そのとき。

 ゆらり、と動いた草薙の竹刀が相手の籠手を打っていた。

「コテ」

 気負いの欠片もない声と共に草薙は残心の構えをとった。

 傍目には棒立ちになった剣士の横に回り込み、がら空きの籠手を上から打ち据えたようにしか見えない。少なくともそらたちにはそうとしか見えなかった。

 しかし、実際には剣士が踏み出そうとした瞬間、草薙も動いていた。半歩ほどの踏み込みで間合いを詰めた動きと連続して横に回り、剣士の視界から一瞬で姿を消す。普通の所作であれば目で追えたかもしれないが、草薙が見せた舞いのような滑らかな動線を捉えることは不可能だった。

 藍色の剣士はがっくりと膝をついた。

「――参りました」

 肺腑の言にしては清々しい声。草薙は左手に竹刀を持ち、剣士に厳しい視線を向けた。

「まだまだだな、納富」

「最初が思いの外、上手くいきましたからね。時間的にもあそこが勝負どころかと――」

「そこがお前の浅はかなところだ。見の目を弱く、観の目を強く。何度言ったら分かる?」

「面目次第もありません」

 納富と呼ばれた男は深々と頭を下げた。草薙はそれ以上は言わずに面を外し、そらたちの方に歩いてきた。

「お待たせして申し訳ない」

 剣を振るう興奮が幾らか残ってはいるものの、礼儀正しい静かな笑みはいつもの草薙だった。

「せっかく来て下さったのに、ここではもてなしもできませんな」

「いえ、お気遣いなく。これを届けにきただけなので」

 そらは折り畳んだコピーを草薙に手渡した。

「これは?」

「お捜しだった記事です。お嬢さんのピアノの発表会の」

 草薙に眉根が寄った。

「どちらにあったんですか?」

「昭和57年2月の縮刷版の中に」

 そらは記事が発表会から2週間後の休日号外の文化欄に載っていて、それが日別に収録された通常版の後ろに納められていたことを説明した。最初は怪訝そうだった草薙の表情はやがて照れ臭そうなものに変わっていった。

「そういうことでしたか……。いや、早とちりと言うか思い込みと言うか。人のことを浅はかなどと罵っている場合ではありませんな」

「仕方ありませんよ、まさかこんなことだなんて誰も想像しませんから。ねぇ?」

 同意を求めたそらに、さつきは曖昧に「そうですねぇ」と返した。そらと違って彼女は草薙に特別な想いがあるわけではない。率直に言えば、そらが親子ほども歳が離れた老人に入れ込む理由もよく理解できない。

「――とにかく、これで心の支えが1つ取れました。何とお礼を言えば良いやら」

「そんな、お礼だなんて……」

 恐縮する草薙にそらが慌てて胸の前で手を小さく振る。

「ところで、ご母堂はその後、如何ですかな?」

 草薙は少し声を潜めて訊いた。

 母親を巡る一連の出来事は仕事のシフトの関係でさつきに話してある。なので、草薙のように曖昧な問い方をする必要はなかったが、それはもし不都合があればどうにでもごまかせるように気遣った質問だった。

 それでも、そらは詳しい経緯は話さないつもりだった。過程がどうであれ、夕子と宮下の関係が今度こそ終わることは間違いない。そうであれば、草薙に無用な心配をかける必要はどこにもなかったからだ。

「とりあえず、別れてくれるみたいです」

「……そうですか。それは良かった。いや、他人の離反を良かったと言っていいのかどうかは分かりませんが」

「いえ、良かったんです。草薙さんにもいろいろとご心配かけました」

 そらはあらためて深々と頭を下げた。草薙は照れるでもなく静かに頷いただけだった。

 県警の正面口まで見送られて、2人は来客用駐車場まで歩いた。

「どうしたの、そら。何だか寂しそうだけど?」

「えっ?」

「これでもう、あのお爺さんに会う理由がなくなったから、落ち込んでるんじゃないの?」

 意外な指摘にそらは素っ頓狂な声をあげた。

「べ、別に寂しくなんかないよ。これでお別れってわけじゃないし」

「そう?」

「当たり前じゃない。もう、さつきったら何言ってんのよ」

 そらは口を尖らせてさつきの背中を軽くどやしつけた。すれ違った制服警官がそんな2人に怪しいものを見るような目を向ける。

 これで終わりじゃない。そらは心の中で繰り返した。しかし、本当にそうだろうか。

 記事を見つけて目的を果たした草薙が、今後も図書館に顔を出すかどうかは分からない。ちょっとした気の迷いではあったが、持ちかけた母親に関する相談も一段落ついた。きっかけである草薙の怪我も今日の様子を見る限りではすっかり癒えている。

 その怪我に対するちゃんとした詫びは残っているが、それを果たしてしまえばそらと草薙の間には関係を保つ口実はなくなる。

 友人にはなり得ない。そもそも、2人は年齢的にも経済的にもまったく違う世界の住人なのだ。訪ねていけば邪険にされることはないだろうが、そこまで厚かましい真似をして繋がりを持ち続けなくてはならない理由もない。

 漠然とした思いがそらに薄い溜め息をつかせた。それを見たさつきがニンマリと笑う。

「ねぇ、そら。せっかく名古屋まで出てきたんだから、何か食べていかない?」

「うーん……。ウチは喬生さんいるから、軽いものなら付き合うけど」

「あ、そっか。だったら駄目だね。帰ろっか?」

 元気づけるつもりが目算が外れて、さつきは苦笑した。

「いいの?」

「いいよ。別に」

 2人はさつきのレガシィに乗り込んだ。そのとき、そらのバッグの中で携帯電話が鳴った。見覚えのない固定電話の番号からだった。

「もしもし?」

「ああ、えっーと、河合夕子さんのご家族の方ですね?」

 電話の主は夕子の入院先である病院の看護師長と名乗った。ちょっと度を越したハスキーヴォイスに聞き覚えがあるので間違いない、とそらは思った。

「そうですけど……。母がどうかしましたか?」

「その……、実はお母さまが病室にいらっしゃらないんですよ。午後の回診のときにはちゃんといらしたのに、さっき、夕食を運んで行ったら姿が見えなくて。手荷物とお洋服が見当たらないんで、ひょっとしたら家族の方とご一緒なのかと思いまして――」

「いえ、何の連絡もありませんけど……」

 元来、夕子は病院のベッドで大人しくしているタイプではない。自分でもう大丈夫だと思えば勝手に退院してしまう可能性は少なからずある。しかし、まるで逃げ出すように病院から姿を消したりはしないはずだ。

 思い当たるところに電話してみると答えて、そらは電話を切った。

「どうかした……みたいだね」

 さつきはギョッとした表情を隠そうともしなかった。そらの目つきはそれまで見せたことがないほど険しいものだった。

 

 

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