12.
「あったッ!!」
マイクロフィルムのビューアーから顔を上げたさつきが歓喜の声をあげた。
「ホントッ?」
「うん、これだよ。間違いない。……ああ、そういうことか」
画面を見ながら一人で何度も肯く。向かい合わせのビューアーから席を立ったそらが慌ててさつきの背後に立つ。
母親の店の悶着があってから3日後。溜まっていた心労が一気に噴き出した夕子はまだ入院したままだったが、1人で家においておくより病院の方が安心できるという理由で、そらはむしろ、その措置を歓迎していた。
昨日までは何をするにも心もとなくて付きっ切りだったが、今朝はずいぶんと快復しているようだったので、そらは「せっかくの休みなのに旦那が出張で暇だよ~」とボヤくさつきをランチで買収して手伝わせながら、縮刷版のマイクロフィルムと格闘していた。
「ねぇ、そら。草薙さんのお嬢さんのピアノの発表会があったのって、羽田で飛行機事故があった日だよね?」
肩越しに振り返ったさつきが訊いた。
「2月9日だったかな。それが?」
「だからよ。そりゃあ、記事が見つかるわけないわ」
「……意味わかんないんだけど。1人で納得してないで説明してよ」
「これ見て」
さつきの指が画面に大写しにされた新聞記事を指す。昔のものらしく鮮明さに欠ける新聞の体裁の一番上に2月22日の日付があった。
「どういうこと?」
「ピアノの発表会の記事なんて、国際コンクールでもなければリアルタイム性はないってこと。この記事は日曜版号外の文化面に載ってたの。おまけにこれ、朝刊と夕刊を日別に収めた後ろに収録されてたからね。いくらあの人が丹念に読んでいっても、こっちに収めてあることに気がつかなきゃ見つかるはずないってわけ」
「なるほどねぇ」
草薙も発表会の日以降の一週間かそこらの記事はつぶさに目を通しただろう。しかし、地方面や本紙の文化面しか読んでいなかったのだ。
そらは画面を覗き込んだ。それは大手楽器メーカー主催の小学生ピアノ・コンクール地方予選の記事だった。
全国大会への切符をかけて各地で行われたもので、東海地方予選は例年だと静岡市で行われるのだが、この年だけは落成したばかりの市民文化会館のお披露目を兼ねて豊田市に誘致されていた。その大会で地元の子供が優勝したのだからそれなりのニュースバリューはあったわけだ。逆にいえば、そうでもなければ新聞には載らなかっただろう。
記事はそれほど大きくはなかったが、添えられていた写真はなかなかの大きさだった。ステージ上で小さなトロフィーを抱きかかえる少女がはにかんだ笑顔を浮かべている。ふんわりしたパフスリーブと胸下で切り替えになったフェミニンなデザインのワンピースが良く似合っていて、そらは子供の頃に買ってもらった人形が着ていたドレスを思い出した。
少女の名は草薙弥生。大人びた利発そうな顔立ちだが、おそらくは今より更に厳めしかったに違いない父親の面影はほとんど感じられない。背後に写っている年配の女性が母親だとしたら、そちらのほうが似ているように見える。当時、小学校高学年なら草薙弥生は今は40歳前後ということになる。
この少女と草薙伊織の間に横たわる断絶に想いをめぐらすと、肺の中の空気が澱んでしまったような重苦しさを覚える。自分は彼女の父親しか知らないのでどうしても彼の立場で考えてしまうが、娘には娘の言い分があるだろうし、もし、それを聞く機会があれば自分に近いであろう弥生の気持ちのほうが理解できるかもしれない。
そらはしばらく画面の中の少女を見つめていたが、隣のさつきも気づかないほど薄い溜め息と共にその考えを頭の隅に押しやった。代わりにずっと前に失くした宝物を見つけたような満足感を噛み締めることにした。
「何にしても良かったね。ほら、早くコピーとっておいで」
さつきはビューアーのスリットからフィルムを取り出してそらに手渡した。そらは小さなフィルムを抱くように胸に当てると、静かに言った。
「ねぇ、これ、草薙さんちに持っていってあげたほうがいいかな?」
「いいかなも何も、そのつもりなんでしょ?」
混ぜっ返すような少し意地悪な笑みがそらに向けられる。そらは小さく舌先を出した。
「乗せてってくれる?」
「いいけど。でもさ、最近はガソリンだって安くないんだよ。おまけに運転手もするんだし、ファミレスのランチだけじゃちょっとね~」
そらは口を尖らせた。足代わりをさせるのだからそらも最初から何か礼をするつもりだったし、さつきにしても半分は冗談で言っている。この手のやり取りは2人のいつものレクリエーションのようなものだ。
「もう、さつきってば、ホントがめついんだから……。この上、何を奢ればいいの?」
「そうだなぁ――じゃあ、奢りじゃなくていいから、今度のお休み前に一緒に呑みに行こう。駅前にいい店見つけたんだけど、さすがに1人じゃ行けないからさ」
「えーっ、さつきと呑みに?」
「何か問題ある?」
「だって、さつきのペースに付き合ったら二日酔い間違いなしなんだもん。あれだけの量で、しかも何種類もチャンポンして呑んでるのに平然としてるってどういうこと?」
「そういう遺伝子なのよ。ウチのお姉ちゃんも呑み方はまったく同じだし」
その話は聞いたことがあった。さつきには性格が正反対のあまり仲の良くない姉がいるが、酒に関しては飲み方も飲む量も好みもまったく同じなのだという。
「さつきんちの家系って肝臓だけロシア人なんじゃないの?」
「んなわけないでしょ。で、どーすんの?」
「付き合うよ。でも、お願いだから、赤ワインと白ワインを混ぜてロゼって言い張るのだけはやめてね。あと、それを周りの知らない人にまで無理やり勧めるのも」
「あんた、本当にやなこと覚えてるわね……」
今の職場に入ったときの歓迎会の席でやらかした失態を持ち出されて、さつきはわざとらしく盛大に顔をしかめた。そらは小さな苦笑いでそれに応えた。