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熾火  作者: 須藤彦壱
11/27

11.

 

 

 そらが病院から母親の店に戻ると、喬生が散らかった店内を黙々と片付けていた。

 つけっぱなしの有線放送からはジャズが流れている。歌と言えば演歌か懐メロポップスしか聴かない夕子なので、喬生がチャンネルを変えたのだろうとそらは思った。今は甘ったるい声のテノール歌手が”The days of wine and roses~”と歌っていた。

 そらには悪い冗談としか思えなかった。

「……ただいま」

「お帰り。お母さん、どうだった?」

 喬生は努めて明るい声を出した。夕子のことが心配なのは同じだったが、自分まで陰鬱になっても意味がないことを喬生は理解していた。

「とりあえず怪我はなくて、倒れたのは精神的なショックによるものだろうって。鎮静剤を飲んで一晩眠れば大丈夫みたい」

「それなのに入院したの?」

「うん。ちょうどベッドが1つ空いてたから――」

 夕子が入院することは一足先にメールで知らせていた。実はそのせいで喬生はかなり気を揉んでいたのだが、落ち込む妻の前ではそんな素振りも見せない。

 店の中は冷え切った身体から思わず力が抜けるほど暖かかった。そらはコートを脱いで小上がりに放り投げた。マフラーを少し乱暴な手つきで解くとその上に載せる。

 軍手をした喬生はおっかなびっくりな手つきでガラスや陶器の破片を拾い集めていた。細かい破片は箒で掃き集めるしかないが、大きなものはだいたい片付いていた。

「喬生さん、そんなことしなくていいよ。どうせ、しばらく営業なんかできないし……」

 そらの表情が曇る。

「でも、帰ってきてこの様子じゃ、お義母さんだってガッカリするだろ?」

「そうだけど……。でも、今夜やらなくてもいいよ。あたしが後でやっとくから」

「じゃあ、これだけは外に出しとこう。どうせもう使えないだろうし、お義母さん1人じゃ運べないからね」

 喬生は裏口の戸に立て掛けてある、中ほどで真っ二つに折れた衝立をポンポンと叩いた。格子状の木枠に薄い障子のような和紙を貼ったものだが、外側はそれなりの太さがあるので重いし頑丈だ。大柄な誰かが体重をかけて圧し掛かるか、あるいは余程の勢いでぶつかりでもしなければ折れるような代物ではない。

 寒い外に衝立を運んでいく頼りがいのある夫の背中を、そらはしばらく見つめた。


(……それにしても酷いな)


 店の中を一瞥すると溜め息が盛れる。

 小料理屋とはいえ酔客を相手にする店だ。客が暴れたことは過去に何度もある。掛け軸で隠してあるが小上がりの一番奥の壁には大きな穴を塞いだ補修の痕があるし、入口の引き戸はそらが知っているだけでも3回交換されている。

 それでも、今夜の荒れ具合は尋常ではなかった。比較的丈夫なテーブルやカウンター周りこそ被害はないが、衝立や椅子などの調度類はどれもバラバラになっているし、清楚なスイセンを生けた硝子の花瓶やカウンターの上の料理を盛る器の類はどれも跡形もなく割られてしまっている。夕子が一時期熱中して、今も質素な店内を心ばかりに彩っていたタペストリーは半分ほどから引きちぎられ、無惨な姿でぶら下がっていた。

「さっき、隣のスナックのママさんが来たよ」

 喬生が戻ってきて軍手を外す。どうしたものかと迷っていたが、それにも硝子の細かい欠片がついてチクチクするので2度は使えない。喬生は軍手を丸めて破片を入れたビニール袋に放り込んだ。

「なんだって?」

「うん……。お義母さんは無事だったのかって」

「そんなこと今さら訊きにくるくらいなら、あいつらが店で暴れてるときに助けに来てくれればいいのに」

「無茶言っちゃダメだよ。誰だってヤクザは怖いさ」

「そうだけど……」

 あいつらと言ってはみたが、それが具体的に誰を指すかはそらにもよく分かっていない。2人が駆けつけたときには店に残ってたのは夕子だけだったからだ。電話をかけてきた低い声の男が言うところの説教された男も、説教をしたという当の本人も、そして、店の物に当たり散らしたという若い衆の姿もなかった。

 夕子はカウンターの中でさめざめと泣いていたが、娘の顔を見て安堵したのか、何も言わずに気を失ってしまった。おかげで事情は今ひとつハッキリしないままだ。

「とにかく、お義母さんに怪我がなくてよかった。それに、こうなったからにはお義母さんだって宮下とのことを考え直してくれるに違いない――そうだろう、そら?」

 笑顔だったが喬生の口調には有無を言わせないところがあった。議論をしても始まらないし、そらがすぐ考え込んでしまう性格なのを知っているからでもあった。

 そらは小さな溜め息の後、かすかに笑みを浮かべた。

「授業料は高かったけどね」

「ウチのお客さんで店舗用什器のリサイクル・ショップやってる人がいるから、安く譲ってもらえそうなものがないか、訊いておくよ」

「ごめんね、喬生さん」

「謝る必要はないさ。そらのお母さんってことは僕のお母さんでもあるんだ」

「ありがと……」

 そらは胸が熱くなるのを感じた。

 しかし、それに入口の戸を引き開ける音と身がすくむほどの冷気、そして、冷水をぶっかけるような声が割り込んだ。

「――なんだ、夕子はいねえのか」

 宮下収だった。

 ただし、先に声でそう認識していなかったら誰だか分からなかったかもしれない。それくらい、宮下の顔は腫れ上がって変形してしまっていた。何処かで手当てを受けてきたのか、頬には大きな絆創膏、頭には包帯が派手に巻かれている。

「ずいぶん、こっぴどくやられたみたいですね」

 喬生は宮下の顔ではなく、足の運びを見て言った。

 いつもの無駄に威勢のいい様子は影を潜めて、まるで両脚をコントロールする神経同士が競合しているようにヨタヨタした歩き方だ。今でこそ腕っぷしの強さとは無縁そうな顔をしているが、喬生にも若気の至りでやんちゃをしていた時代がある。腹筋が強張ってしまうほど腹を殴られるとこうなることは知っていた。

「……うるせえよ。あいつらは何処行った?」

「あいつら?」

 侮蔑の表情でそらが返す。宮下は口の中で小さな舌打ちをした。それ以上の大きな動きは口内の裂傷が許さなかった。

「……知らねえならいい。じゃあな」

 入口で踵を返そうとする。そらはそれを呼び止めた。

「ちょっと待ちなさいよ」

「なんだ?」

「あたしはママがあんたとヨリを戻したのを認めてないけど、それでも付き合ってたんでしょ。あんたがここから逃げ出した後、ママがどうなったかは気にならないの?」

 低い声の男がそらに電話をかけた後、ここで何があったかはそらには分からない。ただ、1つだけ言えることがあった。電話の男たちが帰った後に宮下が店を出たのなら、さっきの「あいつらは何処に?」という質問は出てこない。それは宮下が夕子を置き去りにして自分だけ窮地から逃れたことを意味している。

「つまんない男だとは思ってたけど、ここまで最低だとは思わなかった」

 押し黙る宮下に向かってそらは吐き捨てた。

 そらの表情に憤怒はなかった。さっきのような侮蔑も消え失せていた。すっかり感情が削げ落ちた能面のような怜悧さに重なるのは嘲笑だった。

「うるせえよ、小娘が。――ほらよ、とっとけ」

 宮下はギクシャクした動きで懐から封筒を取り出すと、それをそらの足元辺りに投げ捨てた。コンビニエンス・ストアのATMの脇に置いてある代物だ。床に落ちるときのペシャリという音は中身がそれなりに入っていることを示している。

「何よ、これ?」

「店の修理代だ。こんなボロい店、修理なんかしたって無駄だろうがな。ちゃんと払ったんだ、警察になんか駆け込むんじゃねえぞ」

「壊したのはあんたを痛めつけた連中なんだから、あんたが払うのは筋違いなんじゃないの? それとも何、あたしがその連中を捜し出して損害賠償請求なんかしたらあんたの立場が悪くなるとか?」

「何だと、テメエ?」

「――そら」

 喬生がそっとそらの腕に触れる。そらは夫の顔を見やって小さく笑った。宮下はしらけたように鼻を鳴らした。

「余計なことをゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ。黙ってとっとけ」

 そう言い残して宮下は店を出て行った。枠から外れるほどの勢いで戸を叩きつけていったのはせめてもの腹いせだろう。

 そらは足元の封筒を取り上げて中身を確かめた。一緒に入っていた払い出しの明細によれば金額は30万円で、実際にそれくらいの厚みだ。口座の残額はあと数百円しかない。

 そらは盛大な溜め息をついた。

 店の修理に幾ら必要なのかは見積もりをとってみなくては分からないけれど、母の蓄えで足りなければ自分が何とかしてもいい。宮下のカネになど頼る必要はないし、第一、そらは宮下に責任を負ったような顔をさせたくなかった。そんなに早くは歩けないだろうから追いかけて行って、手切れ金の代わりだと叩き返したいのが本音だ。

 しかし、そらはその封筒をカウンターの上に放った。そんなことを考えるのも嫌になるほど疲れきっていたからだ。

 

 

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